これは、上海から逃げてきた難民から、私の友達が直接に聞いた、最も驚くべき物語である。それは短く、簡潔なものである。
空腹である。世界における最良の意志といふ點において、空腹である。現體制および將來の樂園に對する大いなる信頼といふ點において、空腹を感じる。あなたは犬と猫を食べ盡してしまひ、もはや食べるべき犬も猫もゐない。鷄は過去の記憶であつた。遡ること三年前、彼らは大晦日に鷄を食べた。なほ大躍進に參加したいと思つてゐるが、靜脈に血液はなく、手足に力も入らない。
本當のご飯ではない、柔らかいご飯を食べた。「ご飯を食べる」とは言つても、ご飯を食べるわけではない。豆、籾殼、小麥粉ペースト、ジャガイモの混合物を食べる。お湯で野菜を茹でる。油、食用油はない。だから、今日もお湯で野菜を茹で、明日もお湯で野菜を茹で、明後日もお湯で野菜を茹でる――永遠に。
あなたの舌、口蓋は、油の味を外に求めて叫ぶ。一ヵ月に四オンスの油を支給される。肉、野菜、スープ、あるいは肉汁ソースに油を見出すことはない。あなたは躍進したい。お湯で茹でられた野菜と米・ジャガイモペーストを食べる時、躍進することはできない。油を思ひ、油を夢見る。何か方法があれば。何か方法があつたならなあ!
「市場で賣られてゐる揚げパンがあるよ」と、息子が言ふ。「揚げパンは油で揚げられる。油の味がするし、油の匂ひがする。おお、なんてことだ!」
「食糧配給券を使へ」と、父が言ふ。「揚げパンをいくつか買ふんだ。確かに、それには油がある」
「うん、さうするよ、お父さん」
「買へるだけ買ふんだ。三つ買ひなさい。お母さんに一つに、私に一つ、それから、お前たち兄弟二人は一つを分け合へば良い」
「お姉さんは?」
「お母さんと分け合へば良い。早く行つて列に竝ぶんだ。さもないと手に入らなくなるぞ」
「朝三時に起きて列に並ぶよ」
「ダメだ。三時では手に入らない。一時に行きなさい」
「二時」
「いや、一時もしくは一時半だ。列の先頭に竝びたいのならね」
列に竝んで順番を待つた。息子は早かつた。彼は列の三番目に竝んだ。次から次へと人々がやつてきた。午前三時には、揚げパンよりも購買者の方が多いやうに見えた。國家は奇跡を起こすことはできなかつた。國家は、躍進し續けるために、油を配給する。
息子は一つだけの揚げパンと共に歸つてきた。それが、買ふことを許されたすべてだつた。
「遲參者は、一つでさへ持つて歸ることはできなかつた。彼らは手ぶらで歸つた。それほどまでに、揚げパンは人々に求められてゐるのだ」
中國の揚げパン(油條)は、非常に特別な種類である。中華街の廣東料理のレストランには賣られてゐない。それは揚げパンのやうな形をしてゐるが、螺旋條にねぢられた生地の、二枚の小片から成る。それは油のねぢれである。表面の生地は非常に薄くカリカリしてをり、内側には空洞がある。食べると、口の中でマフィンのやうにとろけていく。
問題は解決不可能だつた。一體どうやつて、たつた一個の揚げパンを食べるだらうか? ハサミで四つか五つの部分に切り、各々に一個づつ與へることができる。あるいは、父親が一人でそれを食べるのか? それは布の配給問題に似てゐた。年間で、一人當り一・八フィートの布を貰ふ場合、三人の義理の姉妹の間で口喧嘩が始まる。彼らは布を共有し、一人のために一着の服をつくるべきだらうか――誰の?
「お父さんにあげなさい」と、母親が言つた。
「いや、母さんがとつてくれ」
「何を言つてゐるの。もつといい考へがあるわ。今食べるのはやめませう。お晝にとつておきませう。私たちは蕪のスープを飮むでせう。それを切つて中に浸せば、油の玉が上に浮かぶのが見えやうに、みんなで樂しむことができるわ。油が玉が上に浮かんでゐるのなんて、長い間見てないわ。それは、小さな玉が泳ぎ囘るのを見るといふ不思議な光景になるでせう」
もちろん、母親の決定は行はれた。その日の晝食では、父親、母親、それに二人の息子は食卓の周りを圍み、今か今かと待つてゐた。姉は蕪スープを運び、それを食卓の中心に置いた。
彼らは首を伸ばし、期待して見てゐた。年長の息子は、少し物々しい顏つきになつてゐた。
「そんなに物々しい顏つきで見るな」と、父親が言つた。
彼らは視線を注ぎ、じつとそれを見てゐた。それは素晴らしいものだつた。誰かがスプーンを中に入れた。玉は分かれ、そして再び一緒になつた。一分ほど經つた後、母親は箸をとり、各々に取り分けてあげた。それは、彼らがこれまで食べた中で最も素晴らしい晝食であつた。