エマーソンはかつてかう書いた、「一個の人間でありたいなら、不羈の人(世間に迎合しない者)でなければならない・・・自分の精神の高潔さ以外に神聖なものはない」「私は家の戸口の上には、『氣まぐれ』と書きつけるつもりだ。それは氣まぐれよりも少しは立派な行爲だと思ふが、その理由を説明してゐては一日が終つてしまふ」。また、「自分を信じること、あらゆる美徳はその中に含まれてゐる」とも書いてゐる。
エマーソンのこれらの文章ほど、個人主義者、またあらゆる主義と思想體系に對する反抗者――すべての妥當な思考の、最終にして究極の源泉――の信念を、よく表現したものを私は知らない。彼こそは、すべての哲學の妥當性を調べる試金石である。彼だけが、神聖な機關および過去の豫言者に對して「イエス」または「ノー」と答へる權利を有する。特別辯護人は彼に上訴するに違ひなく、拒絶するか受理するかは彼にかかつてゐる。これは、集産主義的な思考の時代である現在では、忘れられた眞實かもしれない。しかし、エマーソンは正しいといふことを、我々は單純に思ひ出す必要がある。民主主義國家では、究極的には主權は個人の投票に由來するやうに、思考の領域では、個人は自らの權威である。
持て囃されてゐる多くの經濟哲學者たちよりも、エマーソンは計り知れないほど我々にとつて身近である。彼らは、綿密に計畫された國家機械に人を埋沒させ、人間を決定する究極のものは、生産と消費に對するその能力であるといふことを我々に信じ込ませようとする。人間は、常に非妥協的で反抗的である。彼は組織化には餘りにも適さない人材である。良き不羈の人がゐるところならどこでも、エマーソンの自己に對する最高の信頼の言葉は生き生きと強くそこにある。經濟的魔術を操る司祭長たちが去つた時、また近代社會の構造が見分けがつかないほどに變化し、消費と生産ではない、人間のその他の問題が殘つた場合でも、エマーソンは我々と共にゐるだらう。それは我々に尊嚴と自己統治、そして個人の價値を思ひ出させてくれ、餘りに貧弱な見解を持つてゐる際には、今日流行の思考の中に特有の歪みを指摘してくれる。「自分を信じること、自分にとつての眞實は、すべての人にとつての眞實だと信じること――それが天才である」。エマーソンにおいては、すべての思考の源泉であり、すべての事物の最終審判者および決定者としての個々人の魂は、一種の卓越した榮光として見なされてゐる。
我々は誰もが社會の慣習に從ひ、慈善に寄與し、現代の大衆本を讀み、教會に行く。しかし、少なくとも思考の領域においては、人間はその獨立を主張すべきである。心は、夜の靜止してゐる間も、常に孤獨に研究を續けてゐる。さうした思考には、強さがある。そのやうな不羈においては、彼は人間としての權利を主張する、「一個の人間でありたいなら、不羈の人(世間に迎合しない者)でなければならない」。自由人が求める最初のものは、ごまかしからの自由である。
『人生をいかに生きるべきか』(The Importance of Living)の中で、なぜ理想として「惡戲つ子scamp」といふ言葉を私が選んだのか、と誰かに問はれたことがある。私にとつて惡戲つ子は、社會の外壓に從ふことを拒絶する人間の文學的象徴である。毎日、犬の首輪とネクタイをはめられて組織化された集團と共に事務所に行く我々は、廣いつばの古い帽子をかぶり、オープンシャツを着、そして多少すり減らした靴を履いた人を羨望せざるを得ない。彼は脣に挾まれたストローを噛み、何もせずに、午前中の好きな時間に日差しのもとで堂々と歩く。彼は社會的壓力に屈しない人間である。彼は二十五歳で老齡年金を心配したりなどしない。彼は制限された年間休日を持たず、好きな時に休む。恐らく適當だが、我々が喪失したものを我々に思ひ出させて魅了する。彼は人身の自由を奪はれまいとして用心し、社會と政治の多種多樣な活動に少し輕蔑的である。彼はやや超然として恐れを知らない。社會からは認められなくても、彼は天空に王冠を突出し、大地に足をしつかりと着け、決して恐れない。結局のところ、彼は社會が我々を使つてつくつた眞似事よりは、神が最初に彼をつくつた時の姿に近い。退屈な象徴によつて表されるすべての慣習的形式と風習に對する抵抗の精神は、大地の最後にして最大の希望であり、全體主義の組織化に對する民主主義の要塞である。
私は、この講演の合間の自らの休養として、バリローチェに魚を釣りに行くつもりである。釣り人について世界がどう考へるか知らないが、それは私にとつてはどうでもよい。明らかに、釣り人の連中は若干狂氣的である。下生えの上を歩いて一日中を過ごし、危險な巨石の上を走る。そして、中でも最惡なのは、座つて時間を過ごし、水面の兆しとなる泡を見つめ、小さな些細な出來事にやきもきして待つことである。あたかもその人の人生がそれにかかつてゐるかのやうな緊張と警戒、そして、理由も見つからずに罵り、溜息をつき、口ごもる。「小さな魚を捕ることがそれほどまでに重要ですか?」とあなたは問ふ。恐らくさうではないが、しかし、些細な活動のほとんどを、大人はなぜさうしてゐるかも知らないままに行つてをり、それは我々の毎日の職業生活の中において、穩やかな正氣を囘復し維持するのを助けてゐる。もしあなたが、「この人生であなたは何をしてゐるのですか?」と訊ねたなら、釣り人はいとも容易にすぐにかう答へるだらう、「私は人生といふこの贈り物を樂しんでゐます」と。中國の詩人曰く、「人生でどれだけ大聲で笑ふことができるか」。さうしてゐる間に、森から驚いた鳥の鳴き聲が、ある未知の動物の呻き聲が、あるいは水の中に突然ドブンと落ちる音が我々の耳に屆く。そして、我々は自らの先入觀から解放され、人生は最初から我々の前に開かれてをり、今もこれからもさうであるといふことを理解する。毎日の活動に沒頭すれば、我々はこの人生の眞の意味と目的に當惑してしまふ。我々は眞の自己の領地を取り戻すのだ。
人間が自然の體系と最も融合する時、宇宙の調和を再建する時に、神を感じるといふのは、奇妙な事實である。山と湖のパノラマが前方と周圍に擴がり、彼を中心に廻る時、彼はそれを見て賞讚し、樂しむ。その神祕的な瞬間、彼は自身が宇宙の中心であると感じる。
我々は皆、仲間である人間への責務および義務を負つてゐるといふのは、全くもつて眞實である。だが、現代の神經質な社會において、人間は生活するためにはエネルギーを消費してゐるが、生きることそれ自體のためには滅多に使つてゐないといふのは、全くもつて奇妙なことである。人生の目的はそれを樂しむことにある、といふことを明瞭に、そして單純明快に宣言するには、大きな勇氣がゐる。多くの人間は、權力と成功への野心の只中において幸福である。それは穩やかな精神異常の別形式であり、ヒトラーのやうに狂氣を帶びた場合がこれである。机の上の二つの電話が同時に鳴つてゐる場合、多くの人が自分のものを最も重要なものと見なす。他の多くの者は、世界の問題に取り組むのに充分に經驗豐富で賢明で幸運であるふりをして、ある國際會議から別の國際會議に急行する。いつも決まつて彼らは、彼らが解決したものよりも、より多くの問題を世界に撒き散らす。
人が失つたものは、人生の良き終焉といふ價値に對する感覺である。私に言はせるなら、それは驚くほど單純である。
人生の單純な價値の囘復は、近代人の知能に課せられた第一の任務である。近代生活は複雜である。近代社會の經濟構造は、あらゆる人々を互ひに關連づけてゐるやうに見える。技術的進歩と國際貿易の増加は、我々を互ひにますます依存させようとしてゐる。だが、これらは客觀的な條件である。個人の人生で何を行ふかを決めるのは往々にして主觀的であり、その人自身に依存する。我々は皆、同年代の子供である。我々は同年代の子供のやうに考へ、感じ、買ひ、賣る。しかし、我々の考へと視點に關して、經濟決定論はない。およそ價値の感覺は、すべて主觀的なものであり、客觀的なものではない。不羈の人は、物事の根源を突き止め、人生の基本的な問ひを探求し、彼自身の價値の感覺を保持する。彼は常に、僅かに反抗的であり、その程度に應じて生活を適合させ、色を着けていく。そして、國民生活全體を形づくり飾りつけるのは、そのやうな自立的思考の總計である。人生は、單に個人のためだけに存在するのでも、あるいは社會のためだけに存在するのでもないのだ。
エマーソンの時代以來、個人主義からの後退が、個人の尊嚴および至上權に對するこの猛烈な信念からの後退があつた。近代産業社會においては、人間は個人として扱はれるよりも、ある經濟統計データのパーセンテージの端數として扱はれる。集産主義的な思考は、ますます個人の自由を侵害する傾向にある。産業の發展と共に、人間は巨大な經濟組織の一部と化す。いくつかの國々では、國家そのものが個人を呑み込む機械となつてゐる。自由經濟が存在する國々においてさへ、人は通常、階級、組合、年齡集團、所得階層のメンバー、あるいは巨大組織の構成員と見なされる。かう言つても過言ではあるまい、米國の教養ある人々の九十パーセントは給料で暮らし、巨大營利會社または政府官廳の構成員であり、割當てられた休暇に配給された病氣休暇、それらの加算給付、社會保障、定年、そして老齡年金を持つてをり、すべてはそれらのために働いてゐる、と。一足の靴を全部一人で作る靴屋、パンを彼のお客樣のために毎日燒くパン屋、自分の作品に誇りを持つてゐる職人、手工業者、自らの主人である者――近代においては、これらはますます稀な現象となりつつある。社會科學者は、人間はすべて、ある所得層に屬してをり、社會的「地位」を持つてをり、ある「行動型」を共有してゐると見なす。そこでは、個人の重要な眞實が忘却されてゐる。ジョン・ブラウンをつくるのはジョン・ブラウンであり、同じ集團、または階級、あるいはコミュニティと彼が共有するものによつてつくられるのではないといふこと、他の人すべてに單純化できない違ひがあるといふことを。
人間の何かが失はれてしまつた。我々はすべてが適度に抑壓されてゐる。自らの主人とならんとするすべての人々の望みは妨害され、破壞されてきた。誰もが社會によつて飼ひ慣らされる。誰もが「善き人」となり、社會に受容可能となり、「豐富な知識」を持つやうになる。人間の内面はどうなるのか? 自由と冒險と未知への探求に對する人間の獨創力と直觀はどうなるのか? 仕事を申請する大卒が、「退職金が貰へる條件は何ですか?」と訊ねる時、獨創力、勇氣、そして冒險心について語つてほしくない。一致することを拒絶する異端兒だけが、私にとつての眞の人間である。
大地の最大にして最後の希望である人間を、我々はいかにして見失つてしまつたのか。自らの魂の指揮官であり、見渡す限りすべてのものの支配者である個人主義者は、いかにして大衆人に取つて代られたのか。鷲や鴎は、なるほど山の岩や海を所有しないが、あらゆる實際的な目的において、彼は見渡す限りすべてのものの支配者である。彼は自由なのだ。それとは對照的に、人間の精神的領域は束縛されてゐる。天翔ける鷲の精神は、勤勉な蟻社會のそれに席を讓つた。變動する社會の經濟構造は、我々の思考の中に經濟決定論を植ゑつけた。これは、明らかに人間自身の精神の變化、あるいは我々の現在の思考を示してゐる。個人の自由への誘ひは、春風のやうに永遠である。人間は萬物の靈長であり、生命、自由、幸福追求の權利によつて、自らを自由な個人として維持できない限り、社會と政治は意味を持たない、といふことを忘れる者はゐないだらう。あなたの中の經濟決定論者は、直ちにかう訊ねる、「食べ物を充分に持つてゐない場合、自由はあるのか?」と。それは公平な質問である。人生で最も重要なものは、個人の尊嚴、自尊心、そして充分な食事の三つである。しかし、あなたの中の經濟決定論者が實際に言ひたいのは、食糧生産と消費が第一に來るのであり、食べ物が充分にあれば個人は自由に關心を持たないといふことである。それは理論上、實踐上における集産主義的思考の全體的傾向である。言ふも憚られるが、それは非常に評判の高い新聞の社説欄の中に存在する。それは、多くの食料雜貨店を約束し、自由を否定するソ聯を必死に賞讚する、いはゆる「自由主義者(リベラル)」の中に存在する。氣を付けるべきは、ソ聯が約束するのは自由のない食べ物であり、「自由主義者」はそれに夢中になつてゐるといふことである。それが、今日の知識人の間に流れる風潮である。
かつてはさうではなかつた。十八世紀の啓蒙時代は、人間の理性と個人の自由および平等に對する信頼のあつた、希望の時代であつた。ヴォルテールは、すべての被造物は人間のためにつくられた(目的論)といふ神學的概念を嘲笑するために最善を盡くしたが、ヴォルテール自身は人間理性に對して多大なる信頼を寄せ、すべての人の反對する權利を「死守」しようとした。それは、百科全書派によつて代表される、自由、平等、友愛の合理主義者、哲學者たちの時代であつた。浪漫主義の反動は、自然への囘歸、想像力の強調、諷刺、奇行、果てしない自由の世界への脱出として始まつた。個々の魂がそれほど開放的だつたことはかつてなかつたし、不可能と思へるやうな夢もなかつた。想像と感情に對するこの強調は、なぜ個人の理性と人身の自由の信念を融合させてより高度の統合を、また個人主義に對するより深遠で納得のいく信頼を形成することができなかつたのか?
社會主義に罪はなかつた。十九世紀前半の社會主義は、まだ人類の素朴な幼年期の夢であり、人間社會の無限の完全性に對する合理主義者の信念の表れに過ぎなかつた。「能力に應じて働き、必要に應じて受け取る」といふ理想は、絶對的自由の理想だつたのであり、今日、自らを「社會主義者」と呼ぶ國々において我々が目にする、人々の生命と思想に對する集團組織化とは正反對のものである。人間の自由の概念に、まだ變化はなかつたのだ。
人間に對する古來の信念を破壞した病毒(ウィルス)は、人間社會に對する唯物論的、機械的見解であつた。その病毒の最初の兆候は、オーギュスト・コントの「有機體」としての社會の記述から檢知されるだらう。なぜ社會が有機體なのか、私にはわからない。コントが言ひたかつたのは、科學として、動植物のやうに社會の成長と衰退を研究し、コントロールすることができるかもしれない、といふことだつた。着實に高まる自然科學の名聲により、歴史學の教授は自然科學者を模倣し、博物學の語彙を眞似るやうになつた。物理學の法則が不可避で決定論的であるやうに、人間發達の法則もある種の唯物論的法則に從ふ。もしそれらの法則が普遍的で不可避なものとして語られてゐなかつたならば、それらの命題は「科學的」には思へないものだつた。かうして、人間の歴史および人間社會の「科學的」唯物論的見解が始まつた。
それは一八五〇年のことであつた。歴史の經濟的解釋は、モムゼンの『ローマ史』から始まつた。人間の役割は輕視され、經濟的要因が強調された。ローマは富裕層と權力者の道徳的頽廢によつてではなく、鼠によつて崩壞した。これをナポレオンのワーテルローでの敗北に適用するなら、それはウェリントンの非凡な才能や戰士としての人間性によるのではなく、トラファルガー海戰後のアフリカからの甜菜糖の供給不足のためであると説明される。すべてはそのやうに魅惑的であり、我々はそれらに啓蒙される感覺を持つてゐる。
我々はかうした視點から、マンチェスターの精確な經濟學學校の、カール・マルクスの唯物辨證法を理解しなければならない。人的要因は何もなく、あるのは經濟的要因だけである。歴史における個人の役割は無視された。それは不可避で決定論的なもの――法則、法則、法則――であり、非常に科學的で、豫言のやうに思へた。まさにその用語、「唯物辨證法」は、擬似科學を意圖してゐた。哲學者たちは社會の自然科學者になつた。人間社會のこの嚴格で不可避な發展においては、人は「自然の法則」によつて管理された、あるパターンに從つて無意識に行動する。歴史は、單にジャガイモの調達を求める二足歩行動物の移動と化した。この個人の役割の否定と破棄にあたつて、人類思想史上の科學的研究法からの偉大な盜用は決してなかつた。
そして、我々は今だに集産主義的思考の混亂ともつれの只中にゐる。人間は常に讓歩を迫られ、集産主義的な全體主義國家は常に優先される。もはや國家は個人のために存在せず、一方で個人は國家のために組織化を迫られる。「必要に應じて受け取り、能力に應じて働く」に代つて、今日、教授たちの頭を占めてゐる思想の流行語、「進歩的」な言葉は、「供給に應じて受け取り、指示に應じて働く」である。
不幸な人よ、我々が生きてゐるこの最も進歩的な世紀である一九六〇年代の中で、あなたは國家に征服されてしまつた。それは、こちらか、それともあちらか、と考へる個人の問題ではなく、我々が今日從屬してゐる思考の傾向である。抗議することは可能だらうか? 私個人として、さうするだらう。
數十年あるいは世紀を跨ぐ思考の盛衰の潮流がある。我々は、「進歩主義者」および「自由主義者」と見なされるために、思想の流行に從はなければならない、などといふことはない。「進歩主義者」であるといふことは、全體主義體制を羨望の眼で見ることであり、「自由主義者」であるといふことは、組織化を賞讚し、萬人が自分自身のことを考へる權利の否定を賞讚することであり、獨裁が事實上の「民主主義」である場合、今日の思想世界の混亂を解きほぐす拔本的思考が要求される。幸福なのは、混亂してゐない人である。彼はまだ少數の單純な眞理を信じてをり、いくつかの單純な信念を抱いてゐる。
私が不羈の人の喜びと本分について話す理由は、ここにある。すべての人が、自分自身のことを考へる勇氣を持たなければならない。自分のために考へ、ペテンを信じることを拒絶する人の能力こそが、すべての人間の進歩の眞の原動力である。
そこで、我々は今一度、太陽に頭を突出し、大地にしつかり足を着けた、挑戰的な「惡戲つ子」の姿に立ち返る。神がかつて創造したやうに、彼は適當で、愛嬌があり、次の食事がどこから來るのかも知らないが、我々の尊敬を集めるに値し、正當な考察に付するに相應しい人間である。彼はたつた一人で、我々のために、この創造物の意義と最終的な目的を何とか保持してゐる。我々は、彼に及ぶことはできないが、忘れられた人間の姿である彼を、謙虚に羨むことはできる。そして、いつの日か、不羈の人がその思考を終へる時、彼と彼の仲間たちは全體主義國家の足枷を打ち破り、歴史の潮流を變へ、我々が忘れようとした自由の遺産を取り返してくれるだらう。
個人の價値――キリスト教徒なら、まだそれを思ひ出してくれるだらう。イエスはかつて問はれた、「天國は何に喩へることができるか?」と。それは、一粒のからし種のやうなものである。その種子は、人間の自由を求める心の小さな叫びである。それにはなほ、歴史の進路を變へ、世界に衝撃を與へる力がある。「自分の考へを信じること、自分にとつての眞實は、すべての人にとつての眞實だと信じること――それが天才である」