中國の倫理が本質的に男性的な倫理であるのは、自明の理である。しかしながら、この男性的な倫理がとつた特別の形式と發展については、西洋に充分には知られてゐない。たとへば、中國の歴史そのものが、常に男性的な先入觀から書かれた。それ故に、男の支配者が政務を怠り、玉座を失つた場合にはいつでも、男の儒者は沒落の原因として女性を論ふことができた。「事件の陰に女あり」と言ひたいかのやうである。共通認識として、商王朝の沒落の責任は妃の妲己にあるとされた。もう一人の妃である褒姒は、男の歴史家たちの共通の評決によつて、西周王朝の沒落に責任を負ふとされてゐる。大きな災禍をもたらすことになつたが、それは褒姒の惡徳ではなく、むしろ彼女の美徳であるといふ點に、儒學者たちが氣づかなかつたといふのは、非常に奇妙なことである。彼女の唯一の缺點は、極端な端正さと、なかなか笑はないことであつた。それは、危險が全くないときに、家臣たちに告げる警報の合圖として烽火を擧げることを通じて、「狼が來た(虚報)」といふことを演じるやう王を導いた。家臣たちは軍隊を率ゐて驅けつけたが、王にからかはれたものであることを知つた。そして、遂に妃は笑つた。我が歴史家曰く、この微笑みが幽王の帝國を傾けさせた。王は、公的な戰爭の合圖を弄び、家臣たちは負擔から解放された。古代の呉の王國の喪失に責任を負ふ、古代の美しき西施から、滿洲の喪失に責任を負ふとして、彼女を非難する脅迫状と共に、一九三四年に南京政府から追跡された、二十世紀の蝶々婦人まで、枚擧に暇がない。中國の正統的な觀點によるならば、ルイ十六世ではなく、マリー・アントワネット、あるいは少なくともポンパドゥール夫人が、フランス王國の崩壞に責任を負ふに違ひない。
故に、中國の男女同權論者は、西洋の男女同權論者とは若干異なる任務を持つてゐる。それは、西洋とは異なる背景または社會的傳統と戰はなければならない、そのやうな男女同權思想家であるといふ事實に起因する。たとへば、單一の性別標準に對する戰ひ、女性が教育を受ける權利については、一般的傾向は同じである。だが、蓄妾、纏足、貞節を守るための自殺の擁護、そして未亡人の再婚禁止のやうなものについては、女性への異なる不正な弊害があつた。それらは、男女同權思想に傾いたどんな獨立した思想家もが、まづ第一に對決しなければならなかつた標的を形成した。中國の儒學者たちがそれから離れることを自認した野蠻性の一部は、十八世紀の反逆思想家である袁枚の見解における次の議論に反映されてゐる。ここで必要なのは、ただ單に、十世紀以降の儒學者によつてつくられた嚴格なサディスト的な背景のいくつかの顯著な點を指摘することだらう。
これらの學者たちは自らを「理學」、つまり「理性の學者」(この用語は、やがて嚴格な人と同義となつた)と呼んだ。彼らは孔子の健全で健康な人文主義を遙か遠くまで漂流させ、座を白けさせる主義へと變貌させた。佛教の影響を受けて、彼らは人間の感情や生活の感性とは別に、その上に位置付けられるものとして、心を修養し始めた。この方法を通じて、西洋と竝行して、僞りの知性の行使へと沒入した。かうした儒生たちは、道徳律と正義の大いなる格言と共に、社會道徳の尊嚴を維持することを常に切望したが、その社會道徳はひとへに女性の雙肩にかかつてゐた。未亡人の再婚に對する忌避は主義へと高められた。結婚前に婚約者が亡くなつた少女も含めて、未亡人は生涯獨身を強ひられ、後追ひ自殺した人に敬意を表する石樓を建ててまで、さうした自殺を獎勵さへした。いかに英雄的な心を持つてゐたとしても、男たちは自分の貞節を守る機會がなかつたので、英雄的行動の資質は女性の中において非常に賞讚されるやうになつた。彼女たちは、「英雄的な女性」と稱された。女性の足は縛られた。心底から民族の道徳心を持つてゐた人々の、嚴肅な魂からの抗議を抑へるために、女兒はしばしば殺されるか、溺死させられるか、または尼寺に送られた。明王朝の末頃、「無知は女性の美徳である」といふ奇妙な主義が發見、または發明された。この冷淡さと純粹な感覺の缺如により、徴兵勞働の免除と共に、家族に「貞節の女性」がゐるといふ榮光に男性の親族を浸らせるために、時として女性は、自ら首をくくつて自殺することを強ひられた。兪正燮は、彼の貞節に反對する詩の中で、次のやうに綴つてゐる。
福建の習慣では、生まれた女兒の半數は育てられず、成長した者たちは英雄的な女性となることが期待される。
夫が死ぬと、彼女たちも理由なしに死ぬ。毒酒は杯に注がれ、絞首用の布が準備される。
女性は人生を愛してゐる。しかし、彼女は抑壓下で何ができるのだらうか。その悲しみと怒りは、彼女の胸の中に祕められる。氏族親類は微笑み、彼女が死ぬことを嬉しく思ふ。彼らは、氏族を賞讚する勳章を祈願する。
高さ三十フィートの牌樓が、彼らの家の扉の前に莊嚴に立つてゐる。だが夜になると、新しい亡靈が悲嘆し、生き返ることを懇願する聲を聞く。
少數の獨立した精神が立ち上がり、この野蠻性に對する抗議の聲を擧げることはできなかつたのだらうか。彼らを見出すためには、正統ではない、より輕薄な、新鮮さを失つてゐない作家の間を探さなければならないだらう。正統な儒教の司祭長の間に獨創性を求めることは絶望的であらう。奇妙なことに、しかしまた當然のこととして、この中に獨身女性の聲は含まれてゐない。それは、思想における儒教システムの專制的な力の現れであるのに過ぎない。中國の人々が政治的な不正に我慢するのと同じくらゐに、中國の女性はこの性別に基づいた不正に、當然のことながら我慢した。抗議の聲が多く擧がつたのは、世間に迎合しない獨立不羈の思想家たちの間からであつた。多くの正統儒者は、この社會構造の樣々な點に對して、時として考へを述べたが、その表現は僅かなものであつた。理由は、必ず互ひに補ひ合ふといふ男性と女性の法則を提唱する中國の古典的見解が、本質的に正しく、また眞實であるといふことにある。見たところ、不愉快な個別の樣相が存在する中にあつて、これらの精神は、許容すべき廣い基礎を與へてゐる。十一世紀に蘇東坡は、女兒を救ふために積極的に働いたが、その素晴らしい感性にもかかはらず、蘇東坡が最後に言ふことができた唯一のことは、「女性に生まれることなかれ!」といふことだつた。
女性に關するその見解が、中國の男女同權論者と呼ぶに値する作家は、ただ三人だけである。學者の兪正燮(一七七五―一八八四)。女性の詩人を自らの弟子とし、彼女たちの作品を出版することを特別な仕事としていた、詩人にして反逆思想家であつた袁枚(一七一六―一七九九)。そして、『鏡花縁』の著者、李汝珍(一七六三頃―一八三〇頃)である。兪は、一行か二行、または取る足らない數行で彼の革命的な結論を明示して、學者の平穩と威嚴に關する問題に取り組んだ。一方、袁は、彼の時代の最初の詩人といふ大いなる潮流の中で、儒教の僞善全體に對して挑戰し、婦人解放のための重要な影響を與へた。小説家の李は、彼の考へを廣めるための分野として小説を選んだ。この分野の採用は、人間の諷刺において、特に纏足制度のそれについて、彼に自由な領域を與へた。しかしながら、注目すべきは、興味深いことに、これらの三人の作家は、彼らの嘆願を打ち立てるのに際し、單に論理的な議論への訴へに頼つたのではなかつたといふことである。彼らは中國史からの豐富な引用によつて、そのやうな既存の弊害は、決して孔子に歸せられるものではなく、由緒正しき神聖な假面が引き裂かれた後世の發明であることを示した。
Ⅰ
兪正燮の思想は、『癸巳類稿』第十三卷にまとめられてゐる(一)「節婦説」、(二)「貞女説」、(三)「妒非女人悪徳論」、(四)「書舊唐書輿服志後」(纏足の普及に關する四千字の長い歴史的研究。これは、最も長いエッセイの一つだが、實のところ、纏足に關する結論は、全體の最後の二行に過ぎない)の四つのエッセイに收められてゐる。『癸巳類稿』は、學者に充分に人氣があつたが、その樣式およびその學術的色調のため、兪が大衆に與へた影響は袁には及ばなかつた。袁とは對照的に、兪は冷靜に、無感情に史實の調査をした後に、短い簡潔な言葉で彼の見解を示した。したがつて、その足らざるところは、詩人・袁の散文力である。しかしながら、彼の結論には、より廣い哲學的な重要性があり、それは理論上、衝撃的なものである。
兪正燮は、貞節な未亡人を獎勵する制度を、女性を奴隸にする「破廉恥な」男性的視點と呼んだ。
女性が再婚すべきでないといふのは正しいが、それは男性も同じである。聖人はそれを當然と考へたので、この點について規定しなかつた・・・人々が「禮」の眞の意味を見失つてから、彼らは女性に不合理に要求し、偏見をもつてそれを解釋した。古禮によれば、夫婦は等しい方式で婚姻のなかで結ばれる。しかし、幾人かの學者が妻の地位を低下させた。古代人は、男性の身體と女性の身體を區別することなしに、「終身改めず」と言つた。男は、七たび離婚するときには、七たび契約を改め、妻が死んだ後に再婚した場合は、八囘目の結婚契約を破つた。男性的な論理と詭辯を使つて、彼らは女性を奴隸にするための網を織つた。それは恥づべきことである。
彼の結論は、「女性が再婚する場合、我々は彼女たちを非難すべきではない。たださうすることを遠慮する者を敬ふだけで十分である」といふものだつた。
兪は女性における嫉妬の問題を處理するのに、外科醫の解剖の精密さと技術、あるいは辯護士の才能をもつてする。誰もが容易に氣づくやうに、嫉妬は、蓄妾制度の附屬物として生まれたといふ點で、中國特有の起源を持つてゐた。たとへば、蓄妾制度が流行し、貴族の家に時として百もの歡待者がいた魏晉時代、嫉妬する女性は非常に顯著であつた。その直接的な結果は、朝廷の謁見において、顏を引つ掻けられて痛めた高位の大臣および官僚たちが、この時代にしばしば現れたといふことであつた。これらの男性たちによれば、それは古き良き時代が去り、女性は惡魔になつたといふことが明らかであつた。北魏では、弊害が非常に廣まつたので、元孝友といふ名の學者は、明確な蓄妾制度を定め、定數の妾の限度を守らなかつた者、また、嫉妬する妻が妾を虐待することを許容した官僚を罷免するように王に請願した。妻との間に子ができず、妾も持つてゐない官僚は、子孫としての不孝ゆゑに罰さられるべきであり、彼の妻は離婚されるべきである。冷徹な法律重視主義の視點からそれを見て、嫉妬は殘酷な行爲とは識別されるべきだと兪は指摘した。彼は、嫉妬は完全に正常なものであり、女性の中の人間的なものであることを示唆した。萬一、妻が妾を殺害するか、もしくはその肉體に損傷を與へる程度にまで至れば、殺人罪あるいは殘酷行爲のための法の廣範な規定があつた。したがつて彼によれば、法的犯罪としての嫉妬の確立は、全く餘分である。ある種の無味乾燥なカント的ユーモアをもつて、彼は注意を促した、「結婚主義は、相互の獻身を準備する。男が妾を圍つても、妻が妬まないとすれば、それは彼女がもう彼を好きではないといふことを意味する。妻がさうする時、家族の基礎はすでに破滅してゐる」。
私の心を最も打つのは、兪が纏足に與へた主要な批判であり、それはその時代においては稀なものである。兪は、肉體的健康に對するその影響を理由として、實際に纏足制度に抗議した。纏足の起源の批判的再吟味の後、兪はかう述べた、「昔は、男性と女性の雙方が勞働の義務を課されてゐたが、足を縛られてしまつたため、女性は公的勞働に適さなくなつたしまつた。女性が弱められる時、男性と女性の原理の調和が阻害される。加へて、纏足に使用される靴は踊り子に由來した。女性の地位を低下させることは、男性の地位を低下させることでもある。古代においては、解放された足に、大きな美しい靴を貴族たちが履いたことに氣づいてゐないため、女性は進んでこの風習を放棄しようとはしない。したがつて、この點を彼女たちに知らしめるといふ問題に私は行き着いた」
概して、兪の思想には、眞の性的平等の根源と、結婚における一夫一婦制が含まれてゐる。詩人にして美食家であつた袁が、兩性の道徳のより寛大な基準のために戰つたのに對して、男性と女性の雙方のための結婚の基準を強化する傾向にあるのが、兪の思想の特徴である。
Ⅱ
兪正燮の發言がさうであるやうに、ありのままの簡潔なそれは、少なくとも中國の學識の面目を保つのに役立つた。彼は、學究的な心が、必ずしも、あらゆる是非の感覺に鈍感な、愚鈍な心ではないといふことを人々に信じさせることができた。しかしながら、大衆に傳へるために、また、儒家の男たちが自分たちのために構築した、居心地の良い巣の中に小さな混亂を起こすためには、兪よりもさらに活溌な聲を必要とした。それこそは、その時代の最初の詩人と考へられてゐる、袁枚(字は子才)の聲であつた。恐らく、妾に他の人を紹介することを專らとし、彼自身も妾を幾人か持つてゐた袁が、男女同權論者と呼ばれるのは、奇妙に思へるかもしれない。これは、東洋的な感覺においてのみ、許容される面であるやうに思はれる。しかし、問題はそれほど單純ではない。第一に、袁の性について寛容な視點は、やや利己的で男性的に見える一方、女性に同樣に適用される。性の問題に關する見解では、彼は寛容な視點をとつた。それは明らかに東洋的ではあるが、現在において袁の視點が舊式であるのか、それともあまりにも二十世紀に先んじてゐたのかは斷言できない。
第二に(これが本當に重要な點であるが)、中國の男女同權論は、その出口を開くための鬪ひにおいて、性道徳についてのより嚴格な觀點に對してではなく、ただ當時普及してゐた儒教の現實の猥褻な嚴格主義に嘲笑の目を向けることを通じてであつた、といふことである。あまりにも逆説的なことに、袁は中國における婦人解放のために妾を連れてゐた。袁は、彼の時代の正統派に對する反抗哲學者であつた。自らの地において、正統を無視する勇氣があつた人を理解するなら、古い中國のすべての作家のうち、彼が性倫理に關する最も破壞的な見解を表現したことは、決して驚くべきことではない。ここに、すべてのものに對する懷疑論者にして懷疑の首唱者である、偉大なる力と輝きを持つた詩人、散文家がゐた。反・理學、反・佛教、反・菜食主義者、反・占術者、そして、絶えず孔子の立派さに怒りをぶつける迷信と隱語のすべての形式と僞善に對する憎惡者。女性の集まりにも好んで入り、それを恥ぢることなく、誇りとした。彼は、散文中の修辭學のすべての從來の規則を貶し、人生からの眞の感情の代りに、本からの引用からの引用と引用で構成された新古典主義の詩の死骸を嘲笑した批評家であつた。また、この批評家は、儒教の六經の無謬性に挑戰し、「正統」といふ言葉が持ついかなる意味をも公然と否定し、孔子が『春秋』の原作者であるといふことさへ疑ふ勇氣があつた。彼は、孔子の發言の正確な報告書としての『論語』の信頼性それ自體を疑ひ、孔子がこっくりこっくりした瞬間さへあつたことを示唆した。要するに、袁は不羈の人であつた。彼は、道徳における博物學者であり、孔子自身の廣大なる根底に彼の自然主義を基づかせてゐる。それは、彼の時代の社會秩序の正統性と公正さを質すために、彼のやうな獨立心を持つた人を必要とした。概して、儒教に對する袁枚の位置は、キリスト教に對するマルティン・ルターのそれに非常によく似てゐる。同じやうに反抗的な傾向を表し、同じやうに道徳における自然主義に基づき、そして、もちろん同じやうに正統の立場への反對に目覺める。
上記に指摘されたやうに、中國の男女同權思想に特有の性質は、袁枚が鬪はなければならなかつた嚴格なサディスト的な背景によつて決定づけられ、また最も良く理解される。これらの儒者たちにとつては、性的行爲が極めて不道徳であつたのみならず、孔子が『詩經』に組み込んだ愛の詩でさへ、彼らの目には猥褻に見えた。『詩經』の冒頭の、王妃への文王の愛と切望について述べた詩は、孔子にとつては十分すばらしいものであつたが、後世の豫言者たちには猥褻すぎた。Shen Langといふ名の學者は、宋王朝の理宗皇帝に、この詩は『詩經』から削除されるべきであり、堯帝と舜帝の美徳を讚へる二つの詩がそこには插入されるべきであると請願した。袁枚が絶えず彼の批判の鋒先を向けたのは、この種の愚鈍に對してであつた。概して、袁は、個人の道徳は主として私事であるといふ見解をとつた。また、孔子が戀愛詩の眞價を認めてゐたこと、そして、七人の息子をもつた母親が再婚したこと(孟子によつて「多少の不作法」を犯したと見なされた)が詩經には記録されてゐることを、彼は文通相手に必ず想起させた。偉大な新儒學者、朱熹に對して、彼は挑戰を投げかけた。朱熹が臨安に滯在してゐたある日、寺院の鐘の音を聞いて、恐れと狼狽の中で自らに「この音は、私に心の制禦を失はせる」と言つたことが報告されてゐる。佛教的儒教哲學によれば、心といふものは、肉慾を抑へるために、注意深く守られるべきものであつた。この話に關して、袁枚はかう皮肉つた、「一體どのやうな種類の心を守らうとしたのか、そして、なぜその制禦を失ふことをそれほどに躊躇つたのか」と。彼は、宋代の學者であるLu Shichehの場合のやうに、惡魔の樂しみを二つ引き出したやうである。Luは靜寂主義を信奉し、橋と交差するときに籠を持つ彼の手が川に觸れても、心に全く動搖がない程度にまでその精神の靜かさを修養した。同樣の實例はChang Weikungの場合であつた。彼は敗走中に三十萬人の兵士の虐殺を見たが、その大虐殺を見た後の睡眠中に、雷のやうないびきをかき續けた。それほどまでに、父の心は修養されてゐたと、息子のNanshienは自慢することができた。袁枚が、道徳の喧し屋に對して、孔子自身の廣範な人文主義を常に讀者に思ひ出させ、叛旗を飜して美しき人生の享受を説いたのは、孔子の外套を羽織つた佛教的靜寂主義のこの形式に對してであつた。
袁が鬪はなければならなかつた相手、そして絶えず彼の手紙の中で茶化したのは、一、二の實例が示す拘束型の道徳に對してであつたのかもしれない。一つの出來事は、七十歳代の年老いた學者である楊潮觀のそれである。彼は、袁枚がその著書『子不語』に組み入れた、彼に關する僅かな逸話に異義を申し立てた。これは、楊が若かりし時に、個人的に袁に傳へた話を指してゐる。楊が科擧の試驗監督であつた時、有名な賣春婦であつた李香君がある夜に彼の夢の中に現れた。そして、その賣春婦の戀人である侯朝宗の一族の子孫を、その名をもつて及第させるよう頼んだ。これは、儒家の僞善者をひどく憤慨させた。彼は袁枚に手紙を書き、その話が事實であることを完全に否定し、言葉遣ひの中の訂正を提示し、そしてさらには本の版木を燒きはらうことさへ提案した。八十歳近い年老いた學者からの、夢の話に對しするそのやうな嚴格な抗議は、袁枚を大いに樂しませた。彼は三通續けて返事を書いた。それは、刺激的な諷刺の樣式の素晴らしい例である。この理由から、最初の一通をここに譯出する。
悲しいかな! 汝の作品は何と黴臭い魂であることか!・・・心がまだ汚れてゐなかつた時、あなたは率直で素直なやうに思へた。ところが、今や退化した老年となつたあなたの唯一の心配は、墓碑銘と葬式における讚辭を人々がどのやうに書いてくれるか、といふことである。それ故にこそ、話を否定することを強ひられる。李香君の幽靈を見ることに、何の害があるといふのか。人の徳性を破滅させるとでもいふのだらうか。李香君は二百歳を超えてゐるに違ひなく、もし生きてゐたとすれば、白髮の年取つた皺くちや婆さんのやうになつてゐるはずだ。「小さなペンダント」といふ愛稱を持つやうになつて以來、彼女はもはや若くなりやうはなく、私も彼女が特に美しいとは思はない。彼女に會ひ、喜びを覺えることが、あなた自身のやうに道徳に凝り固まつた人に對して、一體どのやうな危害を加へることができるといふのか。李香君の幽靈を見ることができたことを、あなたの古代文明への愛の表れと見なすべきであると私は思つた。また、これら一連の事柄をあなたが不謹愼だと見なしてゐることを、私は滑稽に感じてゐる。
特に私が滑稽に感じてゐるのは、「彼女は帳を上げてささやいた」の代りに、「彼女はベッドの傍に跪いて請うた」といふ言葉を用ゐるようあなたが訂正したといふことである。といふのも、李香君は單に受驗生のためにあなたの好意を求めるために來たに過ぎないからである。長官に面する犯罪者のやうに、あなたに對して跪かなければならないどのやうな犯罪を彼女が犯したといふのか。ところで、あなたは疾うの昔に長官府を退いてをり、二百年前に死んでゐる女性の幽靈の面前で、あなたが地方長官であることは不必要ではあるまいか。一再ならず、あなたは手紙の中で李香君の「純潔な魂」に言及する。李香君が純潔かどうかをどうして知らなければならないのか。たとへ彼女が李香君ではなく、四十歳の平易な服を着た女性であつたとしても、彼女が純潔が失つてゐるかは、あなたの知識の範圍内に位置づけられるのに相應しくない。もしあなたの心が純粹であるならば、彼女が帳を上げ、あなたの耳に何かをささやいたとしても、一體どのやうな害を及ぼすことができるだらうか。また、もしあなたの心が汚れてゐたならば、彼女が單にベッドのそばで跪いて請うたとしても、彼女を膝の上に置くことができるのではないだらうか・・・。
それが歴史に殘る僧および才能ある女性の、よくある名前であることを忘れてはならない。もちろん、現在あなたは高位を占めてをり、李香君は單なる賣春婦であつた。だが、三十年か五十年後には、世界は李香君を知り、思ひ出し、楊潮觀がかつて生きてゐたことなど完全に忘れ去つてしまうだらうことを心配する。紳士の學者は、椅子籠の中の人のやうに行動すべきである。他の者によつて高く運ばれなければならないが、傲慢に振舞つてはならない。
手紙ではさらに、あなたは「ロマンティスト」だが、「賣春婦とのロマンス」には反對すると言つてゐる。これは非常に奇妙である。あなたに訊ねるが、賣春婦と戀に落ちないならば、あなたは誰と戀に落ちるのだらうか。・・・性の問題はワインに似てゐる。少量でさへ觸れることができないものもあれば、がぶ飮みできるものもある。我々は非常に異なつた顏かたちをもつて生まれてくる。ロマンスの有無を隱さうとしても無駄である・・・聞くところによれば、七十歳の誕生日に、あなたは再び結婚式を祝ひ、新婦の部屋に誘導してくれるよう息子と義理の娘に依頼した。そして、ベッドの上の愛しい奧さんと直角に座り、帳を下ろした。それは、伊達男であることを誇る機會をあなたに與へた!
上記は、正統派の精神を塞いでゐる堅苦しい心を示してをり、性および女性についてのより多くの健全な見解のために鬪ふあらゆる人々の批評を喚起する。我々は、女性間の自殺の獎勵や纏足の制度のやうな野蠻な風習を、儒教精神(サディスト的な汚れを備へた精神)によつて許容することができるかどうかは、それによつて確かめることができる。歌妓の靴で行はれた酒の遊戲があつたことを付け加へてもよい。纏足の弓靴は、性の崇拜物となつた。月の三十日に對應して、交代で一から三十を數へてゐる間、歌妓の少女の足から得られた小さな靴は、客によつて机の囘りを連續して渡されれるだらう。各々の數に應じて、先端あるいは踵に、上下逆さまあるいは側面に、机の上に上げたり下に隱したりと、靴は特別な位置に保たれた。間違へた者は誰もが、酒を飮むといふ罰を科されることになつてゐた。指示を與へる陽氣な歌がある。
一日目には高い聲で、二日目には低い聲で叫び、
三日目に弓のやうな靴を手にとる。
八日目にその方向に向ふ三日月のやうに
靴底を上に向ける。
十五日目に盃を目いつぱい上にあげ、
靴を外側に囘してそれを避けよ。
二十二番目に靴と盃を上げ、
三十番目には卓の上に置く。
數を逃した者は繰り返さなければならず、
間違つた者もしくは固まつた者は罰を受ける。
儒者のそれとは懸け離れた、女性の性道徳に關する袁の見解の實例は、たとへば處女性を犯すこと、未亡人の再婚に關する彼の見解である。袁は明らかに、儒學者たちが頑なにそれを守らうとした、乙女時代の處女性を何とも思はなかつた。未だかつて、若い男たちの純潔性が議論されたことはないし、實際に病的に見えるのは、童貞の狂人であり、それの大部分は道教徒の迷信によつて引き起こされたものである。妹の夫に宛てた袁の手紙を紹介しようと思ふ。そこで彼は本心を自由に打ち明けてゐる。
君は手紙で、處女と結婚しないだらうといふことを傳へてゐるが、これには老子の助言「敢へて天下の先と爲らず」が非常に相應しいやうである。人々は、單に處女でないといふだけの理由で、女性が不潔であると本當に信じるのだらうか。・・・他に徳を求める者は、まづ己自身を見るべきである。もし、處女でないといふ事實から、女性がその徳性において不潔であると考へるのなら、我々の食卓の料理の最初の味見を料理人がし、我々が建てる家に最初に留まるのが大工であることを我々が許容してゐるのはなぜだらうか。未亡人と結婚するのに、何の不都合があるといふのか。
一たび犯されたならば、女性は徳性を失つてゐると考へ、實際に彼女たちの自殺を獎勵した正統派の嚴肅な倫理體系と好對照をなすやうに、袁は貞操の喪失による不義は、女性の徳性上、汚點とはならないといふ見解をとつた。彼は、そのやうな状況の女性に對しても、決して嚴しく接することなく、より人間的な觀點で對した。「生と死は一大事である。孔子が『勇敢』と稱した者を除いて、喜んで死を求める者は誰もゐないだらう。女性が夫に對して本當に純潔で貞節であるならば、力による不義への彼女の降伏は、太陽を遮る、通過する雲のやうなものであり、過ちであると考へることはできない。それらのうちの幾人かには、面倒を見なければならない年老いた親や幼い子供がゐる。彼らにとつて、彼女たちの命には價値がある。先賢は、決して女性が彼女たちの命を終へることを教へはしなかつた」
サディズムの實際の例は、愛人と不倫をして捕へられ、罰せられた少女Chuankuの場合である。この事件が却下された後、Chuankuが戀人の元に行き、一緒に泊つたといふことを聞いた長官は、彼女を法廷に連れ出し、裸にして鞭打たせ、それを個人的に喜んで傍觀した。袁の友人はこの話を彼に傳へた。彼は怒りを抑へ切れずに長官に手紙を書いた。嚴格な道徳家の名を樂しむために、長官が犯罪者やならず者たちの手に渡さうと、故意にChuankuの事件をつくつたことに對し、袁は效果的な諷刺の言葉で彼を叱り、見せかけと僞善として彼を非難した。實際に袁は、彼の女性の扱ひを、虎や狼、またその他の野獸に比した。また、袁は戀人に忠實であつたChuankuの行爲は、罰せられるものではなく、獎勵されるべきものであるといふ立場をとつた。
袁はさらに、未亡人が再婚すべきでないといふ當時の觀點に異議を申し立てた。彼は、兪正燮のやうに、この主義が後世の邪惡な發明であつたことを證明するために、多くの歴史的事實を指摘した。これに關連して、しかしながら、賭博夫と離婚した妹と、十九で未亡人となつた娘の雙方が、袁自身から二人目と結婚するやうには勸められなかつたことに注目することは興味深い。女流詩人だつた彼の妹、素文の場合、彼女自身の意志として未亡人のままでゐることを選んだことが明らかだつた。しかし、彼自身の娘の場合には、父親として若い未亡人の娘に別の夫を見つけてやらない理由は比較的乏しかつた。袁は、唐宋期の著名な儒學者たちの多くに、二囘目または三囘目の結婚をした娘がゐたことに、完全に氣がついてゐた。しかし、一見したところでは、彼は自分の主義を自分自身で實行する勇氣を持つてゐなかつた。
袁の時代において彼を有名に、また惡名高くしたもの、それは、彼の「教へ子」には多くの女流詩人がをり、その著作が彼が個人的に試みた出版物の中に收められてゐるといふ事實である。實際に、詩に關する逸話の議論に專念した本である『隨園詩話』の大半は、古代および近代の女流詩人の作詩に專念してゐる。女性たちが書くだけでなく、彼女たちの詩を出版するといふ方法は、一般的な流行となつた。袁より若い同時代の大學者・章學誠(一七三八―一八〇一)からの抗議は、袁枚の大きな影響力および袁が反對した學者の視點の雙方を示す役割を果たすだらう。
最近、浪漫的であるとして專ら評判の不遠慮な人は、戲曲において男と女に英雄と女傑を演じさせることにより、彼らを惑はした。江南の富裕な一族の女性のほとんどが、この流行を追つてゐる。彼らは詩を出版し、男女の別に對する尊重をほとんど考慮することなく、また彼女らが女性であることを忘れて話に興じてゐる。女性に相應しい修養に努めない女性が、どうして眞の詩の才を持つことができやうか。現在の基準により、彼らは惡くなるだらう。どのやうな世界がやつてくるのだらうか。
章學誠のそのやうな表現は重要である。といふのは、章はより良い、誠實な、問題意識を持つた型の學者の代表であつたからである。この學者が言ひたかつたのは、歌妓は詩を書いてもよいが、家の娘はいけないといふことであり、さらには、家の娘も詩を書くのはよいが、それを出版してはいけないといふことであつた。「良き娘は」と章は言ふ、「寡默といふ女性文化の中において、靜かな娘であるべきである。悲しいかな! この現代女性たちは、自分のために自己宣傳しなければならないとは!」