日本語版『林語堂全集』を目指して

「不羈」序


本書はいかなる基準にも當てはまらない。ただ、私の興味を誘つた人生のあらゆる側面に關するエッセイと講演の混合物である。そこには、齒ブラシ、ニューヨークの犬から、哲學上の方法論、陰陽哲學まで含まれてゐる。輕い話題についてはより大眞面目に、重大な話題を扱ふ時にはより輕い氣分となるのはなぜか、私にもわからない。それらの相對的な重要度に關する感覺が私には無いのだ。これらは、私を興奮させ、樂しませ、驚かせ、私に深く關係し、そして私の好奇心を刺激する事物と思想の世界への私の探索の數々である。それらは、思考の領域への私の率直な推量であり、感覺と同じくらゐの無意味を含んでゐるが、しかし、私にとつては本物である。それらは、我が家およびや地元にゐる時に、親友に對して言ふことである。それは、私が感じたものである。他人がどのやうに感じるか、彼らが認めるかどうかは、私の知るところではない。ともかくその人自身がすでに確信してゐない限り、言葉によつて誰かを確信させることは誰にもできない、といふことを知つてゐるほど、私は充分に長く生きてゐる。もし私が自らの見解を保持することを認めてくれるなら、私は他の人々にも彼らの見解を保持させることだらう。誰も自分の見解の横取りを恐れる必要はない。自分自身のものであるなら、恐れる作家はゐないやうに。
これらのエッセイは、三つの主要なカテゴリーにほぼ均等に分けられる。中國の哲學上の方法論および思想についての講演、私を愉快にさせるものへの任意の描寫、そして中國の文藝についてのエッセイである。講演は、主として一九六二年の一月から二月にかけて南アメリカで行つたものから構成されてゐる。輕快な描寫の數々は、ほとんどがアメリカの生活を扱つてゐるが、それらのいくつかは、一九三〇年代の共産主義以前の中國の上海で感化を受けて書かれたものである。私が生き拔いてきた中國のそれらの刺激的なもののうち、嚴密に局所的な話題でないものを論じたものだけを殘した。殘したものの一つに「もし私が匪賊だつたら」がある。それは、リーダーに多彩な片鱗を與へるものであり、作家が生き殘るために筆の劍を磨かざるを得ない軍閥の不合理な背景を教へてくれるだらう。殘りのすべてについては、忘れてよい。イデオロギーの無駄口にもかかはらず、中國は實際には變つてゐないのだ。「雀」と「クルーラー」といつた作品は、私が何を言ひたいのか、現代の中國の状況が示してくれるだらう。笑ふことも、泣くこともできない。
南アメリカ巡遊での私の講演については、ほぼ講演した通りだが、原稿を超過して話したため、讀んだものをさらに書き直してゐる。それらは、以下の通りである。「不羈人の告白」(一九六二年一月五日、カラカス、アテネオにて)、「惡しき本能の善用」(一九六二年一月九日、ボゴタ、國立銀行圖書館にて)、「直觀と論理的思考」(一九六二年一月三十日、サンティアゴ、チリ大學、サマースクール。一九六二年二月二十二日、モンテビデオ、國立ソリス劇場にて)、「陰陽哲學と惡の問題」(一九六二年一月二十四日、リマ、サンマルコス大學。一九六二年二月十六日、ブエノスアイレス、國立サンマルティン劇場にて)、「中國の文化遺産」(モンテビデオ、Salon de Actos, Mar del plata, 倶樂部ウルグアイにて)、「科學と驚嘆する感性」(一九六二年二月二十三日、Punta del Este ,Cantegrilカントリー倶樂部にて)、「信仰としての唯物論」(一九六〇年五月二日、モントリオール、ロイヤル・カナディアン倶樂部にて)、「中國の人文主義と現代世界」(一九六一年十月二十四日、ミズーリ、フルトン、ウェストミンスター大學、ジョン・フィンドレイ・グリーン財團の年次講演にて)、「中國人の氣質」(一九三二年二月二十三日、オックスフォード大學、平和グループでの講演にて)、「文學革命以來の中國文學」(一九六一年一月十六日、國會圖書館におけるガートルード・クラーク・ホイットール講演にて)。

 

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