美味しい食物への愛は、良き音樂を樂しむことと同樣に、文化の明白な表れである。一日中、働くことを自分に強ひた人は、食品とそれを食べる人に對する尊敬が込められた、家での樂しい夕食を期待する權利がある。疑ひもなく、それは人の視點である。彼は、料理を自分で行ふ必要はない。料理はまさに、高度で優れた藝術であると私は言はう。夕食で出された食物は、藝術的な作品(食卓全體が賞讚の的に相應しく、主婦が正當に誇れる傑作)にもなり得るし、大きな災難であることもあり得る。料理の藝術が生れるのは、美味しい食物への深い愛情のそのやうな快適な雰圍氣の中でである。
ある人々にとつては、食べることは冒險であり、新しい風味、未知の喜びの絶え間ない發見であるが、他の人々にとつては、單に何らかの固體や流體によつて飢ゑを抑へる、面白みのない必需品に過ぎない。氣の毒な必需品として謝罪して食べる者もゐれば、感激して食べる者もゐる。まづは、藝術として料理することを進展させるべきである。そして、興味を持ち、熱中し、心配する――進んで學び、試みては失敗し、再び試みる。いかなる藝術も、それを育成し完成することができる唯一の方法は、獻身と忍耐である。
良い食物、美味しい食物――カロリー量ではない――についての主題が、食卓でより積極的に公然と議論され、演壇からより多くの批評がなされ、そして新聞紙上の社説でより多く論評されるなら、料理と食事の問題は發見と驚嘆の航海に、關係するあらゆる喜びに轉換されるであらうことは間違ひない。その時、美味しい夕食を食べることは、疲れた筋肉と神經をほぐす完璧な夜の一部として、働き者の夢となる。その時、料理をすることは家庭の儀式になる。その神祕は、料理人が司祭長であつたギリシアやエジプトのやうに「神祕的」である。多くの魂が廚房によつて、ただ廚房によつてのみ救はれ、教化されると私は堅く信じる。
全篇が食事と料理の中國の藝術について書かれた本――内包されてゐる原理、追求される味、そして異なる地域の料理法のスタイル――があるかもしれない。それらを展開させずとも、ここで若干の要點を述べることが可能である。
中國人にとつて料理とは、味の結合である。「烹調」とは、「料理し、味を混合させること」を意味する。
また料理は、特定の肉もしくは野菜の最善の可能性を引き出すといふ問題でもある。良き教育者が生徒の隱れた才能を引き出すのと同じ方法で、良き料理人は鷄または家鴨に含まれてゐる最善のそれを引き出す。鷄が殺され、それが適切に料理されない場合には、その鷄は無駄死にしたことになる。一方、その眞の才能がうまく取り扱はれて自己表現してをり、改良されてゐるならば、その鷄は少なくとも價値ある死を迎へることができるだらう。殺すことが避けられない場合、ちやうど我々が戰死に名譽を與へるのと同じやうに、少なくともこの名譽は鷄に與へられるに違ひない。
中國料理の本質が、特有の風味の混合、味の調和にあり、肉がある具合に和らげられ、別のものによつて刺激されるといふことだと理解したなら、組合せの「種類」は實際には無盡藏だといふことが容易にわかるだらう。これが、種類において中華料理がフランス料理を凌駕するゆゑんである。
料理の方法は、著述の方法に似てゐる。中には、それを過剩に行ふ者がゐる。私にとつて、最良の料理法は、格別な肉それ自體の味を實際に殺してしまふ、過剩に彩られた皿ではなく、すべてが榮譽に輝く中でその眞の味が際立つものである。ある時、私が味はつた最高の食物は、單にお湯で煮てブイヨンで調理した新鮮な鱒であつた。同樣に、それはただ煮て捌いただけの若鷄にも言へる。要るのは鹽だけであり、他は何も要らない。
惡文家がその思想の貧弱さと新鮮な考への不足とをすつかり蔽ひ隱すために多音節の語彙を必要とするやうに、不味い肉はその單調さをすつかり蔽ひ隱すために手の込んだソースを要求する。
肉本來の眞の風味に依存するこの種の料理、それは「優美さdelicacy」といふ單語によつて最もよく表される。それは著述における方法の明晰さのやうな、味の明晰さを持つてゐる。神は、そのやうな優美な食物が多忙な重要人物によつて輕率に食べられることを禁じてゐるやうである。中國の作家が言ふには、美味しい食物を慌てて味はふことは、神の意志に反する。
「コック・オーヴァン(雄鷄の赤ワイン煮込み)」や「家鴨のオレンジ添へ」のやうに、風味に富んだ料理であつてもよいことを私は認める。廣東料理は時に頗る豪勢であり、もし女性に會ふことが好きならば、全身をネックレスと腕輪で飾つてから行くがよい。一方、北京料理は優美さを持つてゐる。この點で、福州料理はさらに有名である。それは、あらゆる人爲的なものを嘲笑ふ自然な清純さと愉快さを持つ、氣取りのない家庭出身の若い少女により似てゐる。これが、私が正統な味と呼ぶものである。
この味の純粹さは、セロリあるいは甘露メロンのそれによつて最もよく示される。それは完全に單獨で屹立してをり、異質な風味の混入や亂入を必要としない。
たとへば、私はブルゴーニュで新鮮に調理された「エスカルゴ」を食べたが、フランスの蝸牛がそれ自身の味を持つてゐることを初めて發見した。しかしながら、通常、我々は、「エスカルゴ」ではなく、非常に熱いバターと「フィーヌゼルブ(ハーブ系スパイスの微塵切り)」の風味を味はつてゐる。
食物の新鮮さは料理の魂である。自らの仕事を誇りにしてゐる料理人は、廚房で食物を調理するのと同じくらゐ、買物をするのに多くの時間を費やす。
中國やフランスでは、良き料理人は、旬ではなく、その最良の状態でもない食物を提供することを拒否する。
美食家詩人であつた袁枚は、料理についてのエッセイの中で、料理の手腕の半分は、新鮮な食品を買ふことにある、と言つてゐる。レストラン店主の一部は、贅澤なソースで損なはれた肉を配り、それによつて顧客を騙せてゐると思ひ込んでゐるが、實際にはそのことによつて顧客を侮辱してゐる。彼らがさう思ひたいなら、それは彼らの勝手である。
さらに、美味しい夕食の名に値する極めて重要な部分は、サービスであると私は言はう。
白いテーブルクロス、輝くグラス、そして一揃ひの銀製食器は、すべて美味しい夕食に寄與するものの一部である。だが、何よりも重要なのは、湯氣が立つほど熱熱の状態で食物が出されなければならないといふことである。それが食卓で冷めるが許されるならば、食物の味の半分は失はれる。食物を加熱する良き道具は、美味しい食物の樂しみに極めて重大な寄與を果たす。
カクテルの殘虐な慣例は、調理濟みの食物を適切なタイミングで燒いたりソテーしたりすることを、ほとんど不可能にする。實際の客は、食慾を鈍らせるカナッペ(前菜)に手をつけずに食べにやつてくる――このことが、いかに頻繁に忘れ去られることか! 七時半と告げられたニューヨークの夕食は、しばしば八時半または九時になつても始まらない。これでは、料理人はどうやつて美味しい燒肉をつくることができるだらうか? そのやうな人々には、シチューが與へられるべきである。シチューが出されるのが七時半だらうが、十時だらうが、重要な問題ではない。
美味しい食物の眞の鑑賞に必要とされるものは、知識と蓄積された經驗である。いづれにせよ、それを批評することができるためには、「最良の状態で」ある料理を食べなければならない。ジョン・ギールグッドまたはモーリス・エヴァンスによつて演じられたオセローを觀た者は、許容範圍の、またはそれなりに良いよいものによつてはもはや滿足することはできない。あるいは、カルーソーまたはガリ・クルチの歌聲を聽いた者は、次善のものを測る高い基準を常に持つてゐる。
したがつて、良き料理人は「ちやうど良い」ものにこだはる。ちやうど良いものは定義することができないが、過去の經驗から最善となるとわかるものに基づく。
個々の特別の料理について、音樂評論家があるアリア(詠唱)が歌はれるのを期待するのと同じやうに、人は口蓋の中の特別な反應を期待する。入念に準備された中國の「香菇」(大型キノコ)は、それが口蓋全體を心地よい喜びで滿たすまで、文字通りに頬に對してその果汁を噴き出す。
食物の適切な鑑賞は、舌と口蓋の味蕾、鼻の嗅蕾、齒の觸覺、そして最後に眼の中の視覺刺激を引き出すといふ要素の組合せに基づく。
食物は、湯氣が立つほど熱くして出されるべきである。さもなければ、冷めてしまへば風味の半分は失はれる。食物の樂しみへの寄與における嗅覺の重要性は、しばしば忘れられてゐる。それは、鼻を塞がれたまま煙草を吸ふのと同じくらゐ、無味乾燥になる。
食物がよく噛む必要のあるものか、サクサクしたものか、それともバリバリと音がするものかは、齒に對するその抵抗のタイプの多分に依存する。
ちやうど良い軟度の完成にあらゆる努力が費やされる食物にとつて、そのやうな軟度の差異は、極度に重要なものとして考慮される。それはパリパリであるべきか、クリーミーで滑らかであるべきか、彈力があるべきか、それとも甘美なものであるべきか、その種類には無限の微妙な差異がある。そのやうな微妙な差異は極めて纖細であり、完璧なあるいは缺陷のあるピアノ演奏が良き批評家によつて知覺されるのと同じやうに、口蓋によつて容易に檢知される。印象のすべての段階を檢知することが可能である。
風味とは、何と纖細なことだらう! それは、ワインの濃度、味、香りの差異において容易に認められる。極めて僅かな違ひが感じられる。ワインの鑑定家にとつて重要なのは、その非常に小さな違ひなのだ。そして、不味く淹れたあるいは出されたコーヒーは、誰もが知つてゐるやうに、まさに食器を洗つた汚れ水のやうな味がする。
冷藏庫の中に夜通し置かれることで、あるいはさらなる處理の前に冷たい蛇口の下で洗ひ流されることで、一貫してその風味を保つ食物もある。
時として、肉の切り方は、大きな一口であらうと小さなサイコロ状であらうと、やはり味に影響する。それが高い品質を呈するため、ビーフシチューではかなり大きな一口サイズに切ることで、風味が各段に増し、美味しい食物に歡喜する感覺を舌に與へる。小さな薄い一切れは、直ちに感覺を變化させる。
中國の味の全世界、特に中國の調味料の世界は、まだ未知であり、未開拓である。それらは、西洋の調味料にはできない藝當を行ふ。醤油ソースはかなり有名である。砂糖、ワイン、酢、そして胡麻油とが結合されるその品質と可能性は、まだ知られてゐない。「蠔油」(文字通り「牡蠣の油」)として知られるオイスターソースは、明らかに次に最もよく知られてゐる中國のソースになるだらう。それは脂つこくなることなく、肉と野菜に滑らかな舌觸りを與へる。それは、コーンスターチ(トウモロコシ澱粉)ができないこと、またする權利のないことを行ふ。それは、食品の齒應へを變へることなく、その味はひを滑らかにする。
良き中國料理人にとつては缺かせない、非常に重要な材料が他にもある。醤油が揚げた鯛にとつて不可缺であるやうに、鱸の調理にとつて漬けた黒豆(豆豉)は不可缺である。兩者は完全調和のやうにぴつたりと合ふ。この豆豉は、「伊勢海老の廣東風」ソースの中の小さな黒點として現れ、その特有の風味にとつて必要不可缺である。新種のチーズのやうな、しかしかつて知られた如何なるものとも異なる味がする、醗酵させた豆腐(腐乳あるいは豆腐乳)。海老や他の海鮮類を調理する際に、すべての魚臭さを魔法のやうに消してしまふ生姜の根。ある種の食物に滑らかさと芳香を加へるのに適してゐる胡麻油。あらゆる食物の甘味と酸味を強くするシーフード・ソース(海鮮醤)。豚肉や牛肉と合ひ、危險なほどに魅惑的に食慾をそそる、鹽漬けされた刺激的な保存野菜、搾菜……しかし私は、とりわけ漬け込んだ黒豆である豆豉を最も重要視する。それは、中華料理の最も偉大な作品の一つである。それは、豪華な夕食の後のもたれをすべて取り去るほどまでに消化を助ける。少しつぶれたこの黒豆を與へられ、その任務を果たす際に、胃は明確な幸福を感じる。
主婦と主婦がゐる。アメリカの主婦の中には、最短の時間を消費し、最少の思考と技術を要求するものを理想の料理と見なす者たちがゐる、といふのはおそらく眞實である。そして、料理をすることを創造的行爲として捉へてゐるその他のアメリカの主婦は、より多くの思考と研究をそれに費やす、といふことも眞實である。新しいもの、外來のもの、未知のものへの探求が絶えず行はれ、そのことに氣をかける者は誰も學習を止めない。これらの創作力に富む魂に神の祝福あれ! これほど多くの熟考と愛情が注がれた後についに食卓の上に置かれた食品を、どうか彼女らの夫と子供が共にする榮譽を與へたまへ。
家庭の象徴としての暖爐の火が消えてしまつた。どうか食卓を、家族全員が共に集まり、一日に一囘、人間味と一體感を感じる場としてほしい。今こそ、それを家庭の象徴としようではないか。