日本語版『林語堂全集』を目指して

(2)統一


 私が指摘する中国の統一の問題とは、他でもなく中国共産党の問題に他ならない。私は「内戦」に関する章において、アメリカ国民の前に、対立の原因と起源、多くの歪曲された視点は、事例の一方的な発表から生じているという事実の報告をすでに行った。ここでは、中国共産党の性質と対立への可能性のある解決策について論じる。


 だがまずは、孫科博士に対立の概要を述べてもらうのが良いだろう。孫博士は中国共産党に同情的で寛容であり、平和的解決を望んでいる。共産党にとって孫博士は、探し得る限り最も公平な国民党内の批評家である。


 現状と対立の歴史について彼はこう書いている。


 


   実のところ、国家の自治区の特定範囲で機能する政府として別に組織され、共産党のみに責任を負う軍隊によって占領された地域の与党として政権を握る共産党勢力は、「国家の内部における国家」以外の何物でもない。それは口先では国民政府に好意的なことを述べるが、陝西省北部・甘粛省東部・寧夏省南東部の不規則な地域にある約24の県を取り囲む、いわゆる「陝甘寧辺区」は独自の政府を組織し、省および地方行政を定める国内法に違反して支配している。国民政府の法令および行政院の命令は、共産区の中では影響と有効性を持たない。辺区政権は自ら税を徴収し、自ら紙幣を印刷している。国内の他地域との銀行業務と商取引は、政府専売として続けられている...。


   戦争初期に国軍に併合された共産軍は、いくつかの予備隊による三個師団だけで、全部でおよそ4万~5万人であった。これらは、第八路軍として再編成され、のちに第十八集団軍と名称を変えた。この軍は、今では巨大な規模に増大した。その人員は一般に、およそ50万人であると認められている。そのような拡大は、最高司令部の命令に関係なく生じている。実際、この数年間、山西省、綏遠省、河北省、河南省、山東省、甘粛省北部におけるこの軍隊の活動は、最高司令部から全く独立していた。最高司令部の要望と命令に最低限の配慮を払うことなく、共産軍は彼ら自身の指導者のもと、自らの責任のもとに行動する。名目上、彼らはまだ中国の国軍の一部だが、実際は独立した別の軍隊である。


   共産党八路軍は、当初指定された交戦地帯として陝西省北部、綏遠省東部、チャハル省、河北省北部を割り当てられ、敵に対して指示通りに動くことになっていた。河南省、山東省、安徽省、江蘇省は他の中国軍に割り当てられた。しかし、命令に従って行動する代わりに、八路軍は他の指揮管轄地帯に非正規部隊を入れて組織することによって、自らの拡張主義的な計画を進めた。摩擦は回避不能であり、時として同胞殺しが発生した。他の中央政府の部隊は順々に、河北省南部、河南省北部、山東省北部、江蘇省北部から追い出された。第十八軍と主張する非正規部隊は、湖北省や安徽省と同じくらいはるか南からも見つかった。


そして、南京南方のゲリラ戦のために、揚子江南部の様々な共産部隊の残党から組織された新四軍があった。1940年の秋、最高司令部は八路軍に黄河北岸に退却し、新四軍に揚子江を渡って江蘇省北部に向かうように命令した。命令実施の定められた日付は繰り返し延期されたが、それは無駄なことだった。新四軍は、北上して揚子江を渡る代わりに、命令に反して南下し、他の部隊と衝突した。結果は不幸であった。新四軍の指揮官は捕えられ、その部隊は分散され、武装解除された。最高司令部はその解散を命じた。延安の中共中央は、新四軍に新任の指揮官を任命することで、最高司令部の命令を取り消した。この事件は非常に悪い流血を引き起こし、政府と共産党の間に適切な解決策を実現できない状況をもたらした。(孫科『中国の前途』、85-86頁)


 


 中国共産党の支配の性質を真に理解するには、問題に対する高度に理知的な評価が必要とされる。疑うまでもなく、ある意味で共産党は「民主的」である。だが、今日、言葉はその意味を失い、混乱を増している。共産党が民主的なのは、彼らが常に理論的に労働者と農民の権利を支持し、重慶よりも前に進んで自治のために人々を組織し、労働組合、農業組合、婦人組合を持ち、地主と対決する小作人を支持し、借金の利息を減らそうとするその感覚においてのみである。これらはデモクラシーの相貌である。彼らはソヴィエト・ロシアが民主的であるという感覚において民主的である。ちょうどロシアにおけるソヴィエト支配が独裁であるように、中国におけるソヴィエト体制も確かに独裁であり、それは独裁のあらゆる強みと悪を持っている。せいぜいそれは、「全体主義デモクラシー」あるいは「民主的全体主義」――そのような語句が何を意味するのか私にはわからないが――と述べることができるに過ぎない。民主的全体主義あるいは人民の利益のために奉仕する全体主義国家は、ソヴィエト・ロシアにおいて十二分に例示されているように、確かに改革計画を達成するための強さと能力を持っている。問題は、中国が求めているのはどのような種類のデモクラシーなのかということだ。


 人々の生活に対する管理監督がより厳格であるため、中国共産政権は重慶政府よりも徹底的に人的および物的資源を動員することができた。そこには言論の自由もなければ、信仰の自由もない。人々は統制、恐怖、特務機関、軍および民政の地方の人民委員によって支配され、ぎこちない普通選挙という「芝居」を演じさせられる。敢えて異議を唱える者、あるいは協力を拒否する者は脅迫される。党紀の完全な履行が強要され、党がすべてを支配し、党員には高度な特権がある。激烈で悪辣な「追放」「粛清」が行われる。そして最後に、地主と雇い主に取って代わって国家の支配者になる。従って、人々は恐怖によって支配される。重慶では、すべての階級の人々が公的な場で政府を批判することができる。しかし、共産区では、農民は誰もが体制を「称賛し」、それに対して何も言うことができない。占領地域における共産党支配下の農民の変質は、あらゆる報告から、明白で疑う余地のない事実である。体制の最後の試金石は、人々がその体制に対抗して敢えて話すことができるかどうかであり、それこそが、我々が「デモクラシー」によって意味するものの最良の試金石である。その体制を完全無欠な体制として「称賛しなかった」農民を見つけることができたという、延安から帰ってきた海外特派員の報告をぜひとも聞きたいものである。


 私は、共産党が恥じることのない自らのレッテルに対して、彼らが固執することを願っている。確かに「デモクラシー」によって、我々はこれと異なる何かを意味している。中国は今、ロシア型とアングロサクソン型のどちらのモデルを選んで西洋を模倣するか躊躇する国家として、まさに決断する十字路に立っている。条件を対照区別するように、この二つのモデル、あるいは「共産主義」と「デモクラシー」について語るならば、それは明快になるだろう。


 したがって、中国共産党の真実の性格が認識されなければならない。この点について、エドガー・スノーが関連することを述べている。『アジアの戦争』で彼は以下のように言っている。


 


   中国の出版人、宣教師、その他の中国びいきの人々は、中国の共産主義者は「本当の共産主義者」ではないということを世界に信じさせるために最善を尽くし、蒋介石自身は最近、ドイツの通信員に「中国に共産主義者はいない」と話した。かつて英国大使のアーチバルド・クラーク・カー卿は、中国の共産主義者は本当のケア・ハーディ主義者(19世紀の農地民主活動家)であると私に言ったことがあるが、彼らの名前が保守派を必要以上に怖がらせたのは残念だった。中国の紅軍は現在、デモクラシーと国家独立のために戦っており、彼らはボルシェヴィキであるはずがなく、「農民改革政党」であるに過ぎないと考える一部の人々もいる。すべてのこれらの人々が、このような解釈と、コミンテルンに対する中国共産党の忠実な忠誠をどのように一致させるのかは私にはわからない。


   だが、毛沢東に対する私の理解が正しければ、マルクス主義に投げかけられるこれらの中傷に彼は困らないだろう。彼はくすくす笑いながら、反スターリンの中国びいきでありたい自由主義者の感情の矛盾を解決することができるならば、アメリカが日本を武装させるのを止め、中国と八路軍が勝利を得るのを助ける限りにおいて、彼らは彼を彼らが好きなように呼ぶだろうと言う。


   この問題への私の個人的な感覚では、中国の共産主義者は「異なる」もので、「単なる土地改革者」であり、彼らの計画を成し遂げるために革命的な方法を捨てたのだという希望を積み上げてきた自由主義者は、最終的な幻滅へと運命づけられている。革命の民族統一戦線の段階にあるため、これらの人間は民族主義者であり、誰かの操り人形として埋没することを恐れない自らの権利において、彼らは恐らく十分に強い。しかし、彼らの宗教は国際的な社会主義のままであり、状況が変わるならば、「歴史の牽引車」になるために必要だと信じるいかなる方法でも、彼らは採用するかもしれない。(エドガー・スノー『アジアの戦争』、290-291頁)


  


   最近の党の公式発表において、政治局員で前ソヴィエト政府副主席の王稼祥は、「終始一貫して、中国の共産主義者は社会主義の信奉者である」と書いた(1939年)。「彼らは決してマルクス・レーニン主義の理想と理論を断念することはない。中国の共産主義者の全体綱領は、二つの部分から成る。(1)最大限の綱領、資本主義の打倒と社会主義の樹立と階級を除去を通じた急進的な解放、(2)最小限の差し迫った民族民主革命の綱領......社会主義を認識するために、中国のプロレタリアートは、まず第一に、中国人民の解放を確保しなければならない......」(エドガー・スノー『アジアの戦争』、294-295頁からの引用)


 


 これは1940年に書かれ、1941年に出版された。おそらく最も面白い部分は、広く異なる方法と戦術についてのエドガー・スノーの所見である。中国の共産主義者には、日本の「満州国」開拓に対するスターリン認識を守る中国の共産主義者を含む、アメリカの共産主義を恥じるアメリカの共産主義者と同じように、過去7年間、多くの突然のカメレオンのような変化があった。彼らは今、再び戦略を変更し、統一戦線を破壊して重慶を積極的に攻撃している。そして、仲間に合流することを決定した後には、再び戦術を変更するだろう。しかし、どのように戦略が変わるとしても、マルクス主義のイデオロギーを反転させる、あるいは彼らの旗から鎌を降ろしたり、崇拝の場からスターリンとレーニンの肖像を降ろしたりすることは難しいということを彼らは知ることになるだろう。20年間、彼らのメンバーの心に教え込まれた思想は、ある種の嘲笑の感覚なしに、彼らの指導者によって突然非難されることはできない。おそらく彼らは、「科学的マルクス・レーニン主義」が西洋の社会哲学とルナチャルスキーの文芸批評の最先端の言葉であることを知らない、遅れたアングロサクソンの民主主義者に向けて、彼らのマルクス主義哲学を地下で維持しながら、謙る上辺だけの素振りとして、全体主義の指導者がそうできるように、そのような反転を行い、強制し、ロシアの肖像画やソヴィエトの旗を降ろすことさえできるかもしれない。しかし、1943年と同じころ、Chen Pai-taは彼の『蒋介石著「中国の命運」への批評』において、なお誇りをもって次のように彼の旗を翻している、「我々マルクス主義者は通常、彼らの政治的意図を隠そうとする人々を軽蔑する」。(『The Communist』再版、4頁、1944年1月、ニューヨーク)


 中国共産党の性質に対する私自身の推定は以下の通りである。それは西洋デモクラシーの労働党のそれらと同じ目的を持ち、さらに加えて全体主義独裁のイデオロギー、手法、組織、装備を持つ党である。それは以下の特徴がある。言葉のレーニン主義的な意味において、「第一に、それは共産主義者ではない」。つまり、現代のソヴィエト・ロシアよりも共産主義者が純粋に共産主義者であることはあり得ないのだ。イデオロギーにおいて「第二に、それはマルクス主義者である」。すなわち、その知的展望すべては、唯物論的な弁証法に基づいている。それは階級闘争と社会革命の必然性を信じている。それは、宗教、家族、すべての資本主義の制度にとって不都合である。それは共産主義の記号とマルクス主義の決まり文句で語り、考える。共産主義者の作家は、「奥伏赫変(ドイツ語のアウフヘーベン)」「普羅塔利亜(プロレタリアート)」「プチブルジョワ習慣」「中国化された科学的マルクス・レーニン主義」などのような外来語に溺れる。中国では、資本主義の制度へのこの反対勢力は、先鋭的な反儒教の形をとる。したがって、「第三に、それは思想における反民族主義者である」。中国共産党とすべての共産主義文学は、中国の過去の社会構造とすべての伝統を完全に根こそぎにするためにある。孫逸仙夫人はよく次のように共産主義者の姿勢について要約している。「孔子の教えは徹頭徹尾、封建主義的で独裁的である。孔子の影響がいかに我々の芸術、文学、社会科学、道徳に深く埋め込まれたかについて、我々は理解しなければならない。我々は人生と思考の至るところから、孔子の思想を根こそぎにする大いなる努力をしなければならない」(エドガー・スノー『アジアの戦争』、224頁からの引用、イタリック体は著者による)。「第四に、それは全体主義独裁である」、そして、その手法とやり方はロシアのモデルからコピーされている。党はすべての上に立って支配し、党の部員があらゆる軍および民政組織を貫徹し、コントロールする。それはどんな批評家でも「トロツキー主義者」と呼んで、ロシアのシベリアに相当する中国の無人の原始的な地方に植民として彼らを送る。それには同じ監視と対監視スパイ・システムがあり、同じように洗練された不正なやり方で我々に実行される、「追放」と「粛清」がある。それは夜に同じ「小集団の」会議を開き、ソヴィエト裁判の供述書と驚くほど類似している「供述書」と自己非難(王実味の場合のように)さえ手に入れる*。「第五に、それは最後の日までコミンテルンに忠誠を負っている」。たとえコミンテルンが中国共産党のことをどのように考えたとしても、後者はその母を非常に良く思っている。しかし、今や、母の死によって孤児となり、必死の努力でいくつかの他の西洋の国を自分の父にしようとしている。


 実際には、状況が予見できないほど恐ろしいことではない。中国共産党は、国民党の筋書きによってではなく、この戦争の出来事の形によって、変化の過程に巻き込まれている。アメリカに戦争援助を求めて受け始めた時、ロシアは違った話をし始めた。アメリカの援助と必需品が彼らによって所望されるならば、中国共産党もそうする。資本主義の強奪者と帝国主義の虐殺者に対する彼らの攻撃の色調はかなり軟化するだろう。マルクス主義思想はトム・ペインやトーマス・ジェファーソンの言葉によってではなく、事件とそれを見るのに十分現実的な共産主義の指導者の力によって修正されている。この戦争の最も興味深い教訓の一つは、国民(国家)本能が階級よりも深いということである。マルクスの弁証法によれば、ドイツ共産党はスターリンの役に立たなければならなかったが、そうならなかった。イギリスは資本主義の親和性のために、ドイツと共にロシアと戦わなければならなかったが、そうしなかった。アメリカの労働者は、スターリンとヒトラーの協定期間およびその後において、モスクワに対するアメリカ共産党の忠誠心をヨーロッパ戦争に対する態度で承認しなければならなかったが、それは彼らの評判を落とした。ロシア自身はコミンテルンと共に歩まなければならないはずだったが、それを解散した。ちょうどロシアが――マルクス主義から離れて――デモクラシー、ナショナリズム、私有財産、家族、教会の方へと向かう中で、現実的な中国の共産主義者もそうするだろう。ちょうどロシアが現在、「インターナショナル」の代わりに古代の国民的英雄の歌を歌い始める中で、中国の共産主義者は時を同じくして家族と儒教に回帰するだろう。彼らが言うには、彼らが試みようとしていたすべては、ジェファーソン流のデモクラシーを模倣することであり、プロレタリアート独裁を決して意味していないという。彼らがジェファーソン主義を主張して「いた」のならば、それは中国のヒューマニズムと中国思想の伝統的な性格に非常に近いため、「異国のもの」としては認識されないだろう。残念なことに、マルクス主義は中国人の耳には「異国のもの」として聞こえ、中国の家族と儒教と自分自身の歴史的遺産への誇りはそれらに対してあまりに強い。彼らは今後、私が言ったように、国民党の陳立夫教育部長のように、親儒教的な親民族主義者になるだろう。この激烈で、不自然な反ナショナリズムは長く続くことはできない。そのように歴史は人間が心に抱く考え方にいたずらをする。


 最後に、中国国民全体の視点では、中国における赤色(共産主義)政権の性格は、アメリカ人に見えるものとは大きく異なっていることに留意しなければならない。多くの中国人が国民党に無関心で冷淡であるのと同じように、彼らは中国における赤色政権をあまり気にしていない。多くの中国の若者がいわゆる左翼であり、重慶においてさえ強固であるのは事実である。これは、およそ20年間におよぶロシア思想の影響に起因する。過去20年間、作家の大多数の傾向は明らかに左に向かっていた。しかし、いわゆる左翼の多くは、それが流行であるため、また、彼らが加わらなければならない左翼からの協調した攻撃を避けるためにそうであるに過ぎない。それよりもっと重要な、彼らが左翼を支持する理由は、彼らが本当は秘密の共産党員であるためではなく、国民党支配の失敗に対する彼らの不満のためである。これらの人々は、すべての若者と同じように進歩的で「革命的」であり、ついでに言えば、たとえ中国に対する共産主義の支配にすべてを尽くしていないとしても、彼らは全員がマルクスの唯物論と経済決定論を哲学として受容している。中国で現在30歳を超える作家は、1920年代の学生時代に共産主義文学だけを読んだ*。たとえ彼らが、社会哲学の視点と一般的展望の成熟度を欠いていたとしても、彼らを非難することはできない。なぜなら中国では、新しく紹介されるものは何でも、西洋科学の最新の言葉であると見なされる傾向があり、それが彼らが今日マルクスの唯物論的弁証法を信じている理由である。科学においては、彼らは依然として19世紀の機械的物理学を信じている。心理学においては、最も先進的な解釈を代表するジークムント・フロイトを信じている。歴史においては、流行はすべての人類の出来事の経済的要因を語ることである。文学では、アプトン・シンクレアが現代アメリカの最も重要な作家だと彼らは思っている。彼らの西洋に関する知識は、彼らが利用できる翻訳によって必然的に制限されている。したがって、彼らは西洋の思想よりも一般に20年遅れているが、ナショナリズムと資本主義デモクラシー制度への方向転換においては、ソヴィエト・ロシアよりも約10年遅れている。孔子のヒューマニズムは、考え方における封建主義として馬鹿にされるだけだと言われている。中国の共産主義者の中、あるいは左派の中においてさえも、英語教育あるいは米語教育を受けた中国人作家を一人も数えることができないというのは、注意すべき衝撃的なことである。米国や英国、特に英国で教育を受けた人々は、伝統や文化的価値観をより尊重しているため、容易に保守的な進化の見解に同意する。彼らは一つではなく、いくつかの社会哲学を聞いたことがある。彼らの学歴はより良いものになり、彼らの批判の感性はより良く発達している。もし毛沢東がハーバード大学の博士であり、あるいは朱徳将軍がウエストポイント(陸軍士官学校)の卒業生であるならば、彼らのどちらも、西洋「科学」の最新の福音としてマルクス主義にあれほどまでにのめり込むことはなかっただろう。


 しかし、平均的な中国国民にとって、赤色政権に関する彼らの概念は、通訳としての共産主義者の若者に依存する、アメリカ人の旅行者の本に基づいているのではなく、過去18年間にそのもとに住んでいた友人や親戚の個人的な話に基づいている。彼らは江西、安徽、福建、湖南における赤色政権と恐怖支配を、そして、戦前の瀏陽、醴陵、長沙ならびに占領地における現体制による戦慄の大虐殺を耳にしている。彼らの印象は、概して彼らとは無縁の何かであり、血の大虐殺、大量処刑、行政官を支配する人民委員と田舎の家庭に侵入するスパイ、家族の崩壊、夫に背を向ける妻、父に対抗する息子、兄弟に対抗する兄弟、通りで虐殺された70歳の祖母の隠れ場所を密告する15歳の男の子によって特徴づけられる政権である。最終的にそれは、人々の生活と考え方の最大限の統制と、4000年にわたる中国の歴史で知られてきた個人の自由の抑圧によって特徴づけられる。彼らは中国共産党政権について、『中国の赤い星』を読むことを通じてではなく、100人の命と1,000人の死を経験することによって学んだ。中国における真に全体主義的な体制と本当に徹底した一党独裁政権は、延安にあるのでであって、重慶にあるのではない。


 政府は、共産党の問題は政治的なものであり、政治的手段によって解決されるものであると賢明かつ明確に判断した。1943年には、韓徳勤(江蘇省政府主席)を捕虜にしたことを含むいくつかの深刻な紛争の後、共産軍の朱徳司令官が公式に謝罪を述べたように、共産党の問題は国民参政会と国民党十一中全会で正式に議論された。同様の決定は以下の中において具体化された。(1)1943年9月13日の十一中全会前の蒋介石主席の教書、(2)同日付の、中国共産党が戦争を妨害し国家を危険にさらす場合の報告に関する国民党十一中全会の決議、(3)1943年9月26日、第十八集団軍(八路軍)に関する軍事報告の一部に関する国民参政会の決議。はじめの二つは、「軍事分離主義の行動を捨て、国軍を攻撃し戦争を妨害する過去の活動を停止することを望むこと以外に、中国共産党に対する要求はない」と宣言している。国民参政会は希望として、「中国共産党と第十八集団軍は、過去6年間のわが軍と国民の犠牲と、今後の国家再建において我々が直面する困難な任務を認識し、彼らの誓約を果たし、厳格な規律を守り、二度と国家統一を妨げ戦争に影響を及ぼす行動をしてはならない」と述べた。三つすべてが、以下のことを要望していた。「1937年の彼らの宣言に従って行動し、宣言の記載の4点を実行すること。(1)彼らは三民主義の実現のために戦う、(2)彼らは国民党政権の崩壊のための暴力政策と共産主義運動を止め、暴力の力で地主の土地を没収する政策を止める、(3)彼らは現在のソヴィエト政府を廃止し、民主的な政治原則を実行し、国民(国家)の政治的団結を確立することを目指す、そして、(4)彼らは紅軍と外国の名称を廃止し、国民革命軍として再編成され、国民政府軍事委員会の命令を受けて、抗日戦線の任務に自らを動員する準備を整える」。国民党の決議では、「他の問題については、現在の会議において、国民大会での議論と解決のために立ち上げることができるならば、戦争終結の1年後に国民大会が開催され、憲法が公布されることがすでに決まっている」と言っている。前線からの公式な電報に掲載されている戦争妨害の顕著な事例のいくつかに関する、国民参政会への軍事委員会の簡潔な公式報告が、個人的な流通のためだけの特別なパンフレットとして発表された。


 これが健全で明確な方針であり、内戦についての不十分な論争を解決するための他のいかなる方針もないと私は信じている。中国共産党は、彼ら独自の政権を設立するにあたって、言行一致の信念から逸脱してそうしたが、彼らの目的は多くの一次生産者を改善することである。この基本的な目的の上で、違いの基盤はない。国民党と中国共産党の違いは、段階的な改革にせよ方法にせよ、政治的な違いを民主的手段で解決すべきかどうかという、社会革命を実行する方法にある。中国人の妥協の本能は強い。中国共産党がたとえこれまで何をしたとしても、彼らが残りの国民と結びつく気があるならば、すべては許されるだろう。この問題の解決策について、孫科博士は次のように述べている。


 


   中国における共産主義問題の解決策は2つしかない......国民党や軍の数人の性急な者たちを除けば、問題の軍事的解決への反対はほとんど普遍的なものである。国民党中央執行委員会全体会議では、1942年、そして再び1943年に、政治的、平和的手段による行き詰まりの納得のいく終結をもたらすことを繰り返し決定した......。


   国民党は与党として、国民大会の召集が党による訓政の終結と国民への主権の返還を意味するという誓約を、公式に厳粛に公表した。最高司令官蒋介石は、国民党の指導者ならびに中華民国主席として、中国が言葉の完全な意味でのデモクラシー国家になると世界に明快に断言した。彼は十一中全会前の開会の辞において、制憲国民大会によってこの国に憲法が制定されれば、国民党は他のあらゆる党と平等の地位へ退くと間違いなく明言した。この点について、彼自身の言葉を引用して結論を出そう。「憲政の施行後、我が党は国民に政府を引き渡さなければならない......。憲政の施行後、我が党は他の一般政党や一般市民と平等の法的基盤の上に置かれ、平等の特権および権利を享受し、平等な義務を果たし、法律に基づいて集会・結社・言論および出版の自由の原則のもとで、国家から平等の取り扱いを受けなければならない。(前掲、87-89頁)


 


 だが、まだ究極の問題が残っている。政治的デモクラシーはゆっくりと育っていくものであり、まるでデモクラシーが一晩で人に与えることができるかのように、アメリカ人は紙の憲法の宣言に期待し過ぎてはいけない。すべての共和国の歴史と同じように、戦いが先行するだろう。デモクラシーが根付いている米国では、国家が変革の過程にある中国における共産主義の脅威はほとんど知られていない。率直に言えば、米国に二大政党があり、第二の政党が多かれ少なかれ同じ信念と理念を共有する共和党や民主党ではなく、強力なアメリカ共産党であり、国の現状が依然として流動性と不確実性を持っていれば、中国が共産党軍に支えられた共産党に憲法上の自由を与えることにアメリカ人は不安を感じることはあまりないだろう。


 政府は戦後、約束した憲法を宣言し、分離主義者の軍の廃止を要求するであろうことを私は確信している。最初の動きは政府によって行われなければならず、選択は共産党に与えられた。そして、分離主義と統一のどちらを選択するかは共産党次第であり、その選択には、国家統一に向かって中国の進歩が急速に早まるか遅くなるかがかかっている。答えが離脱であれば、政府は国家を一つの不可分のものとして保つか、それとも近代国家において別々の軍によって支えられた別々の政権を容認するかの選択をしなければならない。アメリカの共和国は1860年に離脱と統一の問題に直面しなければならなかったが、中国の国家は、現在、同じ問題に直面している。


 1944年8月5日、重慶の『大公報』は、記者団が延安を訪問して帰国してから書いた、共産主義問題の解決に関する重要な論説を発表した。私はそれを、共産主義問題全般に関する中国国民の視点の最善の要約であると考えている。それは国の意見を代表するものであり、私はそれに完全に同意する。周知のように『大公報』は無党派の新聞である。それは信頼できる権威であり、現在の中国のジャーナリズムの最先端をあらわしており、時折、政府の措置や政策を恐れることなく、十分に、知的に批判してきた。中国共産党に対する丁重な制止のその調子は、重慶の新聞で見かける典型的なものであり、現在の中国の指導部の統一と支持を擁護しながら、政権と延安の反対勢力の双方の改革を促している。威厳のある冷静で誠実なこの論説の行間に、多くのことが読み取られることだろう。


 


   西北への記者団は、主に延安を見たいと望んでいた重慶の海外特派員の要請により手配された。本紙の代表者を含む中国の記者も同行した。陝西省北部での43日間の滞在中に、すべてを見ることは全く不可能であり、彼らが得た描写は慌ただしいものであった。さらに、中国の新聞でこの旅について印刷されたものは、印刷する意志がないか、もしくは印刷できないために、全体像を示していない。延安報告のこれらの欠点に、読者は気づいたはずである。我々はここに、延安の旅の報告から得た結論を示したいと思う。


   我々が巻き込まれている世界大戦は、デモクラシー諸国と枢軸国の侵略者との間で行われているものである。中国の伝統的精神は民主的であり、中国の(国民)国家が創設された原則も同様である。枢軸国の侵略に対して先頭に立って武力を行使している国民党ならびに国民政府は、憲政に向けて中国のデモクラシーの理想を実行することが彼らの方針であることを繰り返し宣言している。中国共産党も同様に、デモクラシーの実現のために奮闘するという目標を掲げている。これらすべての兆候は、中国とその二つの主要政党が、デモクラシーへと向かう世界の行進に追いつこうとしていることを示している。


   今日の延安は、中国共産党の中枢部である。たとえ不完全であっても、そこでは共産主義活動の典型的なものが見られる。最も印象的なのは、延安で見られたすべての活動の背後には、動機づけをする党としての中国共産党がいるということである。これは党の万能性を示すものであり、共産党は特に政治的、軍事的な事柄に対しては、ほとんど全権委任の権力を彼らの党が執行することを強く要求する。他の何よりも自分の党の利益を自然に保持しようとする共産党の立場から見れば、これに批判の余地はないようである。しかし、デモクラシーを愛する国民の立場から見ると、延安の中に存在する状況のどこかに何か間違ったものがあると感じずにはいられない。個人の自由を失わなければ、あるいは完全に犠牲にしなければ、党の権力を最高のものにすることはできない。党をすべての上に置くというこの権力は、個人の自由の尊重を第一に強調するデモクラシーの原則に反する。


   他のすべての民主的な国には政党が存在するが、それらの政党は憲法の範囲内で活動する。彼らは政権選択のための開かれた、法律に基づいた選挙運動で互いに争う。政治的対立にもかかわらず、各党の間において、党および党員同士に相互尊重の精神がある。真のデモクラシーの立場から見ると、中国に存在する政党の問題には、非常に多くの要望があると我々は感じている。党の権威に置かれるそのような無条件の強調よりもむしろ、個人に多くの尊重が払われなければならない。


   革命、抵抗、国家再建を成し遂げるためには、統一国家にならなければならないという単純な理由から、今日の中国は統一国家である。これらの重要な国益のために国家統一を支持し、いかなる分裂にも反対するために全力を尽くす以外の選択肢は我々にはない。国民政府と蒋介石主席は、この不可欠な国家統一の中心点を構成している。この中心点は、30年以上の激しい闘争と中国国民の多くの流血によって達成されたものであるため、多くの中国人の心にとって最も大切にすべきものである。国益のために、一般市民としては、中国がまもなく戦争に勝利を収め、国家再建を成し遂げることを期待して、この中心点を支え、強化するために正直に最善を尽くさざるを得ない。この中心点が崩壊し、苦難と流血の数十年前に国家とその国民を引き戻すことは考えられないことである。


   7年間の激しい戦いを通じて、中国は今、主要国と対等の地位を実現し、早期の勝利を展望している。これは、大部分は国民政府と蒋介石主席の功績に帰せられるべきものである。最終的な勝利が来るまでは、我々は戦わなければならない。戦後の世界では、再建計画の完成と国家動員のために努力しなければならない。これらのすべての努力において、国家指導部のこの中心点は不可欠であろう。それを新しいものと取り替えることは、再び中国を半植民地の逆行的な状態に突き落とす可能性がある。その後に続いてはならないものとして、ユーゴスラビアとチトー元帥の事例が我々に警告を与えている。中央政府に一定の欠点がある場合は、完全な転覆ではなく、改革を促すべきである。


   いかなる国家の政府も、法または論理によって、国家内の別の政府の存在、国軍制度とは独立した軍隊を持つ他の組織の存在を容認することはできない。軍司令部の統一と政治的統治の統一を主張する中国の中央政府の権利は、疑問の余地がない。公民として純粋に、我々はこの綱領を支持する。それと同時に、我々は国民政府がその道徳的責務をより完全に果たすことを期待する。政府は、孫逸仙博士の説明によれば、人事を処理する組織である。そのような事柄を効率的に処理するためには、政府は人々の問題を解決することができなければならない。政府は、政治的、軍事的、法的なすべてのことを義務づけられ、また道徳的に義務づけられなければならない。それゆえに、我々は国民政府を支持し、同時にそれが欠点を克服し、政権の改善を求めることを望む。


延安訪問の間、中国人記者の立場は、海外特派員のそれと全く同じであるというわけではなかった。延安は中国の都市であり、そこの共産主義者たちはすべて我々の同国人である。我々の記者たちは、中国の都市を訪れる中国人として延安を訪れ、兄弟たちと会う兄弟として共産主義者たちに会った。


延安への旅の中で記者団が聞いたものから判断すると、明らかに、国家の統一と強さにとって有害な政治的問題が存在していた。「この問題の解決は可能か?」と尋ねるのが自然である。解決が可能とならなければならないという単純な理由から、我々の答えは明らかに肯定的である。1年以上経過してもほとんど進展は見られないものの、国民党十一中全会で採択された決議案は、政治的解決策を模索することを最適としている。林祖涵*(共産党の代表)が重慶にいる今こそが、満足のいく解決に至る好機である。


政治的解決は、空約束を意味するものではない。法的手段によって憲政を樹立するという国民党と国民政府側の決定によって、その最終的な実現への道が拓かれた。両党間の紛争は自動的に消滅し、中国の紅軍として知られていたものは国有化されることになる。国家統一と両党間の協力が保証されることになる。


デモクラシーは世界政治の原動力になっている。それは本当に国家の進歩と政治的な効率のための最も効果的な制度である。すべての人種の複雑化と政党間の意見の相違がデモクラシーによって解消されるアメリカにおいて、その最も顕著な例が見つかっている。今日、アメリカは連合国の主要国である。これは、デモクラシーのおかげで、その歴史の中で最も重大な段階を通過することができ、現在、最終的な勝利に近づいている英国においても、同じことが成り立っている。世界はデモクラシーへの道を歩んでいる。中国がそうである。(『Contemporary China』再版、1944年9月4日、Chinese News Agency刊、ニューヨーク)


 


 政治的感覚とは、現在の行動、政策、同時代の趨勢によって形成された出来事のより大きな姿に対する、知的な先見性を意味する。一部の人々はこの政治的感覚を持っており、一部はそうでない。中国の統一の問題に対する現在のアメリカの態度が重大な結果をもたらすことは明らかである。そのような結果は慎重に考慮されるべきであり、その選択は賢く軽重を問われるべきである。十分に無謀な話があり、中国共産党政権のために誇張された主張がなされている。ワシントンにその正式な承認を重慶から延安へと変えさせることができない一部のアメリカ人が、英国人がジンナーのインド分割の要求に同情的であるのと同じ方法で、ミハイロヴィチとチトーへの言及によって提案されるものとして、中国における二つの別々の国家の承認のために運動していることは、十分にあり得ることである。1944年7月26日のニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の特電によれば、共産党は公然と公的に、陝西北部だけでなく、山西、河北、山東の全域、北は内モンゴルから南は海南島に至るまでの、「根拠地」がある河南、安徽、湖北、江蘇、浙江、広東の領域を含むすべての占領地への要求を強く求めており、ジンナーがインドの9,000万人のイスラム教徒の忠誠を要求しているのと感覚と方法で8,600万人の忠誠を要求している。共産党は河北省と山東省において、そこで活動する中央遊撃隊と政府機関に対して、拡大することにかなり成功しているが、これらの省でさえ、共産党支配は決して完全ではない。中央遊撃隊と正規軍は、上記の他のすべての地域で活動しており、海南島で活動する遊撃隊は政府の遊撃隊であって共産党のそれではない。しかし、共産党がそのような主張を提案しているというまさにその事実は、彼らの政治的野心を示している。そのような主張が公然と提案されている今、お化けが増える前に、幽霊が呼び出されるのを和らげる能力に自信があることが重要である。現代の政治戦略では、政治的偏見や公式プロパガンダによって適切に支援されれば、幽霊は政治的現実になる可能性がある。


アメリカの意見は確かに、中国共産党が対抗し競合する国家として政府に新たな要求をし、平和的な解決を困難にするよう促した。未解決のままにされるならば、また、外国に力によって励まされるならば、問題は中国のジンナーと中国の「パキスタン」の問題の大きさに確かに達するだろう。中国共産党が徐々に侵食しようと最善を尽くそうしている重慶に対して、ワシントンが支援し、中国共産党が恐れている中国軍に三個の戦車師団を送ることは、中国で開いた内戦を引き起こす政治的傾向ではなく、むしろそれを回避するための逆の効果がある。政治的に分裂した中国は、平和の中で同盟国の利益にはならず、慎重に考えられた政策に基づかない限り、中国はインドにおける状況のように、不透明で弱い国家を維持することになることを政治的感覚は示すように思われる。一般に認められた帝国主義の政治によれば、分裂と支配への影響力を得るための最良の方法は、少数派を助長することであり、そうすることで軋轢を長期化させることができる。中国の同盟国の心からは何も離れていないため、より弱い競合する党を擁護することは、全く政策を示唆していないように見える。さらに気の毒なことに、アメリカ人にとっては、中国の崩壊ではなく、強い国家への再統合を助けることを望んでいる。しかし、彼らの行動の結果を考えずに、彼らは普通の政党ではなく、独立した軍によって支えられた事実上の分離主義国家を樹立したものであることを軽率に奨励している。日本とのこの戦争において、アメリカの関心は主に、この紛争の解決を通じて中国の戦闘力が増大すること見ることにある。しかし、アメリカの意見は、すべての国民党と共産党の交渉と軍の統一への障害となっている、共産党が独自に維持している軍に対して同情的なようである。すべての中国人は国民政府の欠陥を意識しているにもかかわらず、来たるべき期間においては、長年の流血によって培われた指導部のこの「中心点」が破壊されるのではなく、強化されなければならないと、『大公報』とともにすべての中国人が信じている。


状況をまとめると、中国の国家元首である蒋介石主席は、中国の未来におけるより大きな形の政治的感覚を並々ならぬ程度に持っているようであり、アメリカの友人たちは、問題が解決しなくなるか、紛争を引き起こすまで推移を見守る責任がある蒋の立場に自らの身を置くことができるだろう。蒋介石主席が勝利後に内戦を避けようとすることは誰も疑っておらず、その時に、中国はこれまで以上に統一国家の立場を取り、他国の尊敬を求めることを望むだろう。これまでのところ、この戦争中、蒋は極端な寛容と機転と慎みを示し、平和的な解決策を望んでいた。私は、彼が中国の共産主義の問題に対処するために最も賢い人物であるという自信を持っている。彼は依然としてそれを内部の問題と見なしている。彼の過去の政治的賢明さの記録は、彼に自由裁量を残すことを必要としている。




* これは私には、すべての部分を拡大して見せる、面白くてささいな文学的な事件のように思われる。王氏は共産党に16年籍を置く党員である。ユージン・オニールの『奇妙な幕間狂言』(Strange Interlude)を翻訳した彼は、かつて私のユーモア雑誌『論語』の寄稿者であり、静かに皮肉な文体を書く。19423月に、延安の情勢についての不満を表明するために、彼は延安の『解放日報』に一連の四つの記事を発表した。四つの記事は「野百合花」と呼ばれた。その意味はというと、彼自身の説明によると、延安の山腹で見つかる一種の花であり、わずかに苦いが特定の薬効成分を持っているということであった。それらの記事は、全部でわずか2000語のさして重要でもないもので、主にまずい食物について不満を述べたものであり、さりげない話し口調の文体で書かれた。これらは、夜に表で、共産党員を批判して歩いている二人の女性同志から聞こえてくる会話を引き合いに出し、「暗闇の中のか細い不満の声」に言及し、「この下位の若者の不満の声」が、より開放的な批判を通じて聞き入れられる望みを表現し、最終的に高官と下位者、党員と非党員との間の食事と生活の差別を批判した。より大きな協力を得るために、「制服には三つの階級が、食事には五つの階級」があるという状況を、「わずかに」改善しなければならないと彼は提案した。それは「負け惜しみ」ではなく、彼自身は「小さな厨房」を得る権利があったが、「若い学生たちは少量のお粥を二つとり、十分に食べたかどうか尋ねられれば、『十分に食べました』と答えることを要求される」。記事は延安で大きな騒動を引き起こし、1カ月半にわたり、多くの人々は作家の見解に対して同情を表明した。記事は町の噂になり、深刻な見方を当局がとるようになった。三日三晩の熟考の後、515日から17日にかけて、抗日作家協会主任の丁玲女史の「これは王実味のトロツキー主義思想を清算する文芸界の全体会合であり、作家の間に残存するプチ・ブルジョワイデオロギーを見直す最大の教育的価値をもった会合である」という声明とともに、彼は協会を追放された。527日から61日まで、延安中央研究院は6日間連続して会合を開いて王氏の思想を修正しようとした。公表された議事録によれば、王は間違いなく「トロツキー主義者であり......ソヴィエト・ロシアのトロツキー主義者によって使用されたのと同じ戦術を実践している」。王は62日に、彼の共産党の党員資格を取り消すことを請求した。しかしながら、事件はあまりに多くの衆目を引きつけており、王の決定を思いとどまらせるために説得する委員が派遣された。63日、王は「最も尊敬する友人の愛情に触れた」、そして、「精神が異常だったときに行った要求を正式に、真剣に撤回した」と発表した。中央研究院の院長はわざわざ彼の批判を一つひとつ取り上げて答えることにし、この主題に関する公式の共産党の委員の四つまたは五つの記事が『解放日報』の「特別版」で発表された。資料は重慶で出版されている雑誌『群衆』第7巻の151617頁に再版されている。私の知るところでは、王氏は今は重慶に逃げている。

* 中国におけるロシア文学の影響については、『我が国土と我が国民』284-5頁を参照。

* 林祖涵は程潜将軍(彼は、1927年の南京での外国人殺害に対する責任があった。これは国民革命における唯一の排外的な暴発であった)下の共産軍の政治部主任であった。


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