...韓非子の時代には今日の我々の時代同様、二つの対立する政治思想があった。すなわち儒者の仁者による政治と法家の個人よりはむしろ法律に基づく政治とである。前者は統治者を賢人、君子と見なし、賢人、君子に対する礼を以てこれを遇するというものであり、後者は統治者を無頼、ペテン師、盗人と見なし、政治体系の中に様々な防止策を設けて事前に不穏当な意図を防止しようというものである。前者は中国の伝統的な考え方であり、後者は西洋的な考えであるとともに、また韓非子の観点でもある。まさしく韓非子が「聖人の国を治むるは、人の吾がために善なるを恃まずして、その非を為すを得ざるを用いるなり」と言ったように、我々は決して人の性が善であることを期待してはならず、悪を為すのを防止するように努めねばならないのである。これこそ法家哲学の道徳的基礎である。言い換えれば、我々は統治者が仁者、君子であること、彼らが正義の大道を貫くことを期待することはできないのである。我々は統治者を潜伏中の逃亡犯罪人と仮定し、人民を食いものにする行為や国を売り渡す行為など、予想される犯罪の発生を様々な方法を講じて防がなくてはならない。法による統治が政治の腐敗を防止することは明らかであり、仁者、君子の良心の出現を待つのに較べ遥かに賢明な方法であることははっきりしている[1]。
―林語堂―
序論 林語堂の政治類型
林語堂の政治思想には、相反する2つの重要な主張がある。1つは、「人間性を離れた極端な合理主義を排斥し、常識を重んじる儒家を擁護する」立場であり、いま1つは「政治的腐敗の改善に役立たない儒家のいわゆる道徳的感化を排斥し、韓非子が唱えた『法による支配』、また西欧的な制度に依拠した政体を樹立すべきである」とする立場である。
前者の立場については、すでに拙稿[2]において述べているように、基本的に西欧的価値観を嘲笑し、中国的価値観を弁護するものである。もしこの立場だけを取り上げて林語堂の政治思想を語るとすれば、彼を固陋な保守主義者と捉えかねない。あるいは、「中国的」という言葉によって他の価値観を遮断しようとする偽りのナショナリストとして扱われかねない。だが、林の言論が常にそうであるように、矛盾する2つの主張が決して矛盾しないという地点までわれわれが近付かない限り、決して彼の真意を理解することはできない。
「常識」と「論理(合理主義)」が林語堂政治思想の1つの対立軸であるとすれば、もう1つの対立軸は「儒家思想」と「法家思想」である。そして、仮にこの4つ軸をもとにマトリックスをつくるとすれば、(まことにもって不完全な図ではあるが)以下のようになるだろう。
常識と合理主義という対立軸においては、林語堂は前者を中国的立場、後者を西欧的立場と仮定して、前者を擁護しているが、合理主義はただ西欧にのみ存するのではなく、伝統中国にも内在している。ここにおいて、西欧合理主義という敵を撃退した林は、次の標準を宋学(朱子学)に合わせ、古代の孔子の思想と対立させるのである。
しかし、この古代儒学の立場も林語堂の満足するところではない。彼はさらに、その思想的師たる孔子をも次の攻撃の標準とし、もう1人の師たる韓非子を擁護して中国に「法の支配」を実現すべきと主張するのである。そこに、「中国の目指すべき近代国家」が存在する。この、いわば段階的批判の過程を考察するのが本稿の目的である。
【第一部】 「孔子主義」を祖述する
1. 近世儒学の誤り
林語堂は、西洋人に対して発言する場合には、常に儒家の立場を擁護してきた。しかし、それは儒家の立場の全てを認めていたということを意味しない。彼が擁護したのは、いわゆる古代儒学であり、端的に言えば孔子その人の立場を擁護していた。川口浩の訳語に従って仮にこの立場を「孔子主義」とする[3]。
すると、この「孔子主義」の立場に対峙する最も近き敵は誰であるか。林語堂によれば、それは近世儒学(宋学、朱子学)であるという。その理由を次のように述べている。
...思うに、孔子孟子の力強くいきいきした道理は、宋代の儒者が仏教の薫陶を受けてより、動から静へと転じ、半禅定の状態に陥ってしまったのであるが、これはまちがいであった。孔子や孟子が人に教えた力強い道を回復しようと思うならば、朱子学を排して、孔子に帰らなければだめである[4]。
では、古代儒学に比して近世儒学にはどのような相違があるのか。林語堂によれば、そこには「理障(理に妨げられて真理を悟らぬこと)」による3つの誤りがあったという。
まず第1に、実践躬行と不可分である格物致知(事物について、知識をきわめる)の立場から、思索重視の読書窮理へのその立場を転じてしまったことがあげられる。そのことについては、「朱子は、格物とは窮理であるとし、窮理とは聖賢の書を読むことにほかならないとした。これより格物は、聖賢の書物を読むことに変わってしまった」[5]と批判している。
第2に、宋代に流行した禅宗の教えが儒教を動的なものから静的なものに変えた元凶であると述べている。そのことについては、「生々して息まなければ、一物として動かないものはなく、一時として動かない時はない。動くということに心を用いないで、専ら虚を致し寂を守ることのみを求めるのは、人間社会の常理に反する」[6]と批判している。こうした「人間社会の常理に反する」空理空論ばかりを追求した結果、後世の儒者は実地の役に立たなくなり、ただ浅薄な議論に頭を費やして亡国の災禍を待つばかりとなってしまった。
第3に、仏教によって人欲が否定されたことにより、ますます人間世界から遊離した儒学が発展してしまったことが挙げられるという。林語堂は、これに対しては、いくつかの先哲の言葉によって批判している。例えば、「欲望が存在しなければ、人間の本性はどこに落ち着くのか」(顔習斎)と。仏教は「人欲を洗い尽くして、天理を流行させること」を求めるが、そもそもそうした発想自体が現実的でないということである。さらには、「天理は即ち人欲の中に在り」(王夫之)という真理を擁護している。
こうした3つの誤りを含め、近世儒学を総評するならば、次のようになる。
要するに、宋儒の理学は、儒教の発展過程において、一種の誤った展開を遂げたのであり、孔門の平易な忠信孝悌の実践的教訓を空疎迂遠な論説に変えてしまったのである。朱子の平実さや学問熱心なのはもちろん敬服に値するが、ただ惜しむらくは、程明道の説いた存養〈人格修養〉の大道を歩まず、程伊川の冷徹氷のごとき迂遠な道へはいってしまった。影響の及ぶところ、支離煩瑣となり、その結果、明代心学の反抗を引き起こし、ついには清代の儒者をして宋明の学問をして一括して捨てさせ、漢代の学問の復興を思い立たせることになったのである[7]。
こうした批判により、林語堂は改めて「孔子主義」の祖述者たるその立場を確固たるものとする。そして、奇しくもその批判の根底には、西洋の合理主義に対して儒家思想を擁護した時と同じ精神が垣間見える。純粋な合理主義の立場からすれば、なるほど近世儒学は合理主義とはいえないかもしれない。しかし、理屈を追求する立場、あるいは現実から遊離しかねない極端な思想というという観点からすれば、西欧的民主主義も近世儒学も、林語堂にとっては「異端」な存在であったに違いない。
では、林語堂の考える「正統」なる儒学とは何であるのか。そのことを次節において考察する。
2. 古代儒学の復興
林語堂はまず、「孔子主義」が歴史的に(宋学も含めた敵の)他の学派に勝利してきた事実を次のように叙述する。
...孔子の態度や見解には或る求心性または普遍性があり、西洋教育を受けて成人した近代的支那人の間にすら、孔子の信条に喜びを感じるという事実が見られるからです。孔子の人本主義の求心性と根強い訴えかけとは、独自の不思議な力を持っている。孔子没後数世に亘る政治的混乱と思想戦において、孔子主義は道教、博愛主義、自然主義、法治主義、共産主義およびその他の諸学派に対して勝利を得た。孔子主義は、僅かの期間を除けば、実に二千五百年の長きに亘って支那国民を支配し、各派との対立闘争を通じて常により強力なものとなってきた。紀元前三世紀乃至六世紀に流行した道教を除けば、孔子主義の最大の敵は、宋朝の学者を風靡した仏教であった。〔中略〕しかし孔子学派の間には、大きな誇りが、自説の正しさに対する強い信念があった。それ故に或る時には辛抱強く、或る時には軽悔の念をもって、仏教を否定し、黙殺し得たのであった[8]。
この、常に他者に対して勝利してきた「孔子主義」について、その思想を体系として理解すべきであると林語堂は強く主張する。すなわち、「格言や金言は、孔子主義の影響力の深さを説明するには不充分である。もっと深い信念の統一、または思想の体系無しに、単に格言を集成するだけでは、孔子主義が支配したように、一国民の歴史を支配できるものではない。〔中略〕真理として人に認められる、信念の基本的体系がなかったならば、幾多の格言も容易に陳腐なものになっただけであろう。「論語」は、所詮、孔子の言葉の粋を集成したものにすぎない〔中略〕だから、孔子の思想体系を一つの体系として理解しないかぎり、孔子の影響力や名声の充分な理解に到達することは不可能である」[9]と。
では、孔子の思想の体系とはどのようなものなのか。簡潔に言えば、それは次のようなものである。
...個人的修養に基礎を置きつつ、倫理を通じて達成されるべき合理的な社会秩序の立場を代表するのである。孔子主義は政治的秩序を目ざして、その基礎を道徳的秩序に置き、政治的調和を求めて、その手段を人間自身の道徳的調和のなかに置いた。かくてその最も奇妙な特徴は、政治と倫理との区別の撤廃であった[10]。
この、「政治と倫理との区別の撤廃」こそは、別の場面においては林語堂が標的とするものなのであるが、ここではその思想を祖述している。具体的に言えば、政治と倫理の一致という理想は、かの有名な「修身斉家治国平天下」の思想に結実する。すなわち、「孔子主義は国民生活の整斉の根本を家庭生活の規律に、家庭生活の規律の根本を個人生活の修養に索めた」[11]のである。
こうした孔子の源流から、古代儒学は2つの系統に分かれるのは周知の事実である。一方は主観的な立場を重んじる孟子、他方は客観的な立場を重んじる荀子。一般的には、性善説と性悪説の対立として知られるが、より正確に言えば、それは「仁」と「礼」の対立に他ならない。林語堂は、両者を次のように評する。
「仁」の中心的観念は、それ故、人間が本当に自分自身であるときの状態の概念である。この点から出発して、孟子は、人情の本質に関する彼の全哲学を樹立し、「人性は善である」ということを発見している。一方、荀子は、人性の悪を確信し、教育、音楽、社会秩序の体系、および道徳的行為の外部的形式に関する、孔子の教義の他の一端を取り上げて、抑制を強調しつつ、「礼」の観念を発展させている[12]。
林語堂は、「仁」も「礼」も「孔子主義」の一端であると認識している。そして、ここでさきに批判した宋学が孟子から出発したことを考慮に入れるならば、われわれは林がより「礼」を重んじる荀子に肩入れをしていたと捉える事は邪推ではなかろう。さらに、その荀子の弟子たる韓非子を擁護することからして、林による儒家の「正統」観は、次のようなものであると考えることができる。「(孔子+孟子)×(荀子+韓非子)」。そのことを証明するかのように、次のような一文を残している。
...荀子や韓非子を駆って一気に孔子や孟子を追えば、儒家をして本来持っている力を回復させることができる[13]。
【第二部】 韓非子をもって儒家を批判する
合理主義を重んじる西欧的民主主義に対しては、林語堂は常識を重んじる儒家を擁護した。この戦いに勝利してからは、儒家の内部闘争として、現実から遊離した近世儒学を批判し、政治の基礎を個人修養においた古代儒学を擁護した。そして、今古代儒学たる「孔子主義」が勝利してからは、この「孔子主義」に対抗して韓非子を宣揚する番が来たわけである。
1. 儒家の家族重視は社会意識の欠如をもたらした
あらゆる思想は長短両面を備えている。極端な論理に偏ってはならないという「中庸の道」を説いた儒家思想ではあるが、その理想とは裏腹に、長い歴史の蓄積により、中国は極端に無秩序な社会となった。この責任の所在について、林語堂は第1に中国人の生来の気質を挙げ、第2に儒家の家族重視の弊害を挙げている。
まず、前者についてであるが、一定程度の規模に達した国家社会を統治するには、いかなる指導者と雖も「制度」に頼る必要がある。それは、交通を整理する信号のようなものである。まだ交通量が少ないときには、人が手で指図すれば済むかもしれないが、交通量の激しい大都会においては、機械的な信号によって車両の往来を規制しなければならない。
こうした機械論的な発想こそは、中国人が最も嫌うものであるという。それはなぜであるか。林語堂は次のように述べる。
...中国人の情理を追求する精神とそれによって生じる極端な論理に対する嫌悪の態度は、民族としていかなる制度も信用しないという好ましからざる結果をも招来したのである。制度や機械というものは、非人間的な面があるのを免れないが、中国人はこと非人間的なものに対しては非常に嫌悪の念を感じるのである。法や政府の機械論的観念に対する嫌悪は中国に法治政府の実現を困難にさせているほど強烈なものである。峻厳な法律や私情をいれぬ法治は中国では一度として成功したためしがない。人民がそうしたものを望まないからである[14]。
三段論法に整理すれば、大前提として「中国人は極端な論理や非人間的なものに対して嫌悪の念を感じる」があり、小前提として「法治政府という制度は非人間的・機械論的な側面を持っている」がある。そして、ここから「中国人は法治政府に対して嫌悪の念を感じる」という結論が導き出される。
次に、中国に無秩序をもたらした原因の第2である家族の重視である。実は、この家族というテーマについては、それだけで1つ論文を書けるほどに、林語堂は多岐にわたって論じている。そして、その要諦は、「家族がいかに文明を支えているか」という命題にある。それゆえ、ここで「無秩序の原因」として家族の重視を取り上げることは議論を矛盾させるが、便宜上ここではマイナスの側面のみを論じる。
本来、家族という制度は「個人主義」に対立するものである。それは、家族という共同体の中において「個」を飼いならし、集団生活の規律を教える場に他ならない。ところが、この家族を重視するあまり、家族を超える規範意識を育てることができなかった。その直接の原因は孔子その人にはないが、「修身斉家治国平天下」という段階的な統治思想においては、まず家族があり、その家族の次に国家が存在することになる。こうした儒家の政治思想は、逆に人々から国家という「公」を遠ざからせ、家族という「私」の殻に押し込めてしまったのである。そのことを、林語堂は次のように語る。
道徳教育というものはすべて、社会的には模倣の理論に、教育的には習慣の理論に基づくものである。社会教育の方法は幼いときから正しい態度を身につけさせることにあり、自ずと家族の中から始まる。こうした方法はなんら誤りのあるものではない。唯一の欠点は政治と道徳を混同してしまうことである。その結果、家族に対しては素晴らしい効果を現すが、政治に対しては危害を及ぼすのである。
家族制度は社会制度としては一貫している。儒家は、人民がお互いに自分の手足の如く、すなわち兄弟の如くであれば、必ずや良い国家になるものと堅く信じている。しかし、現代人の観点からすれば、こうした儒教の社会関係には、自己の社会以外の範囲にいる人間に対して果たすべき社会的責任が脱落しているように見える。この脱落がもたらす厄災は深刻である。〔中略〕家族はその友人とともに鉄壁を築き上げ、内に対しては最大限の互恵主義を発揮し、外に対しては冷淡な態度を以て対応しているのである。その結果、家族は堅固な城壁に囲まれた砦となり、外の世界のものはすべて合法的な略奪物の対象となっている[15]。
このように、林語堂の語るところによれば、儒家の道徳教育は家族の内部に対しては素晴らしい効果を発揮するが、政治に対しては危害を及ぼすだけである。では、すでに数千年にわたって危害が及ぼされ続けて無秩序の限界に達した中国社会を救治するには、どうすればよいのだろうか。
2. 政治的腐敗の抑制には、道徳的改良ではなく、「法の支配」だけが有効である
林語堂は、韓非子の学徒として、その法家思想を現代に蘇らせるべきであると主張する。なぜなら、韓非子が直面していた古代中国の課題と現代中国の課題との間には、何らの相違点がなく、韓非子の提示した解決策も何ら変更する必要がないからである。
具体的に、韓非子の思想を導入するに際して、特筆すべき論点が3つあると林語堂は言う。その第1は、「政治的腐敗の抑制には、道徳的改良ではなく、法の支配だけが有効である」ということである。
林語堂は次のように儒家の道徳感化の理想を諷刺する。「彼らは我々が過去に千年に渡り、一年の三六五日を道徳的常套語を論じ来ったにもかかわらず、国を道徳的に改良することを得ず、また清澄にして善良なる政府を樹立することもできなかったということを考うべきであったろう。彼らはまた、道徳化ということが何か役に立つものであったら、今日の中国は聖者と天使のパラダイスと化しているはずであることをも考うべきであったろう」[16]と。さればこそ、清廉な政府を求めるのであれば、すべての道徳的常套語を否定し、道徳的改良のすべての努力を避けなければならない。そして、民衆の道徳的改良を論ずることを早くやめればやめるほど、中国に清澄なる政府を樹立し得ることが早いと、林語堂は信じている。
こうした儒家と法家の立場の違いは、統治者を善人として扱うのか、悪人として扱うのかの違いである。儒家は統治者を善人であると仮定し、彼らが善政を為すことを期待する。これに対し、法家は統治者を悪人であると仮定し、悪性を為さないように警戒する。林語堂は、後者の立場、とりわけ韓非子の立場に拠って次のように儒家に宣戦布告する。
...韓非の言うように、我々は民衆が善人たるを期すべきではなく、彼らが悪人たるを不可能ならしむべきなのである。これすなわち法家の哲学の道徳的基礎である。換言すれば、我々の統治者たちが君子であり正義の道を歩むことを期する代わりに、彼らを将来監獄の囚人となるかも知れぬ者と仮定し、この将来の囚人が民衆を収奪し国を売ることを防止する手段と方法を考案すべきである。諸君は直ちに、この後者の制度こそ、政治的腐敗を抑えるにこれらの紳士の心境の変化を待つよりもはるかに有効であることを知るであろう。
3. 万人に平等な「不可侵の法」を樹立すべし
韓非子思想の要諦の第2は、「万人に平等な『不可侵の法』を樹立すること」である。林語堂は、次のように韓非子を紹介する。
韓非子は、当時の官吏の腐敗と民衆の無感情の原因を遡って、法律保護のないこと、すなわち制度の欠陥に到達した。国民が「公」に尽くさず「私」にのみ尽すその理由は、妥当なる法律的保護のないことに求めなければならず、儒家の言うような道徳とは何の関係もない。つまり、欠陥は人の側にあるのではなく、制度に存している。人々が公共精神を持つことが危険であるとすれば、国に対して無感情の態度をとることはきわめて自然であり、貪欲で腐敗した官吏に何ら刑罰がないとすれば、彼らに清廉を求めるのは、あまりに人間性に求めるところが多すぎるというものである。
では、いかなる制度を存立させるべきか。林語堂は、次のように韓非子の思想を祖述する。
そこで韓非は、統治者と被統治者との双方に等しく適用さるべき「不可侵の法」の樹立を考えたのであり、そしてまた我々はこの点において韓非の現代中国に対する積極的貢献を認めるのである。韓非は、法の至上であるべきこと、すべての人は法の前に平等であるべきこと、しかしてこの法は個人的特権および関係を絶して適用さるべきである、と考えた。この点について、我々はほとんど西洋的な、法律の前における平等という観念を見るだけでなく、ほとんど非中国人的なものとして私を感動せしめる思想の型を見るのである。「礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず」(『礼記』)という儒教の金言に対して、ここに「法は権力者に阿らず、規則は厳格に適用さるべく、したがって法の適用さるるところ、知ある者もこれに服し、力ある者もこれに抗せず、貴き者も刑を免るるを得ず、卑しき者も賞に漏れてはならない」と言った法家のあることはまことに妙とすべきである。韓非は法をもって「高きも、卑きも、知ある者も、知なき者も、平等に見る」べきであると考えたのだ[17]。
この、韓非子の主張するような「不可侵の法」を立てることによって、統治者は恣意的に行動できなくなり、国民は安心して国家に尽くすことができると、林語堂も考えるのである。
4. 立憲君主制の理想
最後に、林語堂は韓非子の道家的側面に注目する。先に、論理的・非人間的・機械論的思考は最も非中国的であると述べたが、韓非子こそは、その最たるものである。なぜなら、その制度論の根幹には抽象的な哲学思想が据えられているからである。
儒家思想では、為政者は政治に精通した者でなければならない。すなわち、「練達の士」でなければならないという。こうした儒教の教えに反して、韓非子の思想は、何ら「練達の士」を必要とせず、いかなる凡庸の士にも運用できる厳格なる制度をつくる、ということにある。
林語堂は、その思想の源流を韓非子の思想上の師の一人たる申陶(申不害)に求める。申不害曰く、「我々は国の目的のために王をもつのであって、王の目的のために国をもつのではない、......我々は官職を満たすために官吏をもつのであって、官吏のために官職をつくるのではない」と。この民主主義思想が韓非子においてさらに体系的に深化し、「賢明にして知恵ある統治者は必ずしもこれを要しない」[18]と宣言するまでになる。
林語堂は、この韓非子の「君主無為主義」に、「立憲君主制」の萌芽をみる。そして、その理想が出生地たる中国ではなく、イギリスにおいて実現されていることを以下のように述べている。
韓非子の思想体系の中には道家的思想が入っている。すなわち「明君無為を上となす」とする思想である。君主が無為であるべきだというのは、彼の見てきた君主は実際には何の政治的能力もなく、ただ常識によって物事を判断しているに過ぎず、何もしないほうがましであり、むしろ君主を実質のない名義だけのものに祭り上げ、機械的な政府機関を作ったほうが、統治者の賢愚に関わりなく政治が公平かつ完全に行われるというのである。立憲君主制をとる現代イギリスには依然国王が存在しているが、しかしその職務は建築物の定礎式や船舶の進水式、爵位の授与など実質のない名誉職に限られ、国家の政治は法律によって機能しているように、国王が賢能であるか否か、徳があるか否かは国民にとって重要なことではなくなっている。このように韓非子が提唱した君主無為主義の理論は、現代のイギリスで大きな成功を収めている[19]。
おわりに
以上、本稿で見てきたように、林語堂の孔子(人治)と韓非子(法治)に対する解釈は、段階的なものとして捉えなければならない。すなわち、第一に、人間性から遊離した西欧の極端な合理主義に対しては、人間社会の常識を重んじる儒家の「人治」を擁護する。しかし、次の段階においては、この「人治」が政治的腐敗を招き、社会秩序を紊乱させていることから、機械論的な制度に立脚する「法治」を擁護する。こうした一連の論理展開を総合するならば、林語堂の志向した「近代国家」とは、「常識を備えた法の支配」と言うことができようか。
その証左として、「常識を逸脱した法治」に対しては、林語堂は「人治」以上に烈々に批判した。例えば、法家の祖の一人ともいえる商鞅の敷いた国家体制については、「ファシスト的全体主義」[20]と評している。そうした言説から汲みとれるように、林語堂が「法治」を擁護するのは、あくまで韓非子の立憲主義、君主無為主義であって、それ以上でもそれ以下でもない。
補論 『林語堂名著全集』所収「孔子的智慧」の訳文について
林語堂には、いわゆる「智慧シリーズ」なる著作群がある。すなわち、Wisdom of Confucius(1938年)、Wisdom of China and India(1942年)、Wisdom of Laotse(1948年)、On the Wisdom of America(1950年)である。これらの著作群の筆頭であり、現在でもなお版を重ねているWisdom of Confuciusは、林語堂の孔子解釈を知る上で必須のものであり、また海外の人が孔子を知る最適入門書ともなっている。
幸いにして、本書は日本においてはやくから翻訳されており、川口浩訳『孔子論』(東京育成社、1939年)として知られている。残念ながら現在では絶版となっているが、少なくとも図書館などにおいて原著の全訳を見ることができるという環境は、ある程度評価してよいだろう。なぜなら、これによってわれわれは林語堂自身の思想をより深く理解できるばかりでなく、中国語訳の可否についても判断することがある程度可能となるからである。
すでに拙稿[21]において、東北師範大学出版社『林語堂名著全集』の不備について触れているが、ここでは、その第二十二巻に収録されている「孔子的智慧」の訳文の是非について論じる。
1.「原文(英文)を尊重しているか」という視点から
林語堂の著作の多くがそうであるように、本書も、西洋人が読むことを前提に英文で書かれている。そのため、中国語の概念を英文で表現するために、並々ならぬ苦労が英語原文にはある。日本語訳を担当した川口氏も、そうした林語堂の意思を尊重し、次のように述べている。
林語堂の英訳は非常に見事である。それだけに彼が英訳にあたって大変な苦心を払ったことは、「総説」の項に述べられている通りである。これを邦訳するに際しては、彼の苦心を無にしないためにも、また彼の解釈をできるだけ生かすためにも、いきおい直訳によらざるを得なかった[22]。
これこそは、訳者の「良心」というものである。では、その「総説」に述べられた林語堂の苦心とは何か。例えば、「礼」「仁」といった概念がある。中国語であればそのままでよいかもしれないが、西洋人に説明する場合には、概念を置き換えなければならない。そこで、林語堂は「礼」については通常の「礼儀・儀式」という訳に加えて、前後の文脈から「社会的秩序の原理」、「道徳的規律」といった自由な訳を試みた。同様に、「仁」については「本当の人間」、「偉大な人間」、「最も完全な人間」という簡易な訳にたどり着いた。
さらに、古典を外国語に翻訳する際の注意点として、林語堂は次の2点を挙げている。
翻訳を実際になす場合に、翻訳者は、文章の意味を掴んだ後でも、二つの仕事に直面させられた。第一は多数の同義語のなかからその一つを選択する仕事である。適確な語を選びそこなえば、言われたことの意味が読者に明瞭に伝わることはまったく駄目になるであろう。〔中略〕第二の仕事として、翻訳者は、比較的精密な近代語の概念を用いて、思想をあらわさないわけにはいかない。翻訳者は接続語を補うばかりでなく、観念のより一層すぐれた定義を補充すべきである。でなければ、訳文が甚だしく無味乾燥になるであろう[23]。
川口氏によってなされた邦訳『孔子論』の訳文は、こうした林語堂の意思を尊重し、慣用的な表現が既にあるものについても、あえて苦心した英語訳に忠実に沿ったかたちとなっている。それゆえ、「儒教」は「孔子主義」となり、「中庸」も「中和」として意図的に訳されている。
これに対し、『全集』に収録されている中国語訳では、林語堂が苦心した言葉が尽くもとの「経典言葉」に戻ってしまっている。また、わかりやすく訳した孔子についての挿話も、元の古文に置き換えられてしまっている。これでは、何ら翻訳した意味がないのではないだろうか。
2.「思想に対する検閲はなされていないか」という視点から
翻訳は、技術的な問題である。しかし、訳文が恣意的に削除されているとすれば、それは政治的な問題である。まずは、次の日本語訳を確認していただきたい。
今日孔子主義は、さらに強大な敵に当面している。それは基督教ではない。西洋の思想と生活との全体制であり、産業時代によってもたらされた新しい社会秩序の到来である。封建制の復活を目的とした政治学としての孔子主義は、おそらく近代の政治学と経済学との発展によって時代遅れになるであろうが、人間教化の体系としては、生活的並びに社会的行為に関する基礎的見解としては、なお依然として独自の地歩を占めるものと信じられる。われわれはまだ、たとえばカール・マルクスの理論と孔子の教義とがけっして衝突しないとか、または両者がなんらの共通点をも持たないというようなところまでは進んでいない。孔子主義は、支那国民の生活の推進力として、今もなお諸種の事柄の国民的処理に指導を与え、苟くも共産主義が支那に導入されているとすれば、その共産主義をも変形させようとしている。孟子が往時の支那的共産主義者と戦って、これを屈服させたのと同じ戦を、われわれは西欧的共産主義に対して繰り返すことになるだけである。孔子主義とその基本的信条との研究が、西半球の人々に興味あると思われるのは、まさにこの意味においてであり、孔子主義の研究こそは支那人の「気風(エトス)」と「風習(モレス)」とを根本的に理解するための手助けとなるであろう[24]。
次に、当該個所の中国語訳をご覧いただきたい。
今天,儒家思想遇到了更大的敌手,但并不是基督教,而是整套的西方思想与生活,以及西方的新的社会思潮,这种西方文明全是工业时代所引起的。儒家思想,若看做是恢复封建社会的一种政治制度,在政治经济的发展之前,被人目为陈旧无用,若视之为人道主义文化,若视之为社会生活上基本的观点,未免失当。我认为儒家思想,仍不失为颠扑不破的真理。儒家思想,在中国人生活上,仍然是一股活的力量,还会影响我们民族的立身处世之道。西方人若研究儒家思想及其基本的信念,他们会了解中国的国情民俗,会受益不浅的[25]。
言うまでもないことであるが、上記日本語訳の下線部が恣意的に削除されていることが分かる。今後、さらに英語原典とも訳文を比較してみたいと思うが、削除された理由は、そうした比較をするまでもなく、「共産主義に対する批判」であることは明らかである。
[1] 林語堂『中国=文化と思想』講談社学術文庫、1999年、321~322頁。
[2] 井上友和「林語堂の政治思想(2)―合理主義批判と常識(情理)の擁護―」(日本大学国際関係学部中国情報センター『現代中国事情』第16号、2007年11月5日発行)。
[3] 林語堂著、川口浩訳『孔子論』東京育成社、1939年。
[4] 林語堂著、合山究訳『自由思想家・林語堂』明徳出版社、1982年、154頁。
[5] 同上、157頁。
[6] 同上、158頁。
[7] 同上、161~162頁。
[8] 前掲書『孔子論』4~5頁。
[9] 同上、6頁。
[10] 同上、6~7頁。
[11] 同上、26頁。
[12] 同上、23頁。
[13] 前掲書、『自由思想家・林語堂』、163頁。
[14] 前掲書、『中国=文化と思想』、185頁。
[15] 同上、280頁。
[16] 林語堂著、喜入虎太郎訳「現代中国の療薬としての『韓非子』」(『中国の知的ライフ・スタイル』青銅社、1979年、61~62頁)
[17] 同上、66頁。
[18] 同上、67頁。
[19] 前掲書、『中国=文化と思想』326頁。
[20] 林語堂著、合山究訳『蘇東坡』講談社学術文庫、1986年、141頁。
[21] 井上友和「林語堂の政治思想(1)研究序説」(日本大学国際関係学部中国情報センター『現代中国事情』第15号、2007年9月5日発行)。
[22] 前掲書、『孔子論』、3頁。
[23] 同上、59頁。
[24] 同上、4~5頁。
[25] 「孔子的智慧」(『林語堂名著全集』第22巻、東北師範大学出版社、1994年、2頁)