林語堂が見た真の「新中国」の誕生前夜
近代中国を代表する文学者の一人である林語堂(1895年‐1976年)には、「新中国の誕生」(The birth of new China)ⅰという著作がある。ベストセラーとなった『我が国土と我が国民』(My Country and My People)の1939年版で新たに第10章として追加されたものであり、激化する日中戦争の行方と中国の未来に対する林の見方を示した時事評論である。
1949年に中国共産党が大陸を支配するようになってからは、「共産党なくして新中国なし」というスローガンに示されるように、「新中国」と言えば、もっぱら「中華人民共和国」を指す言葉となった。しかし、当然のことながら、1939年の時点において林が心に描いていた「新中国」とは中国共産党が支配する中国ではなく、当時の中央政府である国民政府が統治する中華民国の延長線上にある戦後中国に他ならなかった。
この「新中国の誕生」の中において、林は1900年以来、40年という期間を経て、「一つの民族が形成され、ついに一つの文明の中から生み出された」とし、「血と火の洗礼の中で、一つの現代中国が誕生した」ⅱと述べている。そして、中国の未来について、「西洋においてあまねく知られているファシズム、共産主義、デモクラシーの間の広範で深刻な闘争は、中国においてはデモクラシーに傾いていくだろう」ⅲと見解を述べている。
この基本的な認識は、それから5年後に出版された、ここに訳出した『The Vigil of a Nation』においても引き継がれている。具体的には、戦後、国民党ならびに国民政府のもとで、孫文の「三序構想」に基づき、「訓政」から「憲政」へと移行し、中国における真のデモクラシーが実現することを信じ、支持している。この林の希望は、実現半ばにして「国共内戦」によって潰えることとなる。つまり、彼が未来に描いた「新中国の誕生」は喪失されたのだ。
では、『The Vigil of a Nation』において林が描写した「新中国」誕生前夜の姿は、単なる「幻影」だったのだろうか。今日的な視点で改めて林の叙述を読むならば、そこには現在なお解決されていない「出版の自由」の問題、「民権」の問題、「憲政」の問題、国家と軍隊の問題の原点が浮き彫りにされている。そして、林の表現を借りるならば、この叙述がなされてから70年以上を経た今日においても、大陸の中国国民はその解決を待つ「徹夜の祈祷」(vigil)を続けている。
重慶視察の目的と林語堂の立場
林語堂が国民政府の臨時首都・重慶をはじめとする中国本土の視察の旅に出発したのは1943年9月22日であり、6カ月後の1944年3月22日にニューヨークに戻っている。すでに1941年12月には日本による真珠湾攻撃が行われ、米国が参戦することで第二次世界大戦の大勢は決していた。また、この間、1943年11月には、米国のルーズヴェルト大統領、英国のチャーチル首相、中華民国の蒋介石主席による「カイロ会談」が行われ、連合国の対日方針や、のちのポツダム宣言にも継承される戦後処理が話し合われており、すでに世界の関心は戦後構想に注がれていた時期である。
この時にあたり、林は大きな危機感を抱いていた。米国に滞在する林の耳に聞こえてくるのは、当時の中国政府に対する否定的、批判的な声ばかりであり、何よりも最大の支援国である米国政府ならびにアメリカ国民の世論がその将来性に対して疑問を持っていた。こうしたアメリカの世論に対し、「祖国」中国の真の姿を自らの眼で確認するための旅が、この重慶視察であったと言えよう。
「本書の方法と内容について」と題する導入部分において、林は自らの立場について、「私は、自分自身の本を唯一の収入にしている独立した作家である。私は中国政府に雇われているわけでなく、それに対して責任があるわけでもなく、報告もしていない」と規定している。つまり、林はどのような党派にも属さず、また、いかなる利害得失からも離れて、独立不羈のジャーナリストとして、自分が眼にしたものを、自らの意見として率直に述べたということである。
そうした「公平な立場」から見た時に、林が下した結論は、「中国政府への支持を選択するかどうか――それは支持に値するものであり、批評に値するその過ちを私は批評する――それは中国国民としての私の権利である」というものであった。では、支持するに値するものは何であり、批判すべきものは何であったのか。
デモクラシーの基礎としての出版の自由と国民政府の家父長主義
林語堂は本書の結論部分である「デモクラシーと未来について」の章において、戦争終結を間近に迎えた中国が直面する問題を、(1)デモクラシーの問題、(2)統一の問題、(3)軍の問題、(4)工業化の問題の四つに要約している。このうち、林が紙幅の大部分を費やして言及しているのがデモクラシーの問題であり、その理由について、「戦争の先を見据えた時に、真に民主的な中国を保証することが、戦後の国際協力にとって非常に重要であり、勝利が確実となった今となっては、戦争に勝つことよりも大きな世界の関心事であるからだ」と述べている。
では、なぜデモクラシーには価値があり、中国が実現しなければならないものなのか。林は、「デモクラシーとは、平和、安全、正義を提供しないどんな政府もいつでも平和的にこれを解任することができる場合に限り、自由に選挙された議会に彼らの権力を委任することによって、万民の平和、安全、正義は実現すると信じる国民の共同に基づく政治制度である」と定義している。
このデモクラシーを実現するにあたって、林が最も重視しているのが「出版・報道の自由」であり、「出版の自由は、法と憲法(政体)の制定よりも重要であり、政府に対して反抗する方法を知らない国民は、デモクラシーに値しない」とまで述べている。この出版の自由という観点から見た場合、当時の国民政府による事前検閲制度に対して、林は明確に非難しており、「戦時検閲の必要性を心に留めておくとしても、私はなお、中国において出版の自由が戦争の間に不当な範囲にわたって悪化した」と主張している。
だが、のちに触れる中国共産党と比べた時、国民政府の基本的性質はファシスト的なものでもなければ全体主義的なものでもなく、あくまで「家父長主義的」であるに過ぎないと林は捉えている。それは、「家父長主義の悪のすべてを有して」いるが、全体主義における「思想の統制や恐怖と暴力の原則という悪があるとは私は思わない」と述べ、「家父長主義の悪は改めることができる」と結論づけている。事実、1944年6月には事前検閲の制度が事後検閲へと変更され、国民政府による言論統制は緩和され、言論の自由は相対的に改善の方向へと向かっていた。
「デモクラシーの中国」へ向けた三つの提言
国民政府の家父長主義の悪を認めるとともに、林語堂はその歴史的な役割についても認めている。家父長主義的な「訓政」による特定の肯定的な結果として、「望ましい国民意識」が醸成されたこと、戦争指導を通じて国民に「自信と国の誇りという新しい勇気」を与えたことなどを挙げている。
無論、こうした「訓政」の歴史的使命は過渡期的なものであり、戦争の終結とともにその役割を終え、「憲政」への橋渡しをしなければならない。この憲政への準備という問題を巡っては、林は三つの観点から国民政府を評価している。第一に、来たるべき選挙の実施に備えて、「保」ごとの「国民学校」、郷鎮ごとの「中心学校」、県ごとの中学校を整備し、読み書きを教える教育プログラムを推進したこと。第二に、「新県制」と呼ばれる地方自治の制度を構築し、地方自治の実務を担う職員を養成しようとしたこと。第三に、幾度となく延期されたとはいえ、憲法を制定するための「制憲国民大会」を戦後に実施することを明確に宣言し、その実施に向けて着実に歩みを進めていることである。
以上の三つの試みについて、林は肯定的に評価しながら、デモクラシーの実現に向けて即時に実施しなければならないこととして、次の三点を提言している。
第一に、「権利章典」の即時の施行である。ここに言う権利章典とは、出版、言論、信仰、集会の自由をはじめとする「市民の権利」あるいは「民権」を保障する法的規定を指している。林は、これらの民権は「デモクラシーの基盤」であり、「身体の自由や出版の自由に対する保障がないならば、そのような政府が本当にデモクラシーの性格を有するようになるとは私は思わない」と強調している。重要なことは、林は憲政を実施することよりも、まずこれらの「民権」(出版、言論、信仰、集会の自由)を保障することを優先すべきであると主張している点である。単なる「紙の憲法」だけでは、運用において「死文」と化する危険性があり、ただ民権の無条件の保障だけが、デモクラシーを守ることができると林は信じている。
第二に、来たるべき憲政期へ向けた準備として、中国共産党の「私軍」を国軍司令部に統合することを前提として、中国共産党を含むすべての政党に憲法上の地位を与えることである。このことは、国民党も含めたあらゆる党と国家・軍の分離と政党政治の実現を示唆している。
第三に、国民党の現実的な政策として、共産党の急進的な綱領に対抗して農民と労働者と一般国民の支持を得ようとするなら、党内のいわゆる「左派」を中心として三民主義の「民生主義」を改めて掲げることが求められるということである。
中国共産党の基本的性質に対する洞察
上述の国民党に対する認識と比較した時、中国共産党に対して林語堂はどのような認識を持っていたのか。1939年の「新中国の誕生」執筆時においては、林は国民党と共産党の協力について、次のように比較的楽観的な見方をしている。「朱徳と毛沢東(中略)彼らは早くから、戦時中だけでなく戦後の建設時期において国民党との合作を希望すると宣言している。(中略)民主政治の立場をとり、民主メカニズムの中で合法的党になろうとしている。(中略)最終的には左翼集団は民主的形式とメカニズムを守る一種の穏健勢力となり、いかなる専制政治にも反対するようになる」ⅳ。ここからは、戦後の憲政実施に際して、当面は与党として引き続き政権を握るであろう国民党に対して、これを牽制する健全な野党の役割を共産党に期待していたことが伺える。
ところが、こうした希望的観測は、この1943年の中国視察によって一変する。林が現地で見た中国共産党政権は、「言論の自由もなければ、信仰の自由もない。人々は統制、恐怖、特務機関、軍および地方の人民委員によって支配され」るというものであった。認識を改めた林は、中国共産党の五つの基本的性質について、次のように推定している。
第一に、ソヴィエト・ロシアの共産党と比較するならば、それは純粋な共産党ではない。第二に、それはマルクス主義者であり、階級闘争と社会革命の必然性を信じている。第三に、それは思想における反民族主義者であり、中国の過去の社会構造とすべての伝統を完全に根こそぎにしようとしている。第四に、それはロシアのモデルからコピーされた全体主義独裁であり、党がすべての上に立って支配し、党の部員があらゆる軍および民政組織を貫徹し、コントロールする。第五に、生みの親であるコミンテルンに最後まで忠誠を負っている。
これらの性質のうち、最も根本的で不変的なものは、その「全体主義独裁」にあると言えよう。先に述べたように、国民党のいわゆる「家父長主義」の悪は改めることができるが、「全体主義の悪はそうではない」。「中国における真に全体主義的な体制と本当に徹底した一党独裁政権は、延安にあるのであって、重慶にあるのではない」と林は結論づける。この基本的性質が改めることができないものであるならば、戦後の憲政構想において、中国共産党が議会における一政党として協力する可能性は皆無ということになる。
だが、こうしたイデオロギー面、あるいは政治制度面における対立以上に、国共両党の共存を不可能なものにしていたのは、現実的な軍事対立に他ならなかった。そのことを、林は共産党に比較的寛容な孫科の言葉ならびに公平な無党派の新聞として知られた『大公報』の記事を引用しながら、再三にわたって注意喚起している。
『大公報』は一般論として、「いかなる国家の政府も、法または論理によって、国家内の別の政府の存在、国軍制度とは独立した軍隊を持つ他の組織の存在を容認することはできない」と述べている。ところが、現実には、国共合作の約束に反して、中国共産党は独自の軍隊と政権を持っていた。そして、孫科の言葉を借りるならば、「この軍隊の活動は、最高統帥部から全く独立していた。最高統帥部の要望と命令に最低限の配慮を払うことなく、共産軍は彼ら自身の指導者のもと、自らの責任のもとに行動する。名目上、彼らはまだ中国の国軍の一部だが、実際は独立した別の軍隊である」。
では、なぜこのような国共合作に反する行為を中国共産党は公然と行っていたのか。無論そこには、戦後に国民政府を打倒して政権を奪取するという軍事的戦略があったことは言うまでもないが、この戦略面を除くならば、もう1つの中国共産党の「基本的性質」を見出すことができるだろう。それは、国家と党の分離、そして党と軍の分離に関する否定的態度である。
根本的な問題として、中国共産党は「国家」を認めていない。少なくとも、国共合作の約束に従って、中華民国という「国家」に実質的に自らの党と軍を従属させることを真の意味では認めていない。もちろん、当時の国民政府においても、国民党と政府は一体であり、「党国体制」という点においては、国民党も共産党も同じであると言えなくもない。しかし、国民党が孫文の三序構想従って将来における国家と党の分離、党と軍の分離を前提としているのに対して、共産党はその将来にわたる一体性を前提としている。今日に至るまでも、「人民解放軍」は中国共産党の軍であって、国家の軍でないように、その基本的性質は国共内戦期から続いている。
民国史研究の現状と本書の意義
以上、概説してきた林語堂の視察記は、今日においてどのような意義を持っているのだろうか。
80年代に至るまで、中国近現代史は中国国内はもちろん、日本も含めた海外においても、中国共産党を歴史の主役としたいわゆる「革命史観」あるいは「中国共産党史観」が支配し、辛亥革命は「旧民主主義革命」であり、国民政府は「反動政府」であるとして、すべて共産党による「社会主義革命」「新民主主義革命」によって否定されるべき過去として描かれてきた。
こうしたイデオロギーが先行する研究に対し、実際の史料に基づく実証研究が中国の内外において蓄積されるにつれ、1949年の「解放」以前の中華民国による近代国家建設を再評価する動きが生まれた。それはいわゆる「民国史観」と呼ばれるものであり、中華民国による政治・経済・社会・文化のあらゆる分野における近代国家建設の試みを正負両面から捉え直そうとする研究姿勢である。
「民国史観」に基づく研究蓄積は広範な領域にわたっており、日本国内に限ってみても、すでに一定の「共通認識」を獲得していると言って過言ではない。この現在の「共通認識」に対して、林の視察記は同時代の貴重な証言の役割を果たしており、蓄積された研究成果に対して側面から補完する「重要な歴史的資料価値がある」ⅴ。
たとえば、民国史観の代表的な認識として、西村成雄・国文良成著『党と国家―政治体制の軌跡』(岩波書店、2009年)では、「辛亥革命は中国史の数千年にわたって綿々と受け継がれた皇帝支配を終焉させ、アジアで最初の立憲共和制国家を誕生させたのであり、その歴史的意義は大き」く、「中華民国を中国国民党による国民国家形成の一段階として正当に位置づけるべき」であり、「中華民国史観の延長線上に、20世紀中国史観が存在する」(同書ⅵ頁)としている。こうした認識のもと、清朝末期から中華民国、中華人民共和国に至る政治体制の軌跡を主として「党と国家」の関係から分析した本書は、日中戦争開始までの「中華民国国民政府の10年を国家建設の到達点」(45頁)だと評価しているが、これは林の「戦争が1937年に勃発する前に、約束を交わして仕事を始めた政府のもと、中国は工業化と再建の巨大な計画を実行するだろう」という基本的な認識と共通している。
また、林の視察時期と重なる重慶国民政府について言えば、その統治地域の政治・外交・軍事・経済・社会・文化に関する包括的研究として石島紀之・久保亨編著『重慶国民政府史の研究』(東京大学出版会、2004年)などがあり、総力戦体制の構築とその課題について考察している。さらに、ここから派生する個別研究としては、総力戦を支えた兵士と食糧の徴発が中国社会に与えた影響を考察した笹川裕史・奥村哲著『銃後の中国社会―日中戦争下の総動員と農村』(岩波書店、2007年)、戦時徴発と内戦による社会の荒廃がいかに共産党による政権奪取に結びついたかを描いた笹川裕史著『中華人民共和国誕生の社会史』(講談社選書メチエ、2011年)がある。こうした研究成果に対しても、林の視察記は当時の国民政府ならびに中国国民が直面した課題、特に中国共産党統治地域の統一問題と米国政府からの軍事的支援の不足問題に貴重な証言を提供している。
最後に、戦後構想の重要な論点であり、国民政府の正統性の基盤でもあった訓政から憲政への移行という問題については、主として言論の自由という観点から戦後の中華民国による憲政実施を再評価した中村元哉著『戦後中国の憲政実施と言論の自由 1945‐49』(東京大学出版会、2004年)がある。また、時間軸を民国期(1912‐49年)全体に広げ、憲政という理念の系譜とそれにかかわる政治的自由のあり方、同じく憲政の枠組みによって実現された国民党による訓政をどのように位置づけるかを考察した久保亨・嵯峨隆編著『中華民国の憲政と独裁』(慶應義塾大学出版会、2011年)がある。さらに、政治史・社会史・憲法学の視点から、現代中国まで範囲を広げて中国における憲政のあり方を多面的に考察した石塚迅・中村元哉・山本真編著『憲政と近現代中国―国家、社会、個人』(現代人文社、2010年)がある。こうした憲政をめぐる研究成果に対しては、まさに林自身が同時代人として最も関心を寄せていた問題そのものであり、憲政の実施とデモクラシーの中国の実現にあたって、当時どのような課題に直面していたのか、今なお新鮮な視点を我々に提供してくれている。
「民権」と「憲政」という残された課題
林語堂は本書の結論において、三民主義について次のように譬えている。
「ナショナリズムの原則(民族主義)は身体の血のようなものである。デモクラシーの原則(民権主義)は内臓のようなものであり、それがなければ身体は適切に機能せず、それ自体から無駄や毒を取り除くことができない。だが、国民生活の原則(民生主義)は、ハリのある肌、頬の赤い色、眼の光沢、そして弾むような歩みによって示されるように、健康そのものである。これが最終目標である」
戦後、国民政府による訓政から憲政への移行は中国共産党政権の樹立によって途絶した。このことは、「デモクラシーの原則」と林が訳した「民権主義」が道半ばにして葬られ、現在にいたるまで実現されない課題として残っていることを意味している。改革開放以降は、経済建設による国民生活の向上という点においては、部分的な「民生主義」の実践と言えなくもない。だが、林の比喩を借りるならば、「民権」という「内臓」がなければ、身体から「毒」を取り除くことはできず、結果的に経済発展の成果という「健康体」は損なわれることになる。ここで言う身体の「毒」とは腐敗や汚職に相当する。
こうした文脈において、林の憲政に関する主張は決して古びておらず、極めて現代的な意味を有している。特に、すでに紹介しているように、林の憲政論における重点は「民権」の保障を最優先させることに置かれている。これは、言論活動における林の一貫した主張であり、憲法の制定だけを重視する論説に対して「中国が立憲政府を持つべきだと強調する声はあまりに大きく、権利章典を即座に実施すべきだと強調する声はあまりに小さい」と批判している。
憲政が実施される前提として、「法に従っている限りは、この世の何人たりとも彼に触れることはできない」という感覚が法的な保障と共に国民に共有されることが求められる。そして、「民権の保護が実施される時、国民は民主的になることを学ぶ必要がなくなる。中国の国民がデモクラシーの準備ができていないと言われる根拠はない」と林は主張する。なぜなら、「官僚が法律の側に立ち、弾劾される準備ができているならばいつでも、国民は彼らを弾劾する準備ができて」おり、「国民がそうすることができる時、そしてこの精神が存在することができる時、真のデモクラシーが訪れ、国家の毒が洗い清められる」からだと述べている。
もちろん、実際に憲政を実施し、デモクラシーを運用することには様々な困難も伴う。そのことについて、林も「政治的デモクラシーはゆっくりと育てていくものであり、まるでデモクラシーが一晩で人に与えることができるかのように、アメリカ人は紙の憲法の宣言に期待し過ぎてはいけない」と釘を刺している。そして、「デモクラシーは、統治する側にとっても、統治される側にとっても学ぶのが難しい。本質においてそれは、統治する多数派の能力と、多数派を批判しこれに従う少数派の能力とを意味する」として、言論を通じた「統治の技術」を政治家および国民の双方が学び続けることの必要性を示唆している。
危機の時代のジャーナリストの使命
解説を締めくくるにあたり、本書を執筆した時点の林語堂をジャーナリストとして捉えた場合、どのように位置づけることができるかについて考えてみたい。
のちに林はその自伝において、重慶視察から米国に帰国してからの周囲の反応について、次のように回想している。「二度とこんなことを言うことはできないし、言ってはいけないという、きびしい警告を受けた。私は苦境に立たされた。私は、これは負け戦だと思っただけで、私自身を単なる傷痍軍人とみなすことができたし、そのことについては殆ど何も考えなかった」ⅵ。それほどまでに、当時の米国の政策も世論も中国共産党に同情的であり、国民政府に対しては否定的であった。
このような不利な状況下において、あえて時流に反する本書を執筆することは、すでに米国でベストセラー作家としての地位を得ていた林にとって、何の得にもならないものであった。あるいは、日和見的な知識人であったならば、時流に乗らないまでも、沈黙することも選択肢としてあっただろう。だが、林の言葉を借りれば、彼は「一人の独立した批評家として、そしてしばしば容赦なき批評家として、自己をすでに確立して」おり、「慎重な批評家なら、みんなを鎮めるために控えるところを」、彼は「あえて口にした」ⅶのである。
出版された当時において、時流に反する本書は「国民党側の宣伝書」とみなされた。だが、今日的な視点から改めてその内容を吟味するならば、十分に検証に耐えうる真実性と正確性を持っていると判断できるだろう。それは国民党側でもなく、共産党側でもなく、独立したジャーナリストが自ら見聞した事柄に基づいて、自らの意見に基づいて、自由に執筆した旅行記・政治論である。
「本書の方法と内容について」の章において、林は既存の旅行者や作家の中国報告について、次のように批判している。「失礼ながら、中国の報告をする多くの知的な旅行者と流浪の作家たちの書いた本には、日付や数字の正確性、精神の開放性、著しい批判力、そして分析の才能といったあらゆるジャーナリスティックな長所があるが、そこに加えなければならないのは、彼らの何人かは少なくとも首尾よく驚きの感覚から逃れ、多くは楽しむことを忘れているということだ。彼らは心の片隅で中国を感じ、心の片隅だけを使い続けたまま中国から帰ってきた。このことは、彼らが中国に旅行した意味は全くなかったということを意味する」
では、ジャーナリズムに欠けているものは何か。そのことについて林は、「ジャーナリズムにおいて唯一重要なものが存在する。すなわち、シェイクスピアや洞察力だ。優れた英語力を使いこなし、洞察力のある心を持っているなら、ジャーナリズムコースは必要ではない」と述べている。この「洞察力のある心」を持って、林は「自由人」として旅行し、心に感じたままに記したと言ってよいだろう。
無論、その心は全くの白いキャンバスであったと言うことはできないであろう。林の心には「あらゆる全体主義と個人の自由への抑圧を心底から嫌悪する」信念が確固として存在していた。この信念に基づく独立不羈のジャーナリスト・林の取材の成果が本書に結実している。
当時の林の意図としては、国民政府の欠陥を明確に認めながらも、その擁護すべき点を擁護し、誤解を解くことを通じて、中国政府による戦後の憲政実施と経済建設への国際世論の支持を獲得することにあった。しかし、結果的にこの林の目的は達成されなかった。もちろん、最終的には軍事的対決によって全体の趨勢は決定されたが、それ以前に、すでに情報戦において、国民政府は共産党の政治宣伝に完敗していたと言えよう。そして、その情報戦を通じて、当時の多くの知識人は国民政府の「独裁」を批判し、共産党が主張するいわゆる「連合政府論」や「新政治協商会議」になびいていった。
本書を執筆した時点においては、情勢はまだ切迫しておらず、林は憲政実施とともに共産党が「穏健な野党」として中央政府に従属することで統一問題を解決することができると考えていたが、共産党の独裁的な性質については不変であると洞察していた。こうした認識は林だけではなく、国共両党に属さない中間路線の代表者の一人である儲安平も「実を言うと、我々は現在自由を争っているが、国民党の統治下では『自由』は依然として『多』『少』の問題であるが、仮に共産党が政権をとれば、『自由』は『有』『無』の問題に変わってしまう」Ⅷと述べているように、必ずしも孤独な主張ではなかった。
しかし、少数の知識人による「洞察」「叫び」は共産党の巧みな情報戦、宣伝工作には勝てなかった。林の旅行記は、在野においてこの共産党の宣伝工作に対抗できる数少ない独立したジャーナリズムであったと言えよう。
結果的に敗北したとは言え、いや、敗北したからこそ、時流に阿らなかった本書の価値は現在でも損なわれていない。そして、「失われた新中国」は今なお失われたままであることを我々は厳粛に受け止めなければならないだろう。
2017年3月26日(林語堂没後41年目の命日)
ⅰ 同時代の中国語訳としては、民華訳『新中国的誕生』(香港民社発行、1939年)がある。近年の訳としては、郝志東・沈益洪訳『中国人』「第十章 中日戦争之我見」(学林出版社、2007年)がある。
ⅱ 前掲書『中国人』261頁。
ⅲ 同『中国人』306頁。
ⅳ 前掲書『中国人』307-308頁。
ⅴ 王兆勝『林語堂大伝』(作家出版社、2006年)257頁。
ⅵ 林語堂著・合山究訳『自由思想家・林語堂-エッセイと自伝』(明徳出版社、1982年)237-238頁。
ⅶ 同上、232頁。
Ⅷ 『新編 原典中国近代思想史7 世界冷戦のなかの選択』(岩波書店、2011年)所収「中国の政局」88頁。