旅において最も難しいのは、姿を消すコツである。完璧な旅人は、彼がどこから來て、そしてどこに行くのかを知らない。中國では、政治家は決して旅をしないが、ある國を「視察」したり、「研究」したりするし、學者は「歩き囘る」(漫遊)といふ單語を使ふことを好む。それは餘りにも詩的である。それは、どこに行かうとしてゐるのか、またそこに到着する方法をあなたが知らないといふことを示唆してゐる。縛られることなく、自由に、ただ歩き囘る。このやうな感覺のもとにおいてのみ、昨今、非常に多くの觀光客を苦しめてゐる豫定された旅行の代りに、旅を藝術にすることができるのだ。時間は、出張旅行のまさに本質である。時が過ぎ去るのを忘れることは、娯樂旅行を熱望する人すべての最終的な目的である。
あなたのために時が止まる、ある最高の瞬間がある。實際に姿を消す場合に限り、これは可能となる。自然の中において姿を消す者もゐれば、民衆の中で姿を消す者もゐるし、茫然自失になつてしまふ者もゐる。週の何曜日かがわからなくなつたなら、完璧な旅人になつたことを自ら悟る。あなたは單なる觀光客であることをやめたのだ。これからどこに行かうとしてゐるのかをあなたは知らない。あなたは、あなた全體として、肉體的に、そして精神的にそこにゐる。
それは容易ではない。しかし、南アメリカへの最近の旅において、私は何囘か成功した。これら數少ない莊嚴な瞬間について話すことにしよう。
私は、チリ國境近くで、バリロチェ(Bariloche)及びアルゼンチンの高地の湖の素晴らしい美に、長い間、心を奪はれた。ガイドブックによれば、ホテルLlao-Llaoは「世界で最も美しい場所に位置するホテル」であると言はれてゐる。もちろん、私はそれを見ないわけにはいかなかつた。そこには人々だけでなく、重さ十から十五ポンドの鱒や巨大な鮭もゐる。その誘惑は抗し難いものであつた。この旅行の重要な點として、私は外に出る前に數日間、バリロチェで姿を消すことを決めた。私は、晝は魚を釣り、夜は、時間そのものを潰すために設へられた美しい環境で、ルーレットをする展望を持つてゐた。私は半ば成功を收めた。
私は二度、流し釣りに出かけ、一度は手ぶらで歸つた。水面は清澄であり、ルツェルン(Lucerne)の周りを圍んでゐるかのやうに、一面に湖が擴がつてゐた。しかし、魚はどこに? 魚には遭遇しなかつた。眞の釣り人は、もちろんそれに落膽することはない。二人で行つた二度目は、北アメリカでは信じられないほどの五ポンドの鱒を含め、妻が三匹を釣り上げた。我々は、數に入らないものとして、小さな十二インチの鱒を湖に投げ込んだ。
Llao-Llaoにおいて、私は實際に自然の中に姿を消す瞬間を得た。あれほどまでに美しい立地のホテルは他にない。それは前後を湖に圍まれた岬の低い丘の上に位置してをり、山小屋のやうに未塗裝の松で建てられてゐる。全ての部屋の窓は、不思議で、名状し難い、見事な美しさの景觀に對して開かれてゐた。宇宙のその時、靜寂だつた。それは、汚れてゐない本來の美しさに輝く一個の自然であつた。ケーブルカーも、快速モーターボートもなかつた。ナウエルウアピ國立公園(The Nahuel Huapi National Park)は、建てられることなく、「開發」されることもなく、自然の公園のままであつた。丘の稜線は、不思議な、緩やかに起伏する稜線の陰影を隱すやうに廣がつてゐた。スイスの湖(例へばルガノ)と異なり、視界に高い山脈はなく、目の前の廣大な距離に、快適さは絶頂に達する。瞬間瞬間の雲の音なき動き、あるいは日の出と日の入りの緩やかに動く光の變化を見る時、夜明けと黄昏へ移り變る影では、雲の層によつて丘の一部が隱された。窓の前に立つ者はハッと息をのみ、そして沈默し續けた。この自然には、驚くべき樣相はなかつた。稜線は調和してをり、灰色を基調としてゐた。時はじつと私を掴んで放さなかつた。
より大きな樂しみは、民衆の中に沒入することである。マーデルプラタへ行く途中のブエノスアイレスの「港」、そしてマーデルプラタにおいて、私はこれを實現した。觀光客にとつて最惡なのは、「外國人」と見拔かれることにより、觀光客として振舞ふやうにさせられることである。少なくとも、精神的には、暫しの間、公民權と國籍といふ服を脱ぐべきである。パスポートはポケットに安全にしまひ込み、可能な限りそれについて忘れるべきである。ある民族の代表としてではなく、人間として他國の同胞に會ふ心積もりがなければ、誰も旅などしないだらう。
私は、あらゆるプロパガンダに反して、アルゼンチン人は中國人あるいは米國人以上でも以下でもなく、アルゼンチンの子供は永遠に第一に子供であり、第二にアルゼンチン人である、といふ確信をもつてブエノスアイレスに行つた。これは最も安全な想定である。國籍を過剩に意識する者には、全く旅行する資格がない。往々にして、國籍を鼻高々に話し、自慢するか、はたまた過敏になり、悲慘な目に遭ふだらう。そのため、我々は幾度となく觀光客の泣き言を聞く。
私は民衆の中に姿を消さうと決心した。もちろん、この準備として、私は言語を勉強してをり、會つた人すべてに無慈悲に、無情にそれを實踐した。私は異なる國々の重要人物に會つたが、最終的な分析の結果、彼らは單に彼らの義務を果たし、自分に正直に生きようとする者であつた。いくつかは成功し、いくつかは成功しなかつたそれらは、私にとつて重要なものではない。私は公園、彫像、廣場を見て賞讚した。
「どこでなら姿を消すことができますか」と私はEに訊ねた。
「姿を消す――どういふ風に?」と彼女は返した。
「民衆、人々、一般大衆そのものであるやうな場所で姿を消したいのです」
「それなら、港町が相應しいでせう」とEは答へた。
「そこには本當に一般大衆がゐますか?」
「さうであることを保證します」
「チョリソー(アルゼンチンのホットドッグの一種)について聞いたことがあります。そこで食べられますか?」
「もちろん」
「通りで食べられますか? 本物の人々に會へることを確かめたいのです。私は、非常に多くのエンパナーダ(具入りのパン)を食べて樂しみました。私はチョリソーを食べたいのです。本物の仲間たちとだけ、それをすることができます」
「正氣ですか?」
「もちろん、正氣です」
港町は造船所ではない。それは、泥だらけのラプラタLa Plata面した、兩側を木で覆はれた廣い歩道を備へた沿岸線の延長であり、Portenos(ブエノスアイレスの人々)が時間を餘した午後および夜を過ごす場所である。大きな廣い川を横切つた向うには、モンテビデオがあることが私にはわかつた。あちこちにレストランが立ち竝んでゐた。芝生では、遲い午後の日光の中、家族連れが小包を開けて地面に座つてゐた。すべての種類の男性、女性、子供が海岸に沿つて散歩してゐた。何人かの戀人たちは、ペアで魚釣りで遊んでゐた。魚が誘惑を噛みちぎつて盜んだかどうか、彼らは知らないであらうと私は確信する。歩道に沿つて、巨大なトレーナーを示す車輪に載せられた多數のブースがあつた。私は、これらが米國におけるホットドッグ店に相當することを知つてゐた。私は仲間を連れて、トレーナーのうちの一人の方の所に直接行つた。私はチョリソーを求めた、あるいは、もつと正確に言へば、チョリソーが私を求めた。チョリソーを手にして、私は立ち去つた。誰も私を見てゐなかつた。私はもはや、外國人ではなかつた。私は認識されてゐなかつた。
私は幸運にも姿を消した。
二月は彼らの夏だつた。逃避できるブエノスアイレスの人口の半分は皆、マールデルプラタMar del Plata(ブエノスアイレスから二百マイル離れた夏の避暑地)へ行つた。だから、私も行つた。我々は、八~九人乘りの小型バス(ステーションワゴンのサイズ)に乘つた。夜の旅は、氣分を引立てた。一晩中、大小の乘用車やバスは、海邊の町へ乘客を運び續けた。一群の觀光客が規則的な間隔で流れ込んでいくところで、我々は二、三軒のレストランに立ち寄り、コーヒー、ビール、サンドウィッチをとつて、再び流れ出た。そこには、子供連れの母親、男のグループに、獨力で旅行する、現代的な髮型(ブリジット・バルドースタイル、イランの前女王スタイル、蜜蜂の巣箱スタイル、そして幸福にも少數だけのジャクリーン・スタイル)をした、女のグループがゐた。彼らのほとんどは、セーターとスラックス(砂濱リゾートの運動服)を着てゐた。婦人服におけるこの發達の頂點は、マールデルプラタにあつた。クリスチャン・ディオールのドレスは美しいが、人間である。自然のドレスは神々しい。マールデルプラタに近づけば近づくほど、人性はますます少なくなり、神性はますます増した。
私には、マールデルプラタの多くの懷かしい思ひ出があるが、スパダヴェッキアSpadavecchia、食物、歡樂について話さなければならない。同じ名前の、同じオーナーの二軒のイタリア・レストランがある。一方はマールデルプラタに、他方はブエノスアイレスのLa Bocaに。私は雙方を訪れた。マールデルプラタのシーフード・レストランでは、人生で最高のシーフードを味はつた。それらは、フランスのリビエラの味見店に似てゐるが、熱々の小海老やイタリア・ソースがかけられたcalamares(ヤリイカ)、その他の甲殼類珍味も含めて、種類はより豐富である。マーデルプラタの魚よりも良い魚はなく、マーデルプラタでの魚釣りよりも良い魚釣りはない。一時間で孤獨な釣り人の技によつて、何匹の魚を釣り上げたを言ふべきではないだらう。といふのは、誰も私を信じないだらうからである。
しかし、これはスパダヴェッキアの一部始終ではない。雰圍氣、自然な歡樂の精神、大衆歌の合唱。チューリッヒの古い部分、ローザンヌ、あるいは他の地にそれを見出すことができるかもしれないが、米國に見出すことは稀である。趣味、律動、歡樂、それを私はスパダヴェッキアで見た。精巧なフロアショーではない。ギター、歌、シーフードの味見は同じものである。歌手は舞臺上にはゐなかつた。彼は民衆の一人だつた。我々は「Que sera? Que sera?」「Alla en el rancho grande」「ガウチョ唱歌」「アンジェリカ」「zemba」「Barrilito de Cerveza」、さらには「Nunca en Domingo」(「日曜はダメよ」)を聞き、歌つた。
我々は手を叩き、足を踏み鳴らし、酒を飮み、手を握り合ひ、リズムに合はせて體を動かし、子供のやうに笑つた。ダンスに適した場所がないところで、何人かはダンスをした。アメリカの觀光客はパラパラとゐるだけだつた。彼らは愉快に過ごしてゐるアルゼンチンの人々だつた。歌唱中の雜音が非常に大きかつたので、會話は紙のテーブル・カバー上に書きなぐることで續けられた。私にとつて忘れ難い夜だつた。
喜ばしいことに、誰も私に石油や政治のことを訊ねなかつた。何人かの優れたリポーターのやうに、ブエノスアイレスでの一週間の滯在によつて、アルゼンチンの政治に、より精通することはなかつた。だが、私はアルゼンチンの人々を知るやうになつた。彼ら人民peopleをそのままにしておいてほしい。政府は變るかもしれないが、中華「人民共和國」のやうなアルゼンチン「人民共和國」をある日、見ることを彼らは嫌惡するはずだ。そこでは、彼らは人民の、人民による、人民のための銃撃の民主主義の原則に從つて突き進む。