序
林語堂[1](1895‐1976)は、自らを「一たばの矛盾」[2](「八十自叙」)であると規定しているように、その思想と行動は容易には捉え難い。例えば、梅中泉は『林語堂名著全集』(以下、『名著全集』)総序で、次のように彼の人生を要約している。「彼の一身には、截然と相反する2つの文化現象が含まれている。彼は東方文化に足を置くとともに、西方文化にも足を置いた。彼は中国伝統文化に反対するとともに、中国伝統文化を愛した。彼は西方を崇拝するとともに、西方を嘲笑した。彼はキリスト教徒であるとともに、異教徒であった。彼は孔子を攻撃するとともに、孔子を称揚した。彼は老荘を軽んずるとともに、老荘を称揚した。彼は洋服を好んで着るとともに、洋服を棄てた。彼は中国式の長袍を着るとともに、足には西欧式の皮靴を履いた」[3](筆者訳出)と。
しかしながら、こうした林語堂の両面性は、決して彼が信念を欠いていたということを意味するものではない。むしろ逆に、一貫した思想と信条があったればこそ、一見して矛盾する主張を堂々と展開できたとのだといえる。しからば、その林の哲学・思想はどのような体系を持っており、その体系と林の政治行動とはどのような関係を持っているのか、特に、その共産主義に対する烈々たる批判の哲学的基礎はどこにあるのか、等を解明する必要がある。
林語堂の現在的価値は、中国的伝統と西洋的政治制度の融合を再発見することに他ならない。彼は、西洋の衝撃によって中国が混乱する中、伝統中国の何を保守し、何を是正し、また近代西洋の何を摂取し、何を拒否すべきかを、冷静な観察眼によって理解していた稀有な「近代人」であった。だが、従来の林語堂研究の多くは、いわゆる「東西文化の融合者」としてのみ彼を捉え、「政治思想家」としての側面を軽視ないしは意図的に無視してきた。筆者は、こうした現状は、現代中国の前途を狭めるものであり、また日本の中国理解を歪めるものであると憂える。なぜなら、近代以来の中国の国家的課題とも言える「個人と集団」の問題、「国家と社会」の問題、「伝統と進歩」の問題、「自由と秩序」の問題等が、彼の一身において既に止揚されていたからである。願わくは、今後の筆者のささやかな営為によって、「政治思想家」としての林語堂の姿を浮かび上がらせたい。
本稿では、こうした問題意識のもと、「林語堂政治思想研究」の序説として、まず第1部において先行研究等の検討を行い、第2部において、現在林語堂研究の基本資料となっている『名著全集』の不備について指摘する。なお、現在筆者は研究者の立場を離れており、第1部の先行研究整理は多分に遺漏があることを断わっておく。
第1部 林語堂の反共自由主義思想はいかにして形成されたか
1.問題の所在
林語堂はその自伝において、「当時重慶にいた周恩来が、農地改革のふりをして、世間を信じ込ませていたとき、私は反共宣伝において、蒋介石のために働いた唯一の中国人であった」[4]と述べている。
林語堂は、彼が反共の立場を明確にした『枕戈待旦』(The Vigil of a Nation)以前においては、世界的な文明批評家として知れており、その自由主義者としての言動は、必ずしも国民党を擁護したものではなかった。それが、「重慶視察」を契機として強力な反共主義者となった。無論、それは「変節」ではなかった。合山究が言うように、反共宣言の前後において「彼自身は以前と少しも変わってはいない」[5]。「彼はむかしと少しも変わらぬ烈々たる自由主義者なのであり、ただ彼の攻撃の対象が、日本軍国主義から共産主義へと移行したにすぎないのである」[6]。
これまで、大陸から反動的として糾弾されてきたために、こうした「行動する反共主義者」としての林語堂の思想を体系的に取り上げた研究がなされてこなかった。しかし、その影響力は当時において絶大なものであり、等閑視されてきたことに疑問が残る。
2.先行研究
中国における林語堂研究は、魯迅や30年代の進歩的文壇から批判されたことや、その後の経歴が影響して、80年に到るまで研究がタブーであった。近年は、ようやく再び注目を集めているが、「『反共主義者・林語堂』の政治的発言や思想が中国で本格的な評価の対象に上る条件はまだ整っていない」[7]。台湾においては、しばしば新聞等で取り上げられ[8]、彼の「反共」の立場についても触れられているが、研究書としては文学の立場からなされたものがほとんどである[9]。
日本では、大陸の影響を受けて、批判的に論ずるものが多い。代表的な林語堂の紹介者であった竹内好は、「国民党側からみれば、林語堂は国民党の(少なくとも対外的には)最強のイデオローグであ」[10]り、「思想家としての彼は貧弱だ」[11]と批評している。
80年代以降、合山究らを中心として、林語堂を再評価する動きが生まれ、東西文明の批評家としての林の立場が強調されるようになった[12]。そのような中で、近年体系的に林語堂の思想を取り上げたものとしては、朴桂聖のもの[13]があるが、これは林の主著である『吾国与吾民』が成立するまでの1930年代の思想を考察したものであり、その後の林の反共宣伝の言説については敢えて言及を避けている。この他、林のジャーナリズム論について評価したものとしては山本賢二の好論文[14]がある。
3.研究の枠組み
林語堂の文明論は『My Country and My People』(中国語名『吾国与吾民』、邦訳『中国=文化と思想』[15]など複数)や『The Importance of Living』(中国語名『生活的芸術』、邦訳『人生をいかに生きるか』[16]など複数)などに代表される。そして、その政治論は『Bitween Tears and Laughter』(中国語訳『啼笑皆非』、邦訳『涙と笑の間』[17])や『The Vigil of a Nation』(中国語名『枕戈待旦』、未邦訳)、『The Secret Name』(中国語名『匿名』、邦訳『ソビエト革命と人間性』[18])、また言論の自由を論じた『A History of Press and Public Opinion in China』(邦訳『支那に於ける言論の発達』[19])などによって代表される。この両者の間にどのような関係があるのか、従来の研究においては言及されてこなかった。
しかしながら、最終的に反共自由主義の立場を明らかにした林語堂にとって、両者は不可分の関係にあると筆者は考える。80年代以前においては、外在的イデオロギーから後者の著作が批判され、それに沿う形で前者の著作も判断された。80年代以降においては、後者の著作はあまり触れられず、専ら前者の文明批評、東西文明融合論が取り上げられたと言える。だが、反共にいたる林の思想の全体像を捉えるには、両者のテクストに沿って、林個人に内在する形で考察する必要がある。
4.『吾国与吾民』から『枕戈待旦』へ
1935年に書かれた『吾国与吾民』においては、政治情勢を次のように分析している。「現在、中国は共産主義と反共産主義の二大陣営に分かれている。新しい世代と古い世代の間に深い溝が横たわっていることは、非常に残念なことである。思考する新しい世代は政治思想制度全体に一大変革をもたらそうとしているが、統治階級は時代の流れに逆らって保守的で反動的な傾向をますます強めている」[20]。この時点では、共産主義に好意はもっていないものの、その政治的立場は明らかにしていない。
だが、重慶視察を経た『枕戈待旦』においては、共産党と国民党の対立について、「中国ではマルクスと孔子の喧嘩が進行している。そして私は孔子に賭ける」[21]と述べ、明確に反共自由主義の政治的立場を示した。その決断の背景には、個人の自由を抑圧する「強権」に対する抗議の精神が存する。
5.重慶視察について
林語堂が政治的立場を決定するきっかけとなったのが、「重慶視察」であった。1943年、彼は半年ばかり内地旅行をし、それをもとに政治宣伝書ともいえる『The Vigil of a Nation』(『枕戈待旦』)を書くことになる。これにより、ベストセラー作家としての林の「評判は進歩的知識人の間に急落し、ついに時代の寵児の座から転落した」[22]。欧米での林イメージは、「中国の進歩に目をつぶる保守反動の思想家」[23]へと転じたのである。
共産党支持者の間には、何応欽が林に2万ドル払ったといううわさが立った。たしかに、林はこの旅行で国賓に近い待遇を受けているが、「国民党から一文の宣伝費ももらっていない」と自身で述べている。「私は国民党員としてでもなく、また蒋介石のがわでもなく、一人の独立した批評家として、そしてしばしば容赦なき批評家として、自己を既に確立していた」[24]というのが彼の持論である。
6.展望
竹内好は、林語堂について、「哲学(ことに歴史哲学)の点では、かれはつねに貧弱な思想家でしかない」[25]と述べている。しかし、反共の立場を明らかにした後で書かれた『蘇東坡伝』において、「四千年にわたる中国の歴史のなかで、全体主義・国家資本主義・社会主義、および徹底的社会改革による、四つの大きな政治的実験[26]が試みられたが、それらはことごとく惨めな失敗に終わった」[27]と述べているように、中国史全体を踏まえた彼の歴史哲学が、彼をして反共宣伝を主導的にさせたことが、彼の著作から読み取れるものと思われる。そして、その行動の先には、林のめざす近代国家建設があった。端的に言えば、「法治国家」への道である。
上記にように林の政治思想を措定し、①哲学論、②比較社会論、③法治論といったテーマに分けて、順次その体系を解明していきたいと考えている。前途は多難であるが、力の及ぶ限りにおいて自身に課した義務を果たしていきたいと思う。
以下、第2部においては、こうした長い行路の下準備として、現在大陸において林語堂研究の基本資料となっているものと思われる東北師範大学出版社『名著全集』の不備について若干の考察を加える。
第2部 東北師範大学出版社『名著全集』の不備について
はじめに
林語堂の体系的研究を妨げている原因の1つは、『全集』が整備されていないことにある。その著作のほとんどが英文で書かれていることを考えるならば、まず米国において『全集』を刊行し、しかる後にその英語版『全集』に沿うかたちで日中の『全集』が刊行されることが望ましいが、主著を除いて邦訳のほとんどが絶版となっている現状を考えれば、その前途は困難と言わざるを得ない。
こうした資料的制約を打破するものとして、1994年に東北師範大学出版社から『名著全集』が刊行されたことは、一先ずは壮挙として讃えられるべきであろう。ただ、この『名著全集』は「名著」と断っているように、林の全著作を収集したものではない。そればかりではく、以下詳述するように、この『名著全集』を基本資料として林語堂研究を行った場合には、歪んだ林語堂像しか浮かび上がってこないという危険性がある。
まず第1に、林語堂の紹介において「反共」の歴史的事実が隠蔽されていること。第2に、収録著書の選別に明らかに政治的配慮がなされていること。第3に、収録されている『吾国与吾民』(『My Country and My People』)の訳文の一部が恣意的に削除されていること。以下、こうした問題点を指摘して、早期の真正『全集』の出版を強く当局に求めたい。
1. 林語堂の経歴紹介における「反共」の隠蔽
人物を紹介するにあたっては、自ずから欠くべからざる必須事項というものがある。林語堂を語る場合には、その「反共」の政治的立場はこれにあたる。なぜなら、その事実は林の自由主義思想の変遷を語る上で俎上に載せざるを得ないことであり、それなくして以後の諸作品を論じることさえできないからである。たとえば、標準的な林語堂紹介であると言える合山究のそれには、林の政治的立場を次のようにまとめている。
林語堂は、まず第一に、抑圧を極端に嫌う人間であり、心底から自由人であったということである。彼は、政治的・道徳的・学問的な圧政や権威主義を忌み嫌い、ひたすら人間の尊厳と個人の自由を重んじる人であった。彼は言う。「いろいろな理屈はあろうが、私はあくまで自由人を賛美する。断じて自由人を賛美する」(「生活の発見」第四章五)と。すなわち、そのようなわけで、対社会的には、彼はつとに言論の自由の問題に関心を寄せており、かつて軍閥政府や国民政府に対して厳しい批判を展開したばかりでなく、中国における言論の自由の問題をはじめて歴史的に取り扱った「支那における言論の発達」を、三六年に出版した。また当時、しばしば道学者をこっぴどくやっつけているのも、国粋的儒教擁護者が人間性を圧殺するのにがまんならなかったのであろう。日本軍国主義の中国侵略に際しては、民族主義的自由主義的立場から義憤を胸に抱き、筆剣を揮って抗戦し、小説や評論「The Birth of a New China(新中国の誕生)」(三九年)、「涙と笑の間」(四三年)などで、世界に向かって中国への支援を訴えた。中国内地の旅行記「The Vigil of a Nation(枕戈待旦)」を出版した四四年以後は、反共的自由主義者としての旗幟を掲げ、五八年には、「ソビエト革命と人間性」を書き、共産主義の実態を多くの資料を駆使して批判したが、その最も大きな理由は、共産主義においてもファシズムと同様に、個人の尊厳と言論の自由が奪われるということであった。このような人間の自由を守る人としての意識と確固たる姿勢は、彼の他の書物のなかでも陰に陽に見受けられる[28]。
一読されてわかるように、林の共産主義批判は、軍閥批判、国民政府批判、日本軍国主義批判という「個人抑圧」批判の系譜の延長線上に位置づけられる重要な事項である。もしこの事実を無視したならば、その後の『蘇東坡伝』や『ソビエト革命と人間性』における共産主義批判を考察することは不可能である。
ところが、『名著全集』の「総序」において梅中泉は、林の政治的立場の経過について、以下のように述べているにすぎない(筆者訳出)。
彼は、20年代に学生運動を支持し、「三・一八」によって亡くなった烈士を悼む文章を書いている。これは、右翼からの恨みを買った。30年代にプロレタリア文学が中国で盛んになり、無産階級政治に奉仕する「党の文学」が主張されると、林語堂は、文学は個性の発露であるという「精神(情感)」説を強く主張した。こうした、プロレタリア文学との食い違いは、自ずから左翼からの激烈な反対を招いた。抗日戦争が勃発すると、彼の愛国の情は烈火のごとくなり、全力で救国のために叫んだ。彼は、中国に救国の領袖が現れることを望み、その人物は蒋介石であると考えた。当時、中国共産党はすでに人民を指導して勇敢に日寇に抵抗しており、左翼はすでに中共およびその領袖たる毛沢東が中国を救う星であると考えていたので、林語堂の言行が批判されたのは自然の道理であった。60年代、林氏は台湾に居を定め、蒋介石はこれを礼遇した。このため、林が中国共産党指導下の文芸界から批判を受けたのもまた自然の道理であった。しかし、このことは林氏の政治傾向を矛盾した複雑なものにした。左でもあり右でもあり、是でもあり非でもあるため、容易に全面的に肯定することも否定することもできない人物であり、そのことによって彼は「万民が関心を持つ人物」となった[29]。
こうした経歴紹介は、林語堂の意に反するものであろう。上記の紹介では、林はその時々において立場を変えたためにその「政治傾向」が「矛盾」していることになっている。しかし、先の合山が述べるように、「自由」という価値基準によって平等にその時々の政治勢力を批判した軌跡が林の政治言説であり、そこには一貫した主張が存在する。そして、その主張の端的なものである「反共」を紹介しないということは、『名著全集』の「総序」としては不完全であろう。
2. 収録著書の偏重
『名著全集』の目録は以下の通りである。
总序
小说编
第一卷 京华烟云 上
第二卷 京华烟云 下
第三卷 风声鹤唳
第四卷 唐人街
第五卷 朱门
第六卷 中国传奇
第七卷 奇岛
第八卷 红牡丹
第九卷 赖柏英
传记编
第十卷 林语堂自传 从异教徒到基督教 八十自述
第十一卷 苏东坡传
第十二卷 武则天传
散文编
第十三卷 翦拂集
第十四卷 行素集 披荆集
第十五卷 讽颂集
第十六卷 无所不谈合集
第十七卷 拾遗集 上
第十八卷 拾遗集 下
论著编
第十九卷 语言学论丛
第二十卷 吾国与吾民
第二十一卷 生活的艺术
第二十二卷 孔子的智慧
第二十三卷 啼笑皆非
第二十四卷 老子的智慧
第二十五卷 辉煌的北京
第二十六卷 平心论高鹗
译文编
第二十七卷 女子与知识 易卜生评传 卖花女 新的文评
第二十八卷 成功之路
附录
第二十九卷 林语堂传
第三十卷 吾家
これらの著作を収録するにあたり、「名著」の基準は那辺に存したのか。梅中泉は次のように述べる。「名著とは、知名度の高い著作を指し、また万民に知れ渡っている著作を指す。それは、普及の程度という角度からのものであり、思想の基準や芸術の基準という角度からのものではない。後者は、専門家の研究を待ってはじめて結論が下せるものである」[30](筆者訳出)と。こうした梅氏の説明は、いわゆる『全集』の編集方針としては必ずしも納得のいくものとはいえない。そもそも『全集』なるものは、その著者の全貌を理解するために刊行されるべきものであり、そこに「知名度の低い著作」が含まれていればこそ価値がある。「知名度の高い著作」をもって「名著」と称し、その収集をもって事足れりとするのは、編集者としての職務を十全に果たしていないと言わざるを得ない。
加えて、前段において「思想の基準や芸術の基準という角度からのものではない」と言っているにもかかわらず、明らかにそうした基準から収録が「除外」されたと思われる著作がある。前述した『The Vigil of a Nation』(中国語名『枕戈待旦』)、『The Secret Name』(邦訳『ソビエト革命と人間性』)、『A History of the Press and Public Opinion in China』(邦訳『支那に於ける言論の発達』)などはその最たるものである。また、1964年に書かれた、中国共産党の迫害からの逃亡者を主人公とした小説『The Flight of the Innocents』(中国語名『逃向自由城』、邦訳『自由のまちへ』[31])も「除外」されている。これらの著作は、ともに共産主義などによる個人の抑圧を批判したものであり、明らかに「思想の基準」によって除外された蓋然性が高い。
3. 『吾国与吾民』における原文の恣意的削除
言論の機微は細部に宿る。特に、ユーモア性に長けた林語堂の著作を読む場合には、その表現の細部に重要な主張が隠されている場合がある。故に、1冊の著作全体が彼の主張を表しているのであり、一部分でも欠けたならば、それはもはや彼の著作とは言えない。いわんやそれが主張の核心部分であればなおさらである。『名著全集』は、この誤りも犯してしまっている。以下、『吾国与吾民』(邦訳『中国=文化と思想』など)を事例として、その恣意的削除を明らかにする。
『My Country and My People』の第2章第8節においては、林語堂は中国人の「保守主義」について述べている。その後半部において、林はそうした保守主義に反する近代の政治的過激主義の経過について概観しているが、『名著全集』版では次のように訳出して本節を終えている。
有许多这样的冲动一定曾经引起了过激主义,结果产生了中华民国。没有人相信中国会变成民主国家。这种变动太广大,太雄伟,没有人敢担当这个责任,除非是呆子,否则是鼓吹出来的人物。那好像用彩虹来造一架通天桥,而欲步行其上。但是一九一一年的中国革命家真给鼓吹出来了。自从一八九五年甲午战争失败以后,革新中国的宣传运动极为活跃,当时有两个人物,一派系君主立宪主义者,主张维持君主而革新并限制其君权;一派则为民主革命主义者,主张建立民主共和国。前者为右翼,后者为左翼。左翼以孙中山先生为领袖,右翼则有康有为及其弟子梁启超主持。梁启超后来脱离了他的恩师而左转了。这两个固执的党派在日本笔战了好久,可是这问题终究给解决了,不是双方辩论的结局,而是清廷之不可救药,与民族自觉之本能的抬头之结果。一九一一年的政治革命后,紧随以一九一六年的文学革命,中国的文艺复兴由胡适所倡导,风靡一时[32]。
『My Country and My People』の原文においては、本節はここで終ってはおらず、中国における「保守主義」の核心についてなお考察を続けている。以下、その日本語全訳から該当部分を引用する。やや長くなるが、上記の中国語訳文と対応する部分から「保守主義」の節の最後までを掲載する。
こうした民族の忍耐と限度を超えた屈辱が過激な急進主義の形成を促すことは必然である。そしてこの過激な急進主義はまた中華民国の誕生を促した。中国が共和国家になろうとは誰も予想だにできなかった。それほどのこの変化は巨大で広範なものであり、わずかな馬鹿者と天才が興味を示したに過ぎない。当時革命を起こそうなどと考えることは、天に虹を架け、その上を歩こうと考えるのと変わらぬほど突飛なことであった。しかし一九一一年の中国の革命家たちはそれが可能であると信じるほど奮い立っていたのである。一八九五年の日清戦争の敗北以後、中国の近代化運動は非常に盛んになった。当時中国には、あくまで君主制維持の下で君主の権限を制限し、近代化しようとする立憲君主主義の一派と、民主共和国制の樹立を主張する革命主義者の一派があった。左翼は孫中山を指導者とし、右翼は康有為とその弟子である梁啓超を指導者としていた。もっとも梁啓超は後に康有為と袂を分かって左翼へと転向することとなったのだが。両派はかつて日本で長期にわたって言論線を繰り広げていたが、問題の最終的解決は彼らの論戦によってではなく、清朝に対する絶望と中国人が本来持っていた民族の誇りに対する渇望によってもたらされたのである。一九一一年の政治革命に引き続いて、一九一六年には胡適によって提唱された文学革命が起きた。この中国の文芸復興運動は、その後の一九二六年の思想的急進主義へと繋がり、現在では全中国の小学校教師の思想が共産主義的色彩を帯びるようになったのである。
現在、中国は共産主義と反共産主義の二大武装陣営に分かれている。新しい世代と古い世代の間に深い溝が横たわっていることは、非常に残念なことである。思考する新しい世代は政治思想制度全体に一大変革をもたらそうとしているが、統治階級は時代の流れに逆らって保守的で反動的な傾向をますます強めている。不幸なことに、こうした統治階級の反動的傾向は民衆を引きつけていない。というのも統治階級の主要人物はいずれも軍閥や政客ばかりであり、彼らの私生活は儒家思想の行動規範からは遙かに懸け離れたものであるからだ。事実は、こうした反動的保守性は敬老と権威に対する忠誠を教える儒家思想を利用しただけの偽君主の仮面であり、青年に対する不満を吐き出すためのサディスティックな報復行為にすぎないのである。口を開けば儒家思想を謳う彼らの政治が、しかし日本の侵略に対抗するために取り得る手段とはチベットのラマ僧を招聘して中国を守るための神聖な祈祷を捧げることぐらいのものでしかない。儒教の陳腐な片言隻語にサンスクリット語の阿弥陀仏やチベットの祈祷車をないまぜにした今日の中国の政治体制は、きわめて奇妙奇天烈な効果を徒に生んでいるだけで、決して中国青年の関心を引きつけることはないのである。
以上は、中国の保守主義と急進主義の闘争を表面的に眺めてきたにすぎない。今後中国がどのようになっていくかは、日本やヨーロッパの政治動向に大きくかかっているのであり、議論はもはや問題を解決し得るものではない。中国が生き延びる道をもし保守派の首脳が見出せぬのであれば、中国も共産主義に取って代わられるかも知れない。しかしたとえそうなったとしても、保守主義は知識なき広範な大衆の中に民族性として永遠に存在していくことであろう。
最も重要なことは、中国人は決して変革を望んでいないことである。風俗や女性の服装、旅行習慣など、すべての表面的な変化の背後では、中国人は依然として、洋服を身につけ流暢な英語を操る性急な気質の青年を嘲笑する態度をとっているのだ。こうした青年は例外なく幼稚に見え、また彼らは保守的であることを恥じるようなもののようである。
中国では成熟した者は保守主義者に変わるのである。帰国した留学生が中国式の長袍を着、中国の様式によって生活するならば、それは彼が成熟した証拠であり、やがて彼も円熟や悠然たる心境や足るを知る精神を愛するようになる。そして中国の長袍を着ると、あたかも伝統的力が彼を包み込んでくれるような安らぎを覚えるようになるのである。彼らが中年に達しようとするとき、中国を終生の地として選んでいる数多くの奇妙なヨーロッパ人を惹きつけている中国の不思議な伝統的力に、彼らも気付かされることになるのである。
一方、大多数の中国人も自覚的信念からではなく、一種の民族的本能から依然として古いしきたりを墨守している。中華民族の伝統の力とはかくも強いものであり、中国人の基本的な生活方式というものは永遠に存在し続けるように思える。たとえ共産主義政権が支配するような大激変が起ころうとも、社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を打ち砕くというよりは、むしろ個性、寛容、中庸、常識といった古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けのつかぬほどまでに変質させてしまうことであろう。そうなることは間違いない[33]。
こうして該当部分の全訳を読んでから、改めて『名著全集』における中国語訳を読み返すと、不自然なところで訳文が打ち切られていることが分かる。そして、切断されたその直後には、「この中国の文芸復興運動は、その後の一九二六年の思想的急進主義へと繋がり、現在では全中国の小学校教師の思想が共産主義的色彩を帯びるようになったのである」という一文が続いていることから、編集者の「思想的配慮」があったものと考えられる。
さらに、その後の展開を見ていくと、まず「保守派」に対する批判があり、続いて「中国が生き延びる道をもし保守派の首脳が見出せぬのであれば、中国も共産主義に取って代わられるかも知れない。しかしたとえそうなったとしても、保守主義は知識なき広範な大衆の中に民族性として永遠に存在していくことであろう」と述べ、共産主義に対する否定的見解が述べられている。
最後に、駄目押しとばかりに、「たとえ共産主義政権が支配するような大激変が起ころうとも、社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を打ち砕くというよりは、むしろ個性、寛容、中庸、常識といった古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けのつかぬほどまでに変質させてしまうことであろう。そうなることは間違いない」と述べ、共産主義が中国社会に根付かないことを喝破している。
原文の恣意的削除はここだけではない。もっと巧妙に「作為」を加えている部分がある。例えば、同著第7章第11節「西洋文学の影響」では、本来次のように訳出されなければならない。
人民は楽観主義者と悲観主義者の二派に分けることができるが、後者が多数を占めている。建設的な仕事をし、地に足の着いた考えとバランスの取れた批評精神を持つのでなければ、共産主義であれ、ファシズムであれ、いかにスローガンを有難がり、仰々しく言葉を飾り立てても中国に新しい国家を建設することなどできないのである。古い世代の中国人は女性の軟禁や寡婦の貞節に対する崇拝など、中国を再び儒教学説の軌道の上に戻そうとしているが、ただ新しい世代の反感を買うばかりである。同時に理想主義的共産主義者は小脇にカール・マルクスの著作を抱え、髪を振り乱し、ロシアの煙草をくゆらしながら、誰彼構わず絶えず人を攻撃しているが、しかし中国の苦難を救うことはできない。文学というものは、私の考えでは、伝統的な文学にせよ、新文学にせよ、文人学者の食後のくつろいだひとときの暇つぶしに過ぎないと思うのである[34]。
ところが、『名著全集』では上記の下線部を削除し、前後をつなぎ合わせて次のような訳文としている。
中国人民现在可分为乐观主义者与悲观主义者二派,而后者实居大多数。除非是积极进 行建设工作,用公直的态度考虑一切,但凭标语口号,华而不实的多言,不会赋予中国以新的生命。文学这样东西,依著者鄙见,还是文人学士茶余酒后的消遣品,故派也好,新派也好。
「共産主義であれ、ファシズムであれ」の部分は、その削除の恣意性が明らかである。また、「理想主義的共産主義者は小脇にカール・マルクスの著作を抱え、髪を振り乱し、ロシアの煙草をくゆらしながら、誰彼構わず絶えず人を攻撃しているが、しかし中国の苦難を救うことはできない」という部分も、共産主義とマルクスに対する公然たる批判である以上、掲載することが憚られてとしか考えられない。そうでなければ、このような作為的な翻訳は行なわれるはずがない。
こうした削除を行うのであれば、編集者としては、削除した旨を記載すべきである。そして、自らが公平であるという偽善を主張すべきではない。ところが、編集者は次のように宣言しており、なおさら「罪状」が重いと言わざるを得ない。「われわれは、専門家と広範な読者に向けて全面的・体系的に林語堂研究の資料を提供するために本書を出版する。そのため、歴史を尊重し、事実を尊重し、基本的には原著の元の状態を保持した。書中のいつかの観点は、マルクス主義と背反するものである。これは、出版社の観点を代表してはおらず、まして出版社が読者の観点を強いるものではない」[35](筆者訳出)と。このような宣言にもかかわらず、実際には編集者は多くの箇所において「歴史を尊重せず」、「事実を尊重せず」、「原著の元の状態を保持していない」。結果として、編集者が読者に見せたいと思うものしか見せておらず、林語堂の考えとは異なる「観点を読者に強いる」という事態となっている。
4. 真の『全集』の早期出版を希望する
ここまで、やや激烈に『名著全集』を批判してきた。関係諸氏には、筆者の真意をご理解いただき、ご無礼をご寛恕いただければ幸いである。真意とは、『名著全集』の「総序」においても述べられているように、完全版の『林語堂全集』を期待するからに他ならない。梅中泉は次のように『全集』の展望を述べている。
このプロジェクトの難度の大きさに鑑みて、二手に分かれて歩むこととする。まず中国語版『林語堂名著全集』を出版し、林氏の名著を尽く収集して世に出す。その後で、林氏の全著作を尽く収集して併せて『林語堂全集』となす[36](筆者訳出)。
つまり、現在の『名著全集』が不完全版であることは、編者が認めているのである。問題は、完全版の『林語堂全集』がいかなる形態において出版されるかにかかっている。単に林語堂の全ての著作を網羅するだけでは不十分であろう。願わくは、旧来の訳を見直し、「原著を尊重した」編集を行ってもらいたい。もちろん、言論の制約がある中で現在の『名著全集』の刊行されたのであり、ある意味では出版するための「苦労の跡」がその訳文に垣間見られる。そういった意味では、あえて出版をした勇気に敬意を表するとともに、あらためて上記の指摘を踏まえた上で真の『全集』を刊行してもらいたい。それが、大陸における林語堂研究進展の一大契機となろう。
[1] はじめの名は和楽。大学在学中に玉堂に改名、のちに語堂となる。1895(光緒21)年10月10日に福建省龍渓県のキリスト教牧師の家庭に生まれる。ミッションスクール卒業後、清華大学に英語の教師として赴任、独学で中国古典の知識を身に付ける。1919年にハーバード大学に留学、1年後にドイツのイエナ大学、さらにライプチヒ大学で言語学を専攻、23年に博士号を取得して中国に帰国する。帰国後、北京大学、北京師範大学の教授を歴任する一方、魯迅・周作人兄弟の主宰する『語絲』に寄稿する。北京政府をたびたび批判したことから南下を余儀なくされ、26年5月に北京を脱出、廈門大学に逃れた。翌年2月、陳友仁の求めに応じて武漢国民政府外交部の秘書となるが、やがて文筆業に専念するようになる。30年代になると、林語堂は上海で『論語』、『人間世』、『宇宙風』などの雑誌を創刊し、「幽黙大師」として名を馳せる。パール・バックの勧めにより執筆した『吾国与吾民』(My Country and My People)が米国で大好評を博し、36年に渡米する。43年、『啼笑皆非』(Between Tears and Laughter)という論文を書き、中国の抗戦に対する外国からの援助が少ないことを非難し、帝国主義に転化する民主主義の矛盾を指摘する。この直後、林語堂は半年ばかり重慶視察をし、これをもとに同年『枕戈待旦』(The Vigil of a Nation)を出版する。この書物において、「反共」の立場を明確にする。66年、台湾に帰国。76年3月26日、香港にて死去。
[2] 林語堂(合山究訳)「八十年の回想」『自由思想家・林語堂―エッセイと自伝』、明徳出版社、1982年、165頁。
[3] 『林語堂名著全集』第1巻、東北師範大学出版社、1994年、11頁。
[4] 前掲、『自由思想家・林語堂』、234頁。なお、『名著全集』第10巻における同部分の訳は「在周恩来在重庆工作而企图使世界对他信而不疑之时,那是戴维斯和塞维斯(Davis and Service)和迪威时期」(305頁)としており、「反共宣伝」と「蒋介石」の記述を故意に削除している。
[5] 林語堂(合山究訳)『蘇東坡』(下)講談社学術文庫、1987年、339頁。2006年復刊。
[6] 同書、339‐240頁。
[7] 大井浩一「林語堂『忠言』記事の意味」『メディアは知識人をどう使ったか』、勁草書房、2004年、75頁。
[8] 『林語堂伝記資料』1~5、天一出版社、1979年。
[9] 陳麗娟「林語堂《京華煙雲》研究」、中国文化大学 修士論文、1992年。
邱華苓「林語堂《論語》時期幽黙文学研究」、国立中正大学 修士論文、1991年。
胡馨丹「林語堂長篇小説研究」、東海大学 修士論文、1981年。
[10] 竹内好『竹内好全集』第三巻、筑摩書房、1981年、170頁。
[11] 同書、171頁。
[12] 馮羽「『世界人』林語堂研究―林語堂におけるキリスト教の受容について」、岩手大学大学院人文社会科学研究科研究紀要[2001]などがある。
[13] 朴桂聖「林語堂の『東西文化比較論』に関する考察~一九三〇年代思想・文学論を中心に~」、一橋大学言語社会研究科、博士論文、2004年。
[14] 山本賢二「林語堂のジャーナリズム論―その著書『支那に於ける言論の発達』を中心にして―」(『現代中国事情』第7号、日本大学国際関係学部中国情報センター、2006年5月)。また、書評として「林語堂『支那に於ける言論の発達』再読」(『国際関係研究』日本大学、第27巻第1号、2006年7月)がある。
[15] 林語堂(鍬柄治郎訳)『中国=文化と思想』、講談社学術文庫、1999年。
[16] 林語堂(阪本勝訳)『人生をいかに生きるか』(上・下)講談社学術文庫、1979年。現在絶版。
[17] 林語堂(訳者不詳)『涙と笑の間』彰考書院、1943年。現在絶版。
[18] 林語堂(佐藤亮一訳)『ソビエト革命と人間性』東京創元社、1959年。現在絶版。
[19] 林語堂(安藤次郎・河合徹訳)『支那に於ける言論の発達』生活社、1939年。現在絶版。
[20] 前掲、『中国=文化と思想』、128頁。
[21] 竹内、前掲書、168頁。
[22] 合山究「全盛期の林語堂――アメリカにおける圧倒的な成功」、『中国現代文学論集』、中国書店、1990年、216頁。
[23] 同書、217頁。
[24] 合山、前掲書、1982年、232頁。
[25] 竹内、前掲書、174~175頁。
[26] 商鞅、漢武帝、王莽、王安石による政治改革を指すと林語堂は述べている。
[27] 前掲、『蘇東坡』上、141頁。
[28] 前掲、『蘇東坡』下、338‐339頁。
[29] 前掲、『名著全集』第1巻、12頁。
[30] 前掲、『名著全集』、16頁。
[31] 林語堂(四竈恭子訳)『自由のまちへ』白帝社、2001年。なお、本書は中国語訳からの重訳である。
[32] 『名著全集』第20巻、71頁。
[33] 前掲、『中国=文化と思想』、127‐130頁。
[34] 前掲、『中国=文化と思想』、431‐432頁。
[35] 前掲、『名著全集』、16頁。
[36] 前掲、『名著全集』第1巻、15頁。