日本語版『林語堂全集』を目指して

竈神の口を塞ぐことについて

  私はたつた今、竈神の口を塞いだ。中國の人々は皆、これが最も愉快で安價な祭祀であることを知つてゐる。竈神は一枚の赤い紙で表され、適當な形に切り取られて、通常は臺所の壁に貼付けられる。彼の口を塞ぐ過程に難しいことは何もなく、ただ御供物として何らかのペーストを彼の口に塗るだけでよい。古來の中國の習慣によれば、太陰暦の十二月二十三日は竈神が天上界に行く大きな祭日になつてゐるのだ。そのため、爆竹と適切な儀式で彼を送り出す必要がある。しかしながら我々を惱ませるのはまさにそれであり、竈神は新年の旅路において家族の構成員の個人的行爲を玉皇上帝(最高神)に報告する義務を負つてゐると考へられてゐる。竈神が眞實を述べる習慣を持つてゐるかどうか、傳統は我々に教へてくれない。だが、そのやうな偶發性に對して抵抗するのは、賢明であることを傳統は教へてくれてゐる。そこで、二十三日には他の儀式に加へて、我々はもち米の生地でつくられ、砂糖が詰められた一種の粘質の菓子を食べるか、あるいは種子を植ゑる。竈神の口がこれによつて效果的に塞がれるだらうといふ深い確信をもつて、我々は彼の口を横切るやうにこの粘質の菓子を塗る。たとへ彼の口が效果的に封じられなくとも、彼の舌はほとんど常に口蓋によつて塞がれてゐるため、結果として玉皇上帝が彼の報告を聞いても理解することはできないだらう。それは地上界にゐる我々すべてにとつて大いなる幸運である。
  古來の儀式の中で最も愉快に自らの役割を果たしたこと、また竈神に對する檢閲を確立したこと、その哲學的な重要性に私は強く心引かれた。さうして、私はいくつかの所見を得た。それは以下の通りである。
(一)中國人は確かに非常に利口な民族である。彼らは常に神の裏をかくことができる。竈神に對して、深く同情する。
(二)檢閲の習慣は、萬民に親しまれた、中國の非常に古く一般的な慣例である。歴史が我々に傳へるところでは、二千年前、中國人は「彼らの口は三度塞がれた」といふ奇怪な意匠の「金色の」鐵(?)を鑄造した。したがつて、國民黨が新聞と雜誌の抑壓を愉快な娯樂と見なしてゐること、また右でも左でもなく、左翼がかつてもゐない『生活週刊』のやうな新聞に對してさへ、粘質の菓子が給仕されるのは、何ら驚くべきことではない。
(三)中國では、誰もが他の人すべての口を塞ぎたがる。中國人は皆、生來の、そして潛在的な檢閲官であり、頂點に到達するや否や完全にその姿を露にする。そこで、市民全體が潛在的な檢閲官である國では、全くの唖者にならない限りは、ある種の定式が見つかるのは間違ひない。少なくとも國家の一部の人々あるいはある階級の聲がそのまま存續できるルールが提供されるはずである。その定式は下記であると私は信ずる――あなたは私の口を塞いではならない。だが、私はあなたの口を塞がなくてはならない。大きな拳を備へたこの定式に對する信頼を保持することができる仲間は、自らの聲をそのまま發することができる者である。だからこそ、我々は騷々しい話し手を常に政界において見つけるのだ。
(四)世界のあらゆる支配者たちは、口を塞ぐことの效果を信じてゐる、さう中國の人々、また私は信ずる。義理の娘を虐待する繼母が竈神に飴をつけることに成功したなら、彼女は死に際し、天空から彼女を歡迎し、そして天上界へ彼女を護衞するために、玉皇上帝が花籠を持つた少女と樂器を奏でる天使たちを遣はすだらうと信ずるだけの理由がある。
(五)眞實を話す者は、常に厄介者の神または人間として見なされた。したがつて、「犬の口に象牙を見つけることはできない(狗嘴吐不出象牙)」(英語の諺「豚の耳で絹の財布を作ることはできない」に相當する中國の諺)といふ諺は、必ずしも正しいとは限らない。宣傳者および稱讚者だけが象牙を所有すると考へられる一方で、眞實を話す者は一般に豚の齒を持つことがわかるだらう。したがつて――
(六)人間の口の主要な機能は御飯を食べることであり、その第二の機能は「はい、先生」「閣下」「陛下」と言ふことである。
(七)批評家を政府の代辯者および稱讚者に變へる最も單純な方法は、彼に飴の姿をした「現なま」を與へることである。いくらかの飴を犬に與へなさい、さうすればあなたのための齒を生やすだらう。
(八)口を塞ぐことは、單に大衆的で愉快な娯樂であるばかりでなく、非常に安價なものでもある。中國の飴の費用がそのことを傳へてゐることが分かるはずだ。
(九)中國人は、同時にやや素朴な民族である。竈神が皆、口を塞がれて戻つてくるのを玉皇上帝が目にした場合、少しでも人間に關する情報を持つてゐれば、我々が大いに腐敗してゐると思ふのではないか。彼にとつて、眞實を得るために竈神を必要とはしない。しかし、そこにはある可能性がある――
(十)玉皇上帝は、おそらく彼自身、中國人なのだらう。萬一さうであるなら、やはり全く問題はないといふことになる。たとへ竈神の口が效果的に塞がれてゐなくても、彼らの舌は多かれ少なかれ妨害されるだらう。その結果、彼らの報告は全く明瞭ではなく、謂はゆる「馬々虎々」(いい加減、適當)のスタイルが生じる。もし玉皇上帝が中國人であり、竈神が何を言つてゐるか正確に聞くことができなかつたならば、彼はそのままやり過ごし、さらに質問することはしない。竈神が「馬々虎々」であり得るのに、どうして玉皇上帝が「馬々虎々」でないことがあり得ようか? それは、「弘法にも筆の誤り」といふ金言からも知ることができる。もし年老いた玉皇が中國人ならば、間違ひなくひたすら頷くだらう。それなのに、心配する必要があらうか?
 

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