日本語版『林語堂全集』を目指して

林語堂の政治思想(4)権力抑制の手段としての「言論の自由」



 我々は、我々が人民のために要求する言論の自由が、役人のためには、行動の自由がなくなることを意味することを知らなければならない。我々が我々の自由を愛するのと同様に、役人は役人の自由を愛する。我々が新聞の自由を要求する場合、我々は実際に、新聞を沈黙させる役人の自由を彼等から取り去ることを要求するのである。我々が、憲法上の権利たる人間の自由を要求する場合、我々は役人から、人民の首を切る自由を取上げようとしているのである。この二種の自由は、互いに全く正反対である[1]。


―林語堂―


 


御史諌官〔台諌〕制度の設置には深い意味があるのですが、これについてたいていの人々は気づいていません。台諌の提議することが、常に正しいとは限らないということは事実ですが、しかしこれらの批判者に完全な自由と多大な責任が与えられることは、単なる形式としてではなく、利己的な人間の権力への台頭を阻止したり、極度に中央集権化した政府につきものの危険を防いだりするという、非常にはっきりした目的のために、最も重要なのであります[2]。


―蘇東坡の上奏文―


 


はじめに


 林語堂が生涯関心を持ち続けた問題の1つに「言論の自由」がある。近代中国の動乱期を生き、政府の専制に対してはいかなる党派といえども批判を躊躇わなかった林にとって、それは自己の存在意義に関わる切実な問題であった。そうした、歴史的な林の立場が、彼をして中国史における言論の歴史を探求させたように思われる。


 林のジャーナリズム論については、すでに山本賢二氏が「林語堂のジャーナリズム論」[3]においてその著書『支那に於ける言論の発達』を題材として分析を加えている。山本氏は、次のように林のジャーナリズム論をまとめている――林は「支配者」と「被支配者」は常に「綱引き」をしており、「世論がどこまで政府の政策を動かし」、「政府を指導操縦し得るか」という「決定的要素」を備える民主主義の基礎に「言論の自由」があり、ジャーナリズムには「正確なる報道」と「自由にして束縛されざる世論を発表」、特に「傷つけられたとき叫び出す自由」が法的に保証された「新聞の自由」がなければならないし、その中では「知識階級」が党派に左右されないしかるべき役割を果たすべきであり、それはまた「一国に於いて新聞が沈黙を強いられさえしなえければ、国家は決して征服されない」ことにもなるとしている。しかし、法的保証があっても、「独裁者」の絶対的権力には及ばないと自嘲しつつも、林は「我々が、言論の自由と市民権の自由とを原理とする憲法のために戦わなければならぬ」と呼びかけ、法治国家と「屈従的な無智な群衆を基礎とせず、知性的なる個々の人間を基礎とする」、すなわち、個人の自立した西欧型の民主主義社会実現に機能するジャーナリズムの必要性を説いているのである[4]――。


 本稿においては、こうした山本論文の考察を継承し、さらに「言論の自由」をテーマとした林の他著(『則天武后』『蘇東坡』など)を取り上げ、林が「言論の自由」の牙城として注目した歴史的政治制度「御史諌官」の権力抑制の機能を考察する。


 


1.「なぜ中国に言論の自由がないのか」という問い


「言論の自由」に関する主著『支那に於ける言論の発達』に先立つ『中国=文化と思想』(原題「My Country and My People」、1935年)において、林は中国人の性格の1つとして「無関心」を挙げ、次のように叙述している。


 


個人の権利が保障されていれば、公益に関心を持つこともできよう。誹謗罪に注意していさえいればいいだけだから。だが、こうした保障がないときには、無関心こそが個人の自由の最良の保障であると、自衛本能が告げているのである。


  換言すれば無関心は決して崇高な徳ではなく、法律の保障のない下での必要な処世態度であり、一種の自己保存の方法であるのだ[5]。


 


 中国人は政治に無関心であり、たとえ意見があったとしても、あえて自らの身に危険が及ぶ発言はしない――そうした「現在」の評価に対し、林はそれが中国人に「先天的」な民族性ではなく、言論に対する「個人の権利の保障」がなされないこと、つまり「後天的」な社会環境の結果であると論じる。


 無関心が中国人に先天的な性格でないとすれば、歴史上いつから中国人は政治に無関心になり、言論の自由を自ら封じてしまったのだろうか。林によれば、「漢代末期までは、中国の文人も決して無関心な態度を潔しとはしなかった」[6]という。数万にも上る学者や学生たちは「積極的に時事問題を論じ、国家の政策や皇族の行為を何憚ることなく弾劾し、その矛先は時に皇帝や宦官にまで及ぶことさえあった」[7]。しかし、こうした政治運動も法律の保障がなかったために結局は弾圧され、以後、魏晋南北朝時代を通じて無関心が中国人の「第2の天性」として培養された。


 こうした問題意識を起点として、「支那に於ける民論と政府権力との抗争の歴史」[8]を考察したものが、やがて『支那に於ける言論の発達』として結実する。


 


2.中国史における言論発信の3つの形態


 1936年に発刊された『支那に於ける言論の発達』(原題は「A History of the Press and Public Opinion in China」の「序説」には、伝統中国における言論発信の通路が3つ挙げられている。


 政治批判の主体は「庶民」と「知識階級」に大分され、さらに後者は公的制度としてみとめられた官職と非公式の民間知識人とに分類される。


 「庶民」による政治批判には、町全体がストライキを起こすことや太鼓を打ち鳴らすデモンストレーション、あるいは役人に直訴するといった形式がある。このうちストライキ(罷市)は「頗る効果的であって、多くは、政府が事件の調査に乗り出し、結局、地方長官の処罰罷免に終つた」[9]という。


 国家組織内部にあって政府を批判し監察する役割を負ったのが、「御史」と呼ばれる官職であった。御史の多くは「欧米における御用新聞の東洋版ともいふべく、屡々時の権力の従僕或は代弁者の役割を務めてゐたのではあるが、一方注目すべきことは、この宮廷御史の中でも厳正なる者は憲法的擁護の何等の特権もなくして、恐るゝ所なく官吏の免職処刑を敢行し或は有力官吏に敵対したものが非常に沢山居た」[10]という。


 非公式の知識人による批判もまた、「真に民衆の声を代表してゐた限りでは、今日の新聞に於ける政治批判に一段と近いものであった」[11]。これら民間の知識人には、官界を引退した旧官僚や地元の有力者、また純粋な学者も含まれるであろう。彼らは時として政府批判のパンフレットを配布して檄を飛ばしたり、直接に皇帝に上疏したりした。さらには、大衆を動員して政治運動を主導することもあった。


 法律による保障がなかったために、こうした伝統的な政治批判の3つの形態は、常に時の政府権力による弾圧を受けた。なぜなら、「役人の眼には、すべての言論が有害で、言論の自由は、それ以上に有害なものであることを知らねばならない。話しもしないし、傷つけられても泣かない温順な国民を役人は好む」[12]からである。しかし、そうした過酷な社会環境にあっても、弾圧と対決し、権力と闘った「英雄」が中国史には存在する。そうした、抗争の歴史と「英雄」の言動について、林は複数の作品で取り上げている。


 


3.『支那に於ける言論の発達』と『蘇東坡』『則天武后』との関係


 『支那に於ける言論の発達』は、第一部「古代」と第二部「現代」から構成され、「古代」では官報と歌謡について取り上げた後、「漢代に於ける政治批判及『党錮』」、「魏・晋に於けるその結果」、「宋代に於ける学生の請願」、「明代に於ける宦官・御史・東林学徒」を章ごとに叙述している。上述の政治批判の3つの形態に即して言うなら、漢代と宋代では主として知識人と政府と対決に、明代では主として御史と政府との対決に焦点を当てている。


 だが、この「言論発達」の通史には欠如している時代がある。1つは、言うまでもなく春秋戦国の諸子百家であるが、これは数量的に膨大であり、無理もないかもしれない。いま1つは、唐代とそれに続く北宋時代である。宋代については、たしかに学生の請願を詳細に取り上げているが、主として南宋時代であり、党派に分かれて激しい政治闘争が行われた北宋が扱われていないのが奇異に感じられる。また、それに先立つ唐代において則天武后の専制に立ち向かった「英雄」たちに触れていないのも不可解である。


 実は、唐代と北宋時代については、それぞれ伝記という同じ形を取って、しかも全く対照的に取り上げている。すなわち、唐代については独裁者「則天武后」を批判的に叙述する傍ら、則天武后に抗いながら弾圧された官僚、逆に体制側に媚びた奸臣、そして最終的には則天武后を幽閉し政府の「正常化」を成しとげた「英雄」たちを描写している。これに対し、北宋時代については林が私淑する蘇東坡の生涯を丁寧に描写する傍ら、政敵の王安石を言論を弾圧する現代の「共産主義」のようになぞらえ、蘇がいかなる思想を持ち、どのように政府権力と対決したかを考察している。


 時系列で整理するなら、1936年に『支那に於ける言論の発達』、1947年に『蘇東坡』(原題は「The Gay Genius―The Life and Times of Su Tungpo」)、1957年に『則天武后』(原題は「Lady Wu―A true Story」)が刊行されており、生涯を通じて「言論の自由」に関心を持ち続けていたことがわかる。


 『則天武后』の序文においては、林はこの伝記の目的を次のように述べている――「犯罪行為と高度の知能が結びついている珍らしい性格の研究として書いた」[13]。そして、現代の独裁者と則天武后を結びつけ、「ボルシェヴィクの最高死刑執行人がコムミュニズムの世界的指導者として礼拝され、外交官たちに敬礼され、輩下に叩頭され、教室では英雄だとか父だとか教えられたのをわれわれは見ている。いや、狂気は昔も今も共通のものなのである」と諷刺している。


さらに、則天武后とスターリンの類似性を次のように叙述する――「物語の進行につれて、彼女とスターリンの類似が次第に顕著になるのに気付かれる筈である。共に将軍や年配の政治家を殺した。粛清や裁判や拷問の手段も同じであった。自供書を楯にとった点も同じなら、大規模な陰謀が行なわれていると虚構の恐怖をでっち上げた点も同じであった。気紛れで残忍で独裁的気質に富み、自画自賛に余念のないところもそっくりである。神経を消耗させて自供を引き出したやり口も同じである。彼女もまた比類ない独裁国家をつくり出した。スターリンは死に至るまで崇拝されたが、武氏も殆んどその死に至るまで崇拝されたのである」[14]。


こうした林の叙述からは、暴走した権力は時代と場所とを問わず常に同じように言論を封殺するものであるという諦観さえ感じられる。しかし、他方で物語の中では、則天武后と対立する太子に「私は陛下は臣下のものが自由率直に話すのを望んでおいでだとばかり思っておりました。確か陛下のお決めになった十二条のひとつに言論の自由があったと記憶しております。言論の自由があってこそ、不正は除かれ過ちは正されるのであります」[15]と述べさせているように、林は希望を捨てておらず、一貫して言論弾圧と対決する「気概のある英雄」に関心を抱き続けていることがわかる。


あるいは、林は権力と対決する「英雄」を自任していたのかもしれない。たとえ、自身の信念と言論が今は無力でも、(則天武后の場合がそうであったように)地下水として流れる批判勢力の清流がいつしか激流となって独裁権力を打倒する。そうした林の思いが、『則天武后』の次の文章に表れている。


 


  人間界には冷酷な法則があって、混乱は必ず秩序をとり戻し、異状は常態に復し、月や星のそれと同じく常に平衡状態が保たれるようになっているらしい。いわば何か眼に見えない機械があって運命の歯車を回転させ、その結果悪は滅び善が栄えるということになるのかもしれぬ。(中略)神の不変の法則は常に、宇宙の運行や人間界諸事万端を調節する陰陽の平衡を求めてやまない。詩人も言う――嵐は永久に続くものではない、と。疫病もいつかは衰えるものである。そして独裁制もまた自ら燃えて尽きてしまうのである[16]。


 


 独裁制が自ら燃え尽きてしまうためには、前提として批判勢力がなくてはならない。また、その批判勢力は民衆の痛みを代表し、かつ国家の舵取りを担える真の愛国者でなければならない。そうした「英傑」の代表者として、林は『則天武后』に先立って蘇東坡を取り上げている。


 


4.「言論の自由」の牙城「御史諌官」の役割―『蘇東坡』―


 伝記『蘇東坡』は、林が最も愛した自著として知られている。その理由について、訳者の合山究は「林語堂は、厖大な蘇東坡の作品や東坡に関する伝記資料を読み進んでゆくうちに、彼自身の投影をそこにみたからではなかろうか」[17]と推測している。おそらくそうであろう。加えて、蘇東坡に学び、蘇の思想を現代に生かそうとする姿勢が林にあったことが読み取れる。なかんずく、権力抑制の機能を持っていた官職「御史」を擁護した蘇の思想は、政治体制の近代化が必要な現代中国にこそ生かされるべきものであると考えた筈です。蘇の伝記という枠組みをこえるほど、「御史」を巡る攻防に関する言及が詳細に叙述されていることに、林の意図がうかがわれる。


(1)    時代背景としての北宋


 『蘇東坡』の内容に触れる前に、時代背景を理解しておく必要がある。京都学派の「宋代近世説」[18]に依拠するなら、北宋は中国近世の勃興期であり、貴族時代である中世に対してその最大の特徴は士大夫の台頭である。他方で、中世文化を彩った貴族階級が没落したことによって、皇帝権力が強化され、いわゆる君主独裁制が確立された時期でもある。


貴族にかわって政治に担うようになった士大夫は、形式的には科挙によって平等に選ばれ、全員が皇帝の臣下であると同時に弟子となる。しかも、「官吏の任期はふつう三年で、わたり鳥のようにたえず転任させられ、一処にながく留任することは許されなかった。しかも、その権限はできるだけ小さく分割され、多くの者から監視されるありさまで、責任をもって任務を尽すことなどとうていでき」[19]ないほど、中央集権的であった。


だが、「君主独裁とは君主の恣意がすべての政治の根源となるの謂ではない。これを官制よりいえば、なるべく多くの機関を直接君主指揮の下に置き、あらゆる国家機能が君主一人の手によってのみ統轄せらるる組織をいう」[20]のであって、君主が何もかも決済することは稀有であるため、「独裁」の実態は「自由放任」に傾きがちであった。もちろん、官僚の権限自体は縮小されているため、効果的な裁量を官僚が揮うことは叶わなかったが、「言論の自由度」という立場から見るならば、宋代は中国史上でも「比較的自由」といえる稀有な時代であった。


宋代が比較的言論の自由を謳歌できた理由の1つに、いわゆる「石刻の遺訓」と呼ばれる開祖趙匡胤の「遺訓」の存在が挙げられる。遺訓の第1は趙匡胤に禅譲した「後周王室柴氏の面倒をいつまでもみること」であり、第2は「士大夫を言論を理由として殺してはならぬ」[21]ということであった。この遺訓は趙家の皇帝に代々受け継がれ、南宋滅亡にいたるまで守られた。


林の『蘇東坡』を理解するには、こうした北宋の時代背景、すなわち「他の時代に比べ、言論によって刑死する官僚は皆無といってよく、活発な論戦がなされた」という宋代の「自由な風潮」を脳裏においておく必要がる。そうでなければ、言論を封殺しようとした王安石に対してなぜ蘇東坡があれほどまでに抵抗したかを、単なる派閥争いとして見誤ることになる。


(2)    王安石による思想統制


  蘇東坡は、政治家として北宋の「言論の危機」に立ち会った。それは、王安石による「政治改革」という名の専制であった。王安石の政策は、歴史上「新法」として知られる。それは、大商人・大地主たちの利益を制限して中小の農民・商人たちを保護することを目的としたものであるとされるが、林によれば、「社会主義的」なものであったという。そして、次のようにその偽善性を諷刺している――「王安石が、ファシスト的思想家商鞅の崇拝者で、この男のよりよき弁護の詩を書いたのは、興味ある事実である。同時に注意しなければならないことは、全体主義理論が遂行されるときには、古今を問わず、必ず国家と人民の利益のためにという基本的アピールがあったということである。歴史上において、『人民』の名の下に、どれだけ多くの政治的罪悪がなされてきたか、現代の読者はよくわかるであろう」[22]。


 王の政策は、あまりにも過激なものであり、「人民のため」というスローガンに反して庶民の生活に混乱を与えるものである――そう考えた官僚の多くはこれに反対した。その代表的な人物には『資治通鑑』の著書として有名な司馬光も含まれていた。司馬と蘇は意見を異にすることも多くあったが、この件に関しては一致して反対した。


 こうした巨頭の反対に屈するどころか、意志の強い王は逆襲に転ずる。それが、「思想統制」に他ならなかった。思想統制の矛先が真っ先に向いたのは、政府批判の牙城たる「御史諌官」であった。林は次のように叙述する。


 


  「意地っぱり宰相」は、友人であれ、政敵であれ、どの方面からの反対をも許さなかった。雄弁家であった彼は、強大な国家を建設する計画について、若い皇帝を説得することができなかったので、社会主義計画を遂行する決心をした。これは、一般的には反対意見を沈黙させること、なかんずく御史諌官を沈黙させることを意味したが、この御史諌官は、朝廷の政策や運営を批判し、「世論を上達するパイプ役」として行動する任務をおびていたのである。よい朝廷は「世論をくみあげる道をもつ」〔開言路〕が、悪い朝廷はそれをもたないというのが、中国の政治思想の基礎であった。したがって、闘争は新政策自体の問題から始まったが、まもなく、もっと根本的な問題、つまり批判したり異議を唱えたりする自由の問題へと波及したのは、自然の成り行きであった[23]。


 


 ことここに至って、蘇は言論の士として「自由」を守るために皇帝に是非を正すための上奏文を提出することになる。


(3)    権力抑制の牙城「御史諌官」を死守する!―蘇東坡の上奏文―


 「御史台」なる機関は、「中国政治史上長い伝統を有する制度で、その目的は世論を代表し、たえず支配体制を牽制したり、批判したりすることにあった」[24]。しかも、それは単なる形式的なものではなかった。林によれば、「世論の動向が正しく反映されるように、自由な批判が皇帝に快く受け入れられることは、よい朝廷にとって不可欠なものと考えられた。その地位のゆえに、御史は驚くほどの権力と責任をもち、もし御史たちが激しく攻撃すれば、政権を倒すことも可能であった。それは、朝廷の人事や政策に変化をもたらすための、幾分手ぬるく、また余りはっきりしない制度であり、現代の新聞といささか似かよった働きをしていた」[25]。いまや、この伝統的な官職である御史諌官が王によって追放されようとしていた。


 この危機に対し、蘇は単に「政策に反対であるから」という表面的なことではなく、あくまで「制度の原理原則」という観点から反対意見を述べた。権力の存立基盤は何にあるのか? 御史諌官という役職はなぜ設置されたのか? なぜそれを廃止してはならないのか? そうした原理原則論を展開した蘇の上奏文は、そのまま林の思想に影響を与えていると言えよう。


 まず、蘇は支配者の権力の基盤は人心を得ることにあるとして、次のよう上奏している


 


  支配者の権力の基盤は、すべて人心を得ることにあります。支配者に対する人民の支持の関係は、樹に対する根、灯に対する油、魚に対する水、農夫に対する田、商人に対する財のごときものかと思います。樹は根を切られると枯れ、灯は油が尽きると消え、魚は水から離れると死に、農夫は田を奪われると餓死し、商人は資本がなくなると破産します。而して皇帝は、人民の支持を失ったとき破滅を招きます。これはいかなる支配者といえども逃れることのできない冷厳な法則であります。古来、支配者は常にこの危険に直面してきたのであります。


 


故に、意見の自由な表現を封殺することは、樹の根を断つことに等しく、むしろ政権の弱体化をもたらすと蘇は考える。そればかりではない。一たび自由な風潮が破壊されると、誰もが意見を言わなくなり、国家の大事にあたって命を投げ出すような人材が現れなくなるという恐ろしい事態に陥るという。そのことを、蘇は次のように上奏している。


 


 平和なときに、恐れを知らぬ批判者が朝廷にいなくなると、危急存亡の秋に、国のために喜んで生命を投げ出す国民的英雄もまたいなくなるという結果をまぬかれることはできません。もし陛下が人民に批判の言葉を一言もお許しにならなければ、一旦緩急の場合、どうして人民が国のために死ぬことを期待できましょうか[26]。


 


「人民の支持を得ることが権力の存立基盤である」というこの主張は、蘇の上奏文の導入部分である。この導入部分に続いて、本論である「御史諌官」の叙述に進んでいく。御史諌官について述べるにあたり、蘇はまず中央集権と地方分権の歴史的変遷を総括する。すなわち、中国の政治制度を研究すると、「中央政府と地方政府との間に、常に権力のバランスの問題が存在し」ていたことがわかる。このうち、「周代や唐代においては、地方分権の傾向が強く、一方、秦や魏においては、中央集権に傾きがち」であったという。


中央集権も地方分権もそれ自体は善でも悪でもなく、あくまでバランスが重要である。「中央集権が強すぎると、宮廷に密着したわずかの姦臣が、皇帝を道具として権力をほしいままにする結果となり、一方地方分権が強すぎると、地方の長官が余りに強大な力をもつようになって、時には反旗をひるがえす結果ともな」る。「だから偉大な政治家は、国家がなお繁栄の絶頂にある間に、腐敗と衰退の原因に対処して、先見の明を示すもの」[27]であるという。こうした歴史的考察をもとに現下の宋代と比較すると、「本朝は中央集権化した政治制度へ傾いている」[28]というのが蘇の分析であった。そして、この欠陥を補う制度こそが御史諌官であるとして、次のように上奏している。


 


陛下の祖先である本朝の創始者たちが、中央集権制のはらむ危険を防止する手段として、どんな事を考えていたかを、私はあえて忖度しようとは思いません。しかし私には、御史諌官の設置こそ、そのような危険を防ぐ安全装置として意図されたもののように思われます[29]。


 


この文章のあとに、本稿冒頭に掲げた、御史諌官の意義を説いた蘇の上奏文が続く。そして、最後に「陛下が、この台諌制度の目的と趣旨を熟慮なされて、皇孫の保護のためにそれを保持し続けられることを、私は希望いたします。朝廷の正しい機能を維持する上に、この制度ほど重要なものはないと、私は思います」[30]と結んでいる。


 


5.「言論の自由」の限界と価値


 以上、本稿においては、「言論の自由」をめぐる林の批評は、『支那における言論の発達』を起点としながらも、『中国=文化と思想』にすでに主張の萌芽があり、やがて『蘇東坡』や『則天武后』といった伝記にも継承されていく体系的なものであることを明らかにしてきた。


『蘇東坡』を書き終えた林の脳裏には、どのような思いが去来したであろうか。かつて林は『支那における言論の発達』において、御史について次のように評価している――「宮廷御史の裏には、本質的には民主主義的な政府の原理があつたのだが、之は時に西欧人には看過されてゐる。たしかに支那は絶対君主政国家であり、選挙民も議会も全くなかつた。自治政府の近代的機構らしいものも、全く缺けてゐた。にも拘らず、支那の学者や哲人は、最も夙くから、政府は人民の意志を基礎とするものであり、政府がこれを失ふ時は崩壊の運命を甘受せねばならぬといふ仮説を懐いてゐた」[31]。


 林が西欧的な「法の支配」を擁護していたこと、さらに、政治批判に法的保障を与えることが権力抑制につながると主張していたことを考え合わせると、歴史的に存在した御史諌官を現代に再生させ、それに法的保護を与えることが林の政治思想、政治的提言であると言える。だが、そうすれば「言論の自由」が保障され、世論も反映され、独裁制は解消され、すべてがうまくいくと林が考えたわけでは決してない。『蘇東坡』において、


 


  言論の自由は、士大夫自身が独立した思考と勇気ある批判精神を身につけていないかぎり、無益であった。(中略)蘇東坡は、士大夫が独力でものを考えることを忘れ果てた、時代の沈滞した空気を深く憂慮していた[32]。


 


と述べているように、最終的には、制度を運用する人間の批判精神如何にかかっているという付帯条項を添えることを忘れていない。


 そうした限界はあるが、「言論の自由と市民権の自由とを原理とする」民主主義は、「ヨーロッパかに依つて人類にもたらされた、数少ない贈物の一つ」であると林は説く。この贈物を受け取り、自らの文化と融合させ、中国が「知性的な個々の人間を基礎として、進歩の大道を進」[33]む日を、台湾の地に眠る林語堂は今も静かに待ち望んでいる。


 


読書紹介(「言論の自由」をめぐる林語堂の著作)


【単行本】


◎『My Country and My People』(原語は英語)


 詳細については本稿本文にて紹介済。邦訳も中国語訳も複数出ている。邦訳の全訳で入手しやすいのは鋤柄訳。中国語訳については、「全訳」と称するものが複数入手できる状況にあるが、共産主義批判に関する部分が削除されているなど、「林語堂名著全集」所収のものを含めほとんどが恣意的な編集をしている。管見の限り、中国語訳で正確に訳しているのは学林出版社のものだけである。原著については、現在も市販で入手できる。


・鋤柄治郎訳『中国=文化と思想』(講談社学術文庫、1999年)。


・黄嘉德訳『吾国与吾民』(全集第20巻、东北师范大学出版社、1994年)。


・郝志东・沈益洪訳『中国人<全译本>』(学林出版社、2007年)。


 


◎『A History of the Press and Public Opinion in China』(原語は英語)


 詳細については本稿本文にて紹介済。邦訳は現在絶版になっているが、安藤・河合両氏の良訳がある。中国語訳については、長く存在しなかったが、近年立て続けに2つの訳が出来した。まだ詳細には読んでいないが、中国人民大学出版社訳と上海人民出版社訳とではいくつか重要な用語の訳が異なっており、場合によっては意味を取り違える可能性がある。なお、全集には未収録である。原著は、市販では入手困難。


・安藤次郎・河合徹訳『支那に於ける言論の発達』(生活社、1939年)。


・王海・何洪亮訳『中国新闻舆论史』(中国人民出版社、2008年6月)。


・刘小雷訳『中国新闻舆论史 一部关于民意与专制斗争的历史』(上海人民出版社、2008年12月)。


 


◎『The Gay Genius―The Life and Times of Su Tungpo』(原語は英語)


 詳細について本稿本文にて紹介済。邦訳、中国語訳、原著ともに市販に手入手可能。


・合山究訳『蘇東坡』上・下(講談社学術文庫、2006年)。


・张振玉訳『苏东坡传』(全集第11巻)。


 


◎『Lady Wu―A true Story』(原語は英語)


 詳細については本稿本文にて紹介済。邦訳は現在絶版になっているが、小沼の良訳がある。中国語訳も全集に収録されているが、共産主義批判が含まれる「序文」が削除されている。原著は市販では入手困難。


・小沼丹訳『則天武后』(みすず書房、1959年)。


・张振玉訳『武则天传』(全集第12巻)。


 


【エッセイ】


◎「談言論自由」(原語は中国語)


1933年3月4日、上海青年民権同盟にて講演されたもの。雑誌『論語』第13期掲載。中国に必要な言論の自由とは、単に話す自由ではなく、「傷つけられた時に泣く」という自由であり、この自由は役人の自由と対立するものであることが説かれている。


・土屋光司訳『愛と諷刺』所収「言論の自由」(飛鳥書店、1946年)。


・『行素集』所収「谈言论自由」(全集第14巻)。


 


◎「中国的国民性―散漫性之来源」(原語は中国語)


1935年5月27日、大厦大学にて講演されたもの。雑誌『人間世』第32期掲載。中国人を「バラバラな砂」にしているのはその自己防衛の態度にある。故に、法律上の人権の保障を与えることによってのみ中国人を団結させ、政治に関心を持たせることができると説いている。


・魚返善雄訳『東西の国民性』所収「中国の国民性」(増進堂、1946年)。


・『拾遗集(下)』所収「中国的国民性」(全集第18巻)。




[1] 林語堂著、土屋光司訳『愛と諷刺』(飛鳥書店、1946年)所収「言論の自由」、152頁。

[2] 林語堂著、合山究訳『蘇東坡(上)』(講談社学術文庫、2006年)、213214頁。

[3] 『現代中国事情』第7号、日本大学国際関係学部中国情報センター、20065月。

[4] 同『現代中国事情』第7号、52頁。

[5] 林語堂著、鋤柄治郎訳『中国=文化と思想』(講談社学術文庫、1999年)、92頁。

[6] 同『中国=文化と思想』、93頁。

[7] 93頁。

[8] 林語堂著、安藤次郎・河合徹訳『支那に於ける言論の発達』(生活社、1939年)、5頁。

[9] 10頁。

[10] 11頁。

[11] 12頁。

[12] 前掲『愛と諷刺』所収「言論の自由」、152頁。

[13] 林語堂著、小沼丹訳『則天武后』(みすず書房、1959年)、2頁。

[14] 3頁。

[15] 103頁。

[16] 182頁。

[17] 林語堂著、合山究訳『蘇東坡(下)』(講談社学術文庫、2006年)、326頁。

[18] 内藤湖南『東洋文化史』所収「概括的唐宋時代観」(中公クラシックス、2004年)参照。

[19] 佐伯富『宋の新文化』(「中国文明の歴史」第6巻、中公文庫、2000年)、90頁。

[20] 宮崎市定『アジア史論』(中公クラシックス、2002年)、165頁。

[21] 陳舜臣『宋とその周辺』(「中国の歴史」第8巻、平凡社、1982年)、187頁。

[22] 前掲『蘇東坡(上)』、142頁。

[23] 180頁。

[24] 200頁。

[25] 200頁。

[26] 212頁。

[27] 以上、同212213頁。

[28] 同、213頁。

[29] 213頁。

[30] 214頁。

[31] 前掲『支那における言論の発達』、79頁。

[32] 前掲『蘇東坡(下)』、152頁。

[33] 以上、前掲『支那に於ける言論の発達』、237頁。


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