―ソウルで開催された第37回国際ペンクラブ大会での講演(1970)―
ご列席の淑女、紳士の皆さん、私は本大会が特別に提起したテーマに対して、この「東西文化のユーモア」という演題で演説を発表できることに深い喜びを感じています。ベルクソンは「ユーモアは緊張の感情を分散させ、神経を弛緩させる」と言ったことがありますが、我々がこのテーマについて討論した後には、皆さんが再び過度の緊張という誤りを犯すことがないことを望んでいます。
ユーモアは人類の開かれた心に咲く花
一般に、泣くことはすべての動物が共有する本能であり、笑うことは霊長類だけの特性であると考えられています。この特性は我々と我々の祖先である類人猿だけが持っているものです。さらに一言補足するなら、思想は人間の本能ですが、一人の人間の過ちに対して、ただ笑って済ますことができるのは神ということになるでしょう。
イルカが嬉しそうに遊び戯れることを私は否定しませんが、象や馬が笑うかどうかまでは私にはわかりません。たとえ彼らが笑えたとしても、それを明確に表現することはできないでしょう。ユーモアの発展は、心の発展と並進していくものであると私は考えています。ゆえに、ユーモアは人類の心が伸び伸びと成長した花であり、それは心の解放、あるいは解放された心である。ただ解放された心だけが客観的に万事万物を静観し、環境の虜にならないことを可能にするのです。
ヴィクトリア女王の遺言
これは文明がもたらす一つの特殊な賜物であると言えるでしょう。文明がある一定程度にまで発展するたびごとに、人間は自らの過ちと仲間の過ちに気づくようになり、そこにおいてユーモアが出現したのです。統治者たちの愚行、政客たちの偽善の顔と古臭いありきたりの論調および人類の弱点と欠点、徒労無益な努力と作為的な態度、我々自身の夢と現実との食い違い。人間の知力がそれらに気づくことができた時、ユーモアは必ずや文学として表現されます。
ゆえに、ユーモアは人類の理解力の一つの特殊な賜物でもあります。私はヴィクトリア女王の臨終前の最後の遺言が特に気に入っています。自らの死期がすでに近いことを知ったこの大英帝国の統治者の最後の言葉は「私はすでに全力を尽くした」であったといいます。彼女は、自分は完璧な人ではないが、彼女の一生を通じてすでに最大限の努力を尽くしたことを知っていました。私はそのような謙虚さ、健全にして情熱的かつ人情味のある智慧が好きです。これこそは最も素晴らしいユーモアの一つです。
痒いところを掻くのは人生の一大娯楽
時に我々はユーモアと機智とを混同します。ひどい場合には、それを他人に対する嘲笑や軽蔑と勘違いことさえあります。実際のところ、この種の悪意から発するような態度は、諧謔あるいは諷刺と称すべきものです。諧謔と諷刺は人を傷つけるものであり、厳冬に顔を吹きつける冷たい風のようなものです。ユーモアとは、天から降り注ぐ恵みの雨のようなものであり、人と人との間の友情の気楽さと快適さの雰囲気の中で我々を育みます。それはさらさらと流れる渓流、あるいは草原を青く照らし出す陽光のようなものです。諧謔と諷刺は感情を損ね、相手方に不快な気まずさを抱かせて、傍観者が面白がるものです。ユーモアは、軽妙に人の情緒をからかうものであり、痒いところ掻くのと同じです。痒いところを掻くのは人生の一大娯楽であり、言い尽くせない快適さを感じることができます。時には気持ちが良すぎて、無意識のうちにいつまえも掻き続けていることさえあるほどです。それもまた、最も素晴らしいユーモアの特性です。それはまるで、小さな火花の閃光のようなもので、至るところに爽快な息吹が広がり、どの行の文字に指を置いてその所在を示せばよかわからず、ただ単に爽快さを感じます。どこが、そしてなぜ爽快なのかはわからずに、ひたすら作者が継続してくれることを望むばかりです。
友人との間の会心の微笑
そのため、我々はユーモアの真髄と各種作用が混淆した紛らわしい語意とを区別しなければなりません。それはまさに、哄笑と冷笑、腹を抱えての大笑とあっさりとした微笑あるいはくすくすと笑う嘲笑とを区別するのと同じです。私は、作家の淡い哀しみを含んだ微笑が好きです。それはガレスの「墓園の哀歌」のように、我々に少しの甘い憂鬱を与えてくれます。絶妙な微笑の一つは、二人の友人が相対した時の「会心の微笑」であり、一般に言う「お互いに親密で逆らうことがない」「心の中を理解し合っており、言葉にして説明する必要がない」という微笑に他なりません。エマーソンとカーライルが初めて会った時、彼らは一言も発することなくして、ただ「心が相通じる」ように微笑んだといいます。これこそが、中国人が最も高く評価する「会心の微笑」です。
仏陀とキリストの愛と恕
淑女、紳士の皆さん、最も精微で純粋なユーモアとは、ある種の思想を含んだものであり、なおかつ人に深い啓発を与える笑いへと導くものであると私は考えています。もし我々が天使ならば、ユーモアなど必要ではなく、毎日のように空を飛んで讃美詩を吟唱していればいいわけです。不幸にも、我々はこの人間世界に生存し、天使と悪魔の境界にいます。人生は悲哀と憂愁、愚行と疲弊に満ちています。だからこそ、ユーモアによって人の潜在力を発揮させ、精神の重要な啓示を蘇らせることが必要なのです。
それは広大無辺の哀憐――悲痛慟哭するとともに、深い同情の態度をもって人生を洞察する中に表れます。これはただ人類の最も偉大な人物によってのみ到達できる境地であり、仏陀とイエスがまさにこれに当たる。仏陀の教訓は「憐天下万物(天下万物を憐れむ)」という五文字で総括することができると私は思います。イエスは捕えられた淫婦が、まさにユダヤ人の村人に包囲されて投石を受けようとしていた時に、「待て! 汝らの中、罪なき者、まず石をなげうて」と説かれました。これは寛大な哀憐にして、なおかつ衆人に反省を促す警戒を表しています。また、崇高なる洞察力であり、全人類に対する慈悲と仁恕(思いやり)を含んだ理解に他なりません。
ソクラテスの乱暴な妻
皆さんご存知のように、ソクラテスには乱暴な気性の荒い妻がいました。ソクラテスは奥さんから続けざまに罵倒されるたびに、家を出て静かな場所を探しに行ったものです。彼がまさに門を出ようとした時、気性の荒い妻は一桶の冷水を窓から彼の頭上にかけ、ソクラテスは全身ずぶ濡れになりました。彼は全く怒気を表すことなく、自らにこう言いました、「雷の後は雨はつきものだ」と。このように泰然自若としてアクロポリスに向かっていきました。
彼はかつて結婚を乗馬に擬したことがあります。もし乗馬を練習したいなら、一頭の野馬を選ぶべきであって、飼い馴らされた良馬で安全を期するなら、そもそも練習など必要ありません。
ギリシア哲学の中の逍遥学派の勃興には、ソクラテスの奥さんの功労が関係していることを知る者は多くありません。もしソクラテスが、彼を大切にしてくれる妻の温もりある胸の中に抱かれて酔いしれ、慈愛に満ちていたならば、決して街頭を歩き回って、道行く人を呼び止めて困らせるような問題を問うようなことはしなかったはずです。
粗探しをするリンカーンの奥さん
もう一人の偉人はリンカーンで、やはり同じように彼の興奮しやすい妻に促されて、米国大統領になりました。リンカーンはよく酒場の席に座って他の人と冗談を言い合っていました。彼の伝記を書いた人によれば、毎週末の夜に訪れ、みんなが家に帰ろうとしても、独りリンカーンだけは家に帰ろうとしませんでした。彼は酒場で人々と親しくなるために、その機智を強化しました。こうして彼は、純朴で自然なユーモアの感覚を獲得し、英語に精通した人間になることができたのです。
ある日、一人の若い新聞配りが新聞をリンカーンの奥さんに届けたところ、ちょっとだけ遅れたために、リンカーンの奥さんから痛罵されました。びっくりした新聞配りの坊やは頭を抱えて遁走し、彼のボスのところに行って泣きながら訴えました。そこは小さな町であったため、人々は誰もが互いに面識を持っていました。その後、新聞社の経営者がリンカーンにたまたま会った時にこの件に言及したところ、リンカーンは彼に対し、「ぜひその坊やに、気にしないように伝えてほしい。彼は毎日彼女を1分間見るだけだが、私はすでに12年間も堪え忍んでいるのだからね」と答えました。
このソクラテスとリンカーンの二つの事例から、我々は彼らのユーモアの中に表れた精神的な慰めを見出すこともできます。妻の一桶の水によって頭をびしょ濡れにされることを耐え忍ぶことができるいかなる人間も、必ずや偉大になるはずです。
老荘は我が国の大ユーモア家
中国には多くの大哲学者がいますが、いずれもユーモアの機智に富んでいます。孔子と同時代の老子は、しばしば孔子に向かって冗談を言いました。なぜなら、孔子は人々に常に修養に努め、絶えず進歩を求めることを主張したからです。老子は逆に、素朴に返り、本来の姿に戻ることを主張しました。老子からすると、孔子のようにあちこち忙殺されるように走り回り、常に仁義道徳を口にする人間は、どうしてもやや滑稽でおかしな人間であることを免れることができません。老子は、「道を失いて而して後に徳あり、徳を失いて而して後に仁あり、仁を失いて而して後に義あり、義を失いて而して後に礼あり......」と言っています。また、「聖人死せざれば、大盗は止まず」とも言っています。
孔子に対する老子の批評は辛辣なものであるとはいえ、その語調はやはり婉曲で柔和なものであり、彼の髭の中から発せられたものです。アリストテレスと同時代で、なおかつ老子の傑出した門徒でもある荘子の、あの雄壮で豪快な笑い声は、歴代に深い影響を与えました。
荘子は当時の政治の混乱した局面を見て、かつて「鉤を窃む者は誅せられ、国を窃む者は侯となる」と述べています。
荘子には寡婦に関する一つの物語があります。それは私にペトロニウス(西暦紀元1世紀のローマの諷刺作家)が著した、あの「エフェソスの寡婦」を連想させます。
ある日、山林の散歩から帰ってきた荘子は、表情に深い悲しみを浮かべていました。彼の門徒たちは「先生はどうしてそんなに深い悲しみを浮かべているのですか」と問いました。そこで、彼は次のように答えました。「私は散歩の道端で、喪服を着た一人の婦人が墓地の上に跪き、手に扇子を持って懸命に新しい墳墓を扇いでおり、墓の上の泥土はまだ乾いていないのを目にした。彼女に『どうしてこのようにするのだ』と聞くと、その寡婦はこう答えた、『私はかつて親愛なる夫と約束しました。彼の墓の土が乾いてからでないと、再婚することができないのです。見てごらんなさい、このひどい天気を!』と」
我々に老子と荘子というこのような聖人をいることに、私は心が和みます。もし彼らがいなかったなら、中華民族はとっくに神経衰弱の民族になっていたことでしょう。
孔子は挫折を一笑に付した
ここで、孔子について語ってみたいと思います。孔子はこれまで、真面目腐った、品行方正な学究として描かれてきました。実のところ、彼は決してそのような種類の人間ではありません。彼は自らが遭遇した失敗と挫折を笑うことができました。孔子は表面的には失敗した人のようであり、心ならずも故郷を離れ、国を出て遠くを旅し、列国を14年も周遊し、彼の主張を喜んで実施してくれる統治者を探し求めようとしました。彼は一つの都市から別の都市に向かい、彼の門徒は彼に付き従いましたが、その路上では常に彼を嫉妬する小政客の恨みを買いました。何度も敵によって道を遮られ、ある時などは郊外の小さな宿屋から身動きがとれなくなって食糧が7日間も途絶しました。彼の門徒が恨み節を発した時、孔子は雨の中で歌を歌っていました。鄭国に着いた孔子はある日、門徒たちとはぐれて、独り城の東門に立っていました。鄭人は子貢に「東門に人有り、その顙(ひたい)は堯に似、その項(うなじ)は皐陶(こうよう)に類し、其の肩は子産に類す。然れども要(こし)より以下、禹に及ばざること三寸、纍纍(るいるい)として喪家(そうか)の狗(いぬ)の若し」と言いました。孔子は欣然として笑って曰く、「形状は未だし。而(しか)も喪家の狗に似るとは、然らんかな、然らんかな」と。彼の泰然自若とした態度は、何と趣があることでしょう。
新儒家は特にユーモアに欠ける
この演説を締めくくるにあたって、人間の精神が退廃し退化するたびに、偽善的で誇大な決まり文句が、残酷にも再び台頭してくるものであることを、改めて言っておきたいと思います。孔子の寛容、ユーモア、人間味にあふれた情熱は忘れられ、一部の新儒家は彼の教訓を一そろいの厳格な道徳法典の中に入れ込みました。たとえば、女性の纏足、寡婦の貞節、未婚夫が婚前に夭折したために女性が他の人に嫁ぐことができないこと等々がそれに当たり、ついに尊ばれる婦徳となり、新儒家の激励と敬服を非常に受けました。これらの学者が道徳を論じた文章の中からは、一点の人間味のあるユーモアを探し出すこともできません。そして、一部の匿名の作家あるいは姓名を文学作品に記すことができなかった作家が書いた小説の中から、我々はようやくにしてユーモアと比較的に真実の人生を反映したもの、一般の人の思想・知覚・情緒に合致したものを再び探し出すことができるのです。