日本語版『林語堂全集』を目指して

中國の文化遺産


「中國の文化遺産は何か」といふ問ひが投げかけられた。それは現代の中國人自身によつてなされた問ひであつた。文化遺産によつてしばしば意味するところは、過去から殘されたもので、永續的價値を持つものである。それは往々にして、この遺産が、人に見られ賞讚されるために、我々によつて博物館に蒐集され、保存され、容器に入れられて防腐處理できるもの(硬玉、磁器、絹、象牙、漆器のやうなもの)であることを示唆してゐる。なるほど、これらのものには賞讚すべき多くの點がある。
十八世紀および十九世紀を通じて、中國文化は「シノワズリ(中國趣味)」(青磁、七寶燒き、嗅ぎ煙草入れなど)といふ單語によつて提起された。ウィーンのシェーンブルンには、女帝マリア・テレジアによつて蒐集された素晴らしい中國磁器がある。それはマルコ・ポーロの影響に遡る。マルコ・ポーロの本は、中國の驚嘆すべきことについて傳へた。彼は中華帝國について、北京の宮殿の多彩に光輝く屋根として描いた。彼は當惑するリーダーたちに、中國人は燃料として「黒い石」(石炭)を燃やしてゐること、絹を積んだ無數の荷車が毎日北京に搬入されてゐること、絹が豐富で綿と亞麻布が不足してゐたため中國人は毎日絹を着てゐることを傳へた。彼は中國の人々の温和さと禮儀正しさ、そして遊びへの愛について語つた。彼の本は、歴史上で最も影響力のある本の一つであつた。叔父と共にヴェネツィアに戻り、死期を悟つた後、彼は持ち歸つてきた寶石と錦とビロードの鞄を開き、それらを隣人たちに見せた。かうして、中國は人々の想像を刺激する傳説的な地として出現した。
中國に關する傳説は増大し、コロンブスによるアメリカの發見に直接影響を及ぼした。十七世紀および十八世紀に、中國のことに熱狂する者たちがしつかりと成長した。イエズス會士たちは十六世紀に中國に來てをり、中國の文學と哲學について報告し、儒教、學者に對する尊敬、文官統治の帝國システムについて説いた。彼らは、あらゆる榮光に滿ちた、彼らの文藝の後援者であつた偉大なる康煕帝と乾隆帝の帝國を見た。ルイ十四世とルイ十五世は、偉大なる中國皇帝たちと贈り物を交はした。教權に反對し、超自然的な宗教に反對したヴォルテールにとつて、中國は理想的な理性の地のやうに見えた。ヴォルテールは、宣教師アミオを通じて乾隆帝と交信したと傳へられてゐる。康煕帝の皇后および皇太后はカトリックに改宗し、紫禁城の中にはカトリック教會が建設された。イエズス會士の宣教師たちは彼らを「アン」および「ヘレン」と呼んだ。ライプニッツにとつて中國は、數多くのことを提示してくれるものであり、ヨーロッパが啓示宗教のことを中國人に教へることができる代りに、ヨーロッパに文化的使命を屆けるかもしれない存在であつた。彼自身のモナドに關する理論は、陰陽についての彼の知識と、『易經』に描かれた「イメージ」についての思想に多大な影響を受けてゐる。彼は實際に、ベルリン科學協會その他を提起し、設立したが、それは養蠶用の桑を育てる特權を與へられてゐた。ルイ十四世の宮廷における中國の影響は明白であつた。今でもその時代の繪畫で見ることができるやうに、ジョージ三世やジョージ・ワシントンの近習たちは、多彩な錦を身にまとひ、甚だしきは辮髮さへ着けてをり、女性たちは宮廷を輿に乘つて巡つた。中國の庭園は、「イギリス式庭園」に直接影響を與へた。その理想は、木を對稱に切り整へることではなく、自然そのままを模倣することであつた。
民族の文化遺産について語る時、それは嗅ぎ煙草入れや龍袍、その他美術館に相應しいもの以上の何かを意味する。時としてそれは思想を、特に民族の性格を形づくる思想であることを意味する。民族の遺産は、生活、文化力、藝術の創造的活動に對する能力、文學、そして社會的進歩にこそ存するべきである。もしアクロポリスが殘されたもののすべてであるなら、ギリシャは消滅してをり、もしピラミッドとミイラが古代エジプトから殘されたもののすべてであるなら、エジプトは終焉を迎へてゐる。私は民族の遺産を、過去の民族の性格に影響を及ぼし、現在でも引き續き影響を及ぼしてをり、「民族の創造的天才」をもたらす思想と理想の流れとして見たい。その影響の流れは、イギリス人およびフランス人の天才を創り出した。兩國は西歐の近代文明を共有してゐるが、各々は明白に特有の國民性を保持してゐる。
中國の國民性を形づくつた二つの思想の主流――儒教と道教がある。兩者はその國民性に深遠なる影響を與へてきてをり、引き續き我々の振舞ひに影響を及ぼしていくであらう有效な考へである。兩者は、人々のある特質、物事を見る彼らの方法を説明してゐる――彼らの現實主義、常識、忍耐、寛容、人間關係の重視、人間性におけるある種の柔和な圓熟。常識と現實主義は、儒教における暗默の教へであり、中國人の忍耐と寛容は、道教の哲學によつて説明されるべきである。儒家および道家を理解するには、中國人の生活の散文と詩を理解しなければならない。
私は常に、美しいものすべてには二つの要素、すなはち強さと優美さ、男性と女性、陽と陰があるに違ひないと思つてゐる。儒教は陽であり、道教は陰である。中國人の性格は儒教の強さによつて形成され、幸ひにも道教の優美さによつて和らげられた。フランス人は強さより多くの優美さを、ドイツ人は優美さより多くの強さを持つてゐる。ワインはその濃度、滑らかさ、香りによつて判斷される。濃度と圓熟の正しい組合せは、ワインの特徴を記述するものである。人間性および人種的特徴もまた同樣である。中國人の理想的な性格として説かれる「外柔内剛」は、優美な外貌に節操の強さが加はつたものを意味する。他方で、人は往々にして誰もが、外面は荒々しいが、内面には何も持つてゐない。
一方が他方を打ち消す、對照をなす二つの思想の流れが中國にあることを、私は嬉しく思ふ。儒家は實證主義者、現實主義者、合理主義者であり、道家は神祕家、浪漫主義者、そして常に世界情勢に對する嘲笑者である。儒家は、彼自身と仲間に對する彼の義務に關心を持つてゐた。道家は、彼の心を外へと向はせようとしがちであり、莊子の語法では「逍遥遊」と表現される。道教は、現世の義務に對する排他的な關心を持つ、想像力の缺けた儒家によつて殘された間隙を埋めた。
故に、その對比はほとんど完璧である。孔子は人間に、老子は宇宙の祕密に關心を持つた。儒教は進歩、統治、教育、そして不斷の自己修養を奉じてゐる。道教は進歩と文明を否定し、嘲笑し、ルソーのやうに自然へ還ることを奉じてゐる。統治においてそれは、「レッセフェール」(なすに任せよ)を説き、人々を孤獨のままにしておく。「小魚を燒くやうに、大國を支配しなさい」譯注一、掻き囘すことによつて、魚の身を崩してしまふから。教育においては、心の純眞を保つべきことを奉じる。子供の大きくて圓な瞳は、心が清淨であることの象徴である。我々が成長すればするほど、より汚れるといふのは疑ひのないことである。老子の教への中には、キリストの教へ、「子供たちのやうにならない限り、決して神の國には入れない」を彷彿とさせるものが多くある。
これらの氣分は、國民生活の搏動、その擴張と收縮を表してゐる。一方では、家族の一員としての中國人がをり、他方では魂の自由人(vagabond)としての中國人がゐる。彼は離れた觀察者として、片眼を開き、もう片眼を閉ぢて世界を見る。片眼を閉ぢれば、世界は常に繪のやうに水平に見え、それほど自分と關係してゐるとは感じない。これは繪のやうな生命觀と呼ぶべきものかもしれない。世界を救ふことを切望する者にとつては常に、離れた觀察者は少し馬鹿げてゐるやうに見える。偉大な道家の著述家である莊子は、孔子を揶揄するために物語を發明するのが大好きであつた(道教が儒教よりもあまり知られてゐないため、また私は習慣による儒家であるが、本性においては道家であるため、常に道教についてより詳しく述べる。道教には、より多くの「魂」がある)。道教と儒教は、單に同じ人の二つの氣分を表してゐるに過ぎない。中國の紳士は、成功してゐる時には常に儒家になり、失敗した時には道家になる。
とりわけ、儒教は世界を救ふことを、道教は自らの魂を救ふことを奉じてゐる。ある者が市長職および知事職のための運動を行ひ、世界を救ふ燃える熱望を傳へる時、彼は儒家である。選擧の後、敗れて自らの田畑または郷里の土地へ戻る場合、泳いで木陰で居睡りをした後、彼は獨り言を言ふ、「選擧に負けて、私は嬉しい。私は萬人に、自分自身といふ世界を救はせようではないか」。ここでは、彼は本質的に道家である。いづれが本物なのか、より良い人なのか――我々にはわからない。
華北が北モンゴルの種族によつて占領された一方で、道教が學者の間を風靡し、誰もが茶と對話(清談)に耽る中で、長い馬毛の蠅叩きを優雅に振つてゐた中國史の時代があつた。華北が蠻族によつて占領されたから學者が「清談」に耽つたのか、それともさうした對話に耽つたがために華北を失つたのかは、我々にはわからない。儒家の歴史家は、それは後者であり、道教に責任があると考へた。しかし、中國の遺産の一つとして、少なくとも哲學が氣晴らしと餘暇の樂しみを正當化してゐたことを私は嬉しく思ふ。それは他國では發達しなかつたやうである。人生は仕事と遊びからなる。もしさうでなかつたならば、緊張は耐へられないものとなつてゐたことだらう。いかなる民族も、叩頭する責任ある從順な公民を演じながら、三千年間を生き延びることはできない。誰もが臆病な憐れな姿へと變じ、我々は生き延びることはできなかつたことだらう。
公平に評すれば、孔子の教へを説かなくてはなるまい。儒教は、道徳秩序に基づく行爲と社會秩序の非思索的な哲學である。それは神、魂、宇宙について實に僅かなしか語つてゐない。だが、それは中國の良識と、生きることの本分に對する實際的な關心事を表してゐる。ある時、弟子が死について訊ねると、孔子は答へた、「我々はいかに生きるべきかを知らない。どうして死に關心を持つことができやうか」譯注二と。これこそは、中國人の心に慕はれた彼の良識の典型である。もう一人の弟子はある時、「死者は意識を持つてゐますか」と訊ねた。すると孔子は、「死んだ時にそれがわかるだらう」譯注三とユーモラスに答へた。孔子は、この種の靜かなユーモアによつて特徴づけられる。かつて彼が隣國を訪ねた時、教養豐かな、非常に高名な學者のことを傳へ聞いた。知らせによれば、この學者は行動を起こす前に三囘考へ直すといふ。孔子は「二度考へれば充分だ」譯注四と冷淡に言つた。別のある時、弟子は彼に「村の皆に賞讚される者はどう思はれますか」と訊ねた。孔子は彼の首を振り、「善いが充分ではない。もし彼がすべての善人から賞讚され、村のすべての惡人から嫌はれたなら、より善いだらう」譯注五と言つた。
孔子は社會秩序の哲人であつた。彼と他の社會哲學者とを截然と分けたものは、政治秩序は道徳秩序に基づかなければならず、この文明社會の道徳秩序は個々人の公民の自己修養に由來するのだといふ彼の主張であつた。國家の平和と秩序は、法の施行や政治組織、景氣對策によつてもたらされるのではなく、あらゆる基本的な人間關係の中で適切に行動する一人ひとりに由來する。政治秩序は目的だが、眞に平和と秩序を達成するための唯一の方法は、個人の徳性によつてである。かつて彼はかう言つた、「裁判所を統轄することに關しては、私も他の人と同じだ。重要な點は、訴訟をほとんどなくすことができるに違ひないといふことである」譯注六と。國家の立法者たらんよりは、彼はその慣習の製作者たらんとした。そして、彼はさうなつた。孔子がさうであつたやうに、社會の道徳秩序を形づくるための權力と影響力とを實際に持つてゐた道徳の師は、どの國にもゐなかつた。文學的な比喩では、孔子は「無冠の王」(素王)と呼ばれた。
實のところ、孔子の理論とは、平和な國と眞の文明社會は、ただ良き家庭によつてのみもたらされるといふことである。換言すれば、善性は必ずや幼年期の家庭に始まる。孔子の教へにおける暗示は、良き兄弟、良き姉妹、良き夫と妻、良き親、良き友をつくり出すこと以外に、より高度な文明の目的はないといふことである。いかなる文明國も、それがつくり出した夫、妻、友の種類によつて判斷される。この究極の人文主義的な目的と比べれば、他のすべてのもの――藝術、文學、法――は色褪せてしまふ。再び我々は、この奇妙で珍しい良識に出會ふ。善性が必ずや幼年期の家庭に始まるといふのは、單純な常識の一例に他ならない。その事實は、非行少年の増加のために、徐々に「社會科學者」によつて認知されてゐる。
換言すれば、孔子は鋭い心理學者であつた。人の性格は習慣によつて變り、習慣は幼年期に形成される。それ故に、家族による躾、家庭の養育を壓倒的に重視する。あるいは、不可解な諺がすべての中國の人々に受容された、すなはち「孝行(善い息子になること)はあらゆる美徳の第一である」譯注七。孔子は言つた、「人は非常に似た状態で生れてくるが、君子は上方へ發展し、小人は下方へ墮落する」譯注八と。家庭は、人の性格を訓練する場である。よい行儀作法が學習されてゐる場合、それらは家庭で學習されたものに違ひない。社會の中で文明人として振舞ふよう教へられてゐる場合、それらは家庭で教へられたものに違ひない。世界全體を愛してゐるが、自分の兩親とどうして仲良くすることができない人は、ひどく惡く順應した個人である。彼はただ、親しい個人關係の中に自らを順應させることを學習しなかつたのだ。これは、中國人の特徴である。もし好むならば、これこそは孔子の遺産であり、孔子の文明である。
ここで、人文主義者・儒家と浪漫主義者・道家の相違點を説明する二つの逸話を傳へてもよいだらう。兩方とも、墓で涙ぐむ女性と關係する。物語は孔子について語つたものである。ある時、山を歩いてゐた彼は、墓で涙ぐむ女性に出會つた。彼は、彼女が何を悲しんでゐるのか訊ねた。すると、彼女は答へた、「私たちは獵師の家です。父は虎に食べられ、夫は虎に噛まれて死にました。そして今、私の一人息子が!」と。孔子は問うた、「山から下りて谷に住んではいかがですか。なぜここに住み續けるのですか」と。すると、女性は答へた、「でも、徴税官がここにはゐないのです!」と。孔子は彼の弟子にこう告げた、「惡しき政府は虎よりも怖がられることがよく解つただらう」譯注九と。
偉大な道家・莊子はある時、朝の散歩を行つた。彼が歸宅した時、弟子は彼の顏に憂慮の表情を見出し、何か問題があつたのか彼に訊ねた。莊子が答へるに、新しい墓の傍の地面に座り、手に團扇を持つてそれを扇ぐ若い女性を見たといふ。「私は、なぜ彼女がさうしてゐるのか、若い女性に訊ねた。すると彼女は、『彼の墓が乾くまでは決して結婚しないと約束したの』と答へ、空を指してかう言つた、「このひどい天氣を見てよ!」譯注十と。
これは、道家の溢れんばかりの想像力とユーモアの典型である。道家の哲學に占める莊子の位置は、あたかもキリスト教における聖パウロである。私の見解では、莊子は紀元前における最も偉大な中國の散文家であつた。彼は優美な言葉で、雄辯に、大膽な發想と痛烈なユーモアをもつて書いた。彼は、老子の機智に富んだ警句を、長く、美しい、果てしないエッセイに發展させた。老子の警句は一つ珠の寶石のやうであり、莊子はそれを豐饒で、魅力的な、目を見張るやうな寶石のモザイク畫へと廣げた。兩人とも機智を持つてゐたが、師である老子が辛辣で簡潔であつたのに對し、莊子の言葉が豐かで充實したゐた。老子は簡潔に言つた、「話す者は知らず、知る者は話さない」譯注十一と。莊子は、言葉と議論も無用について、長く、廣範にわたつてエッセイを書いた。
老子と莊子のユーモアは、言葉の羅列によつてではなく、根源的な世界觀と現實に對する深い理解によつて支へられてゐる。そこには常に、皮肉の中にユーモアの筆致があり、兩人とも進歩と文明に懷疑的であつた。

彼の鉤を竊む者は誅せられ
國を竊む者は諸侯と爲る(莊子)譯注十二

有名な「胡蝶の夢」の譬へ話には、より深遠なる哀愁がある。莊子はかう述べてゐる、「ある時、私は胡蝶となる夢を見た。花の中に身を翻し、意識は完全に胡蝶そのものであつた。私は、自らが莊周であることを忘れて、ただ胡蝶としての幸せを感じてゐた。その後、私は目が醒め、自分が莊周であることに氣づいた。一體、私は胡蝶であることを夢見る人であつたのか、それとも人であることを夢見る胡蝶であつたのか、私にはわからない」譯注十三。
道家の哲學は、現實の根源たる、この世を統べる存在、すなはち「道(タオ)」によつて占められてゐる。基本的な命題は「天國への道は到るところにある」といふことである。あらゆるものは、「道」の發現として展開し、靜止へと向つて後退する。故に、すべての對立物は等しい。それは、この世界のあらゆる區別、すべての違ひと對立――豐かさと貧しさ、成功と失敗、長さと短さ、美しさと醜さ、長壽と短命――は當てにならないものであり、神の中、「道」の樞軸の中にその統一性を見つけ出すことを示さうとする。世界が理解してゐるそれらの價値よりも、より高い價値の異なる見方を手に入れる。そのやうな現象界の神祕的な世界觀により、無限大と微小、マクロ宇宙とマイクロ宇宙は一つに融合され、物の區別の非現實性の感覺と、論爭と主張に對する願望の減退を手に入れる。莊子は戰爭に反對する次の譬へ話をしてゐる。戰爭の無用は、人間の野心の儚さによつて示された。その物語は、近代におけるバクテリアの發見によつて信じられるやうになつた、誇張の才能を示してゐる。
梁王は、征服と擴張の戰爭を好んだ。學者の戴晉子は彼に見え、それを放棄するように説得しようとした。學者は言つた、「蝸牛の左の角の先端に、觸氏と呼ばれる王國があります。右の角の頂點には、蠻氏と呼ばれる王國があります。觸氏と蠻氏は、絶えず互ひに戰ひを繰り返してゐます。戰ひが起こると、何萬人もの死者が戰場に斃れ、敗れた兵士は、自國の領域に走つて歸るのに十五日間を要しました」と。王は、戴晉子が虚言を吐いてゐると考へた。だが、戴晉子は質問を續けた。
「宇宙の空間には限界があるとお考へですか」
「限界はない」と、王は答へた。
「この無限の空間の中には」と、戴晉子は續ける、「廣大な大陸があります。廣大な大陸の中心にあなたの國である魏があり、またその國の中心に梁の都があります。そして、梁の都の中心に王がをられます。王と蠻氏の王との間に、違ひがあると思はれますか」譯注十四
質問者は去り、王は茫然自失となつた。彼は二度と、戰爭をしたいとは思はなくなつた。
老子は、山上の垂訓に對する最初の哲學的正當化をなしたのだと私は考へてゐる。絶えず循環する道(タオ)の法則についてのより深い理解から、それは謙虚であることの強さ、愚かに見せることの智慧、エネルギーを抑制し、温存することの價値、愛と人間性の不可抗力を教へてくれる。「柔和なものが剛毅なものを打ち負かすことは、誰もが知つてゐることだが、誰もこれを實行するができない」譯注十五。水は謙虚であることの強さの象徴であり、それは萬物を益し、萬物に浸透するが、自らは低い場所を求める。低い地位にあることの利點は、誰かがあなたと戰ふために下つてくるのがわかつた場合、先に屈することができることである。さうすれば、彼はあなたを見捨てることはできない。老子は、慈愛に關して素晴らしいことを言つてゐる。

夫れ慈は、以て戰へば則ち勝ち、
以て守れば則ち固し。
天、將に之を救はんとす、
慈を以て之を衞る譯注十六。

哲學的信念において、老子は、強さは持續することができないと信じてゐたので、強さを信じることができず、持續する慈愛と謙遜の力を信じた。「道(タオ)によつて支配者を助けようとする者は、武力によるあらゆる征服に反對するだらう」譯注十七「勝利でさへ、美しいことではない。それを美しいと言ふ者は、虐殺を喜ぶ者である」譯注十八。老子の最も偉大な發言の一つは、「勝利は葬禮と共に悲嘆されるべきだ」譯注十九である。老子の發言は、時として妙にイエスの教へを彷彿とさせる。イエスは言つた、「私は柔和で謙遜つた者であるから」譯注二十と。老子は言つた、「私が穩やかであることは、失業者のやうであり、生まれたての笑つたことのない赤ん坊のやうであり、家を失つた者のやうである」譯注二十一と。キリスト教の説くところとの文字通りの類似點の中で、私の心を打つた一節は、これである。

國の垢を受くる、是れを社稷の主と謂ふ。
國の不祥を受くる、是れを天下の王と謂ふ譯注二十二。

哲學上の辯明は、變化の根本原理、反對側への囘歸にある。「囘歸は道(タオ)の動きであり、弱さが道(タオ)のはたらきである」譯注二十三。

是を以て民に上たらんと欲すれば、
必ず言を以て之に下る。
民に先んぜんと欲すれば、
必ず身を以て之に後となる譯注二十四。

虚を致すこと極まり、
靜を守ること篤くす。
萬物、竝び作るも、
吾は以て復るを觀る。
夫の物の藝藝たる、
各おの其の根に復歸す譯注二十五。

道家思想の影響は、中國の國民において非常に根強い。私が思ふに、中國人の平和な氣質は、孔子の哲學以上に、道家によつてつくられたものであるに違ひない。それは、忍耐、從順、寛容、融通無礙に對する中國人の信念を説明する。中國の諺に曰く、「人があなたを迫害し、虐待し、利用し、負傷させ、侮辱する場合、それを我慢し、その者に屈服し、その者を許容し、その者に從ひなさい。そして二十年後には、ただ彼を見るだけになる」。これは、山上の垂訓の正確な感覺ではないかもしれないが、その理解を助けるものである。それは、地上が終に文明化された時、柔和なものが常に勝ち、この大地を受け繼ぐであらうことを示してゐる。


 

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