日本語版『林語堂全集』を目指して

惡しき本能の善用

ラテンアメリカ諸國は近年、進歩のための同盟を形成した。間違ひないことは、誰であれ進歩について話す時には、我々が欲するのはどのやうな種類の進歩であるかを明確にしなければならない、といふことである。いづれにせよ、我々は何のために努力してゐるのだらうか? より良い社會に向けて、物事がより良い状態へと變化することが、進歩の意味するところであるのを疑ふ者は誰もゐない。間違ひなく、それは單に變化のための變化ではなく、正しく望ましい方向への變化を意味する。進歩の方向と目的は何か? 進歩によつて、我々は一體何を意味してゐるのか? 進歩はどこへ向ふのか? 我々は漠然と、進歩は物質的そして精神的により豐かな生活を意味し、我々はより平和で、繁榮した、幸福な存在となるために努力してゐる、といふことに同意する。しかし、それを分析し、幸福、平和、繁榮をいかに達成するかを訊ねるならば、意見は分裂せざる得ない。
確かに、全般的に、我々は物質的進歩、生活の物質的氣樂さによる進歩を意味してゐる――より良い住宅、より良い幹線道路、より多くの自動車、より多くの電力、そしてより良い一般的な生活水準。その結果、ますます多くの人々がこれらのものを手に入れるだらう。私が思ふに、誰もが同意し欲する唯一の種類の進歩は、使ふことができるより多くのお金を萬人が持つことであらう。だが、そこにはある條件がある。もし物價と税金が値上がりせず、戰爭がなく、犯罪の増加と單なる生活の浪費がなく、そして物質主義に偏らず、お金のためにこれ以上熱心に働くことをやめるならば、使ふべきより多くのお金を手に入れることは、誰にとつても喜ばしいこととなるだらう。問題はそれほど單純ではない。ただ唯物論の擡頭とその歩みを共にするだけの物質的進歩は、必ずしも近代人を幸福にしない。
物質的進歩の良い點は、我々がそれに關して何かをすることができるといふことである。近代世界において、科學技術はそれを可能にする。我々は、より良い衞生、より良い飮料水、より良い照明、人力に取つて替るより強大な力、より良い肥料、あるいはより良い罐切りさへ手に入れることができる。我々は、より良い、より多くの道路を建設することができる。これらのことは明白であるため、民族の近代的進歩について話す場合、通常我々はそれらのことを考へてゐる。その上、技術的進歩は止めることができず、また物質的進歩に抵抗することはできない。
道徳的進歩はさうではない。それに關しては、何もすることができない。コンクリートの幹線道路の走行距離を増やしたり、飛行機の速度を速くしたりするやう容易には、人の精神や道徳的資質を改善することはできない。人の道徳的進歩が、その物質的進歩と歩調を共にしてゐないために、世界が災難に直面してゐるといふのは自明の理である。エンジニアは地球の相貌を一變させたが、人は數世紀前の祖先がさうであつた時のままである。もし、正直、勇氣、共感、叡智といつた人間性において、我々の祖先よりも惡くないと思へるならば、我々は幸運である。これらのものは、單純にその方法を「進歩」させることはできないのだ。
これは近代人のジレンマである。人間本性は變化することのないものである。それは不變である。これは決して慰めの思想ではない。それは私が皆さんに提示したい思想の道筋を示唆してゐる。人間本性は不變であり、その基礎の上を進んでゐると假定する方が賢明であらう。
私の推論の道筋は、人間の進歩と文明の大部分は、怠惰、利己、恐怖といつた、いはゆる惡しき本能に起因するものであり、良きものすべてがこれら本能の認識によるものだといふことである。人間本性についての知識が完全に不足してゐた、獨斷的・純理論的な社會哲學者だけが、人間の本能は變化するものであり、集團の愛は結局のところ母性愛に替ることができ、國際的な結束は「正しい、あるいは間違つてゐる我が祖國」をいつでも變へることができる、と主張することができた。私は一度、共産中國の少女同志についての感傷的な物語を讀んだ。漁師の家族はマカオへ逃げた。漁師の妻が語つてくれた。共産主義國家は、赤ん坊が母親から奪はれ、國家育兒所に預けられるように命じた。漁師の妻には三歳の赤ん坊がゐた。彼女には、赤ん坊が船に殘り、自分の食べ物を食べることが許されない理由がわからなかつた。彼女は赤ん坊を國家に引き渡すことを拒絶した。三度目の拒絶の後、十六にも滿たない若い少女の人民委員が再びやつてきて、母親に忠告した。「なぜ赤ん坊を放棄することを拒絶するのか?」と少女は質問した。「あなたは集團を愛するよりも、赤ん坊を愛すると言ふつもりか?」。これは、國家政黨のプログラムの重大な社會原理の一部を形成するイデオロギーの無意味な類である。私は、いはゆる惡しき本能が、我々の文明のバックボーンだといふことを示すつもりである。
たとへば、通常惡しき本能として排撃されてゐる怠惰を取上げてみよう。プラトンに反して、怠惰こそは發明の母であると私は主張する。電燈のスイッチを入れるのは非常に簡單だが、石油ランプを清潔に保つのは非常に面倒である。人間の怠惰なくして、電燈が石油ランプに取つて替ることは全くあり得ないことであらう。歩く代りに乘り物を發明したのは、人間の怠惰であつた。エレベーターは、階段を登る際の、人間の怠惰の恥知らずな訴へである。給水栓から家までバケツで水を運ぶことより、流れる水道水を我々により好ませるのは、人間の怠惰である。とりわけ、怠惰は煙草産業のバックボーンである。最近では、自分で煙草を卷くことに注意を拂つてゐる者はほとんどをらず、すでに出來上つたものを買ひ、火をつけ、灰皿に置いて燃えてゐるようにしておくだけである。怠惰であるために、非常に快適なのだ。怠惰なくして、近代の快適さのうちのどれか一つでも發明することができたかどうか、私は疑問に思ふ。今、あなたがボタンを押せば、自動窓は上へまたは下へ自動的にスライドする。最少のエネルギーの消費で、最大量の仕事をすることを望むといふ、この異常な才能を備へた我々に感謝する! 我々の骨格をなす怠惰がなければ、今日の文明はどうなつてゐただらうか?
また、民主政治の素晴らしい産物である委員會制度は、責任を囘避しようとする人間の欲求のために存續してゐる。私が聞いてゐるところによれば、委員會は多數の投票によつて決議するために組織されてゐる。それは他に類例がない。それは官僚制度の素晴らしい形式であり、誰もいかなる決定も下す必要がないように發明された。それは善人の時間の大いなる浪費であるが、そこには寛ぎがある。委員會制度なくして、藝術としての「落書き」は發明されることはなかつただらう。委員會は、他の者がクロコダイルまたは女性の脚を描いてゐる一方で、話し續ける自分の聲を聞くのが好きな何人かの人々に大いなる機會を與へてゐる。それは、さうすることで、迅速な決定を考へ實行することができる人々を妨げることにもなる。私は台灣のある閣僚を知つてゐるが、私の知る限り彼は最も有能な人物の一人だが、彼のオフィス時間の五分の四が委員會に費やされてゐると苦情を言つてゐる。美と委員會制度の持續性は、決定が間違ひであることが證明された時に、誰にも責任がないといふ事實に存する。責任を囘避することは、嚴密に人間の欲求の賜物である。
共産主義は、人の惡しき本能のうちのいくつかの根絶を通じて人間本性を變化させることに基礎を置いてゐるため、我々の惡しき本能に挑戰を突きつける。私はその挑戰に應じたい。恐らくソ聯は、根本的に異なる社會制度を行ひ、また完全に異なる社會の前途を約束するものとして提示され、利益、權力、特權へのブルジョアの本能の代りに、社會主義の動機づけと社會主義の美徳を据ゑようとする際に遭遇した、困難の理想的な例として役立つだらう。罪深いブルジョアの人間本性が變るどころか、人間本性はいくつかの不思議な結果と共に、社會制度を内部から變化させる、といふことを私は示すつもりである。
あらゆる文明の基礎である利己心を取上げてみよう。我々はカール・マルクスから、私有財産はあらゆる惡の根源であると教へられてゐる。ロシアにはかつて、新しい社會(ユートピア)が突如として地上に出現するだらうと考へた思想家の學校があつた。地上では、一たび私有財産が廢止されたならば、人類愛の普遍的な強い抱擁と共に新しい文明は始まる。その後には、完全な經濟的混亂と破綻が續いた。ボルシェヴィキの徒は戰爭に勝利し、國を破綻させた。金錢的動機と個人收入なくしては、もはや誰も食物を栽培し、牛の世話をすることに興味を持つ者はゐないやうだつた。レーニンは新經濟政策を開始し、いくつかの私的賣買を許可した。その後、カール・マルクスを超える者が現れた、ヨシフ・スターリンその人である。用心深い資本家本能から、金錢的誘因こそが生産の唯一の活用可能な動機であることを彼は理解した。彼は國民貯蓄を促進し、速やかにソ聯の一九三六年憲法に個人の相續法を書き込んだ。これは、私有財産を持たないこと、また集團の利他的な愛は、明らかにイデオロギーの無駄口であると、彼は人間として感じてゐた、といふことを語つてゐる。彼は「uravnilovkaを下ろすと共に」――「收入の平等といふ旗を下ろすと共に」、旗幟を鮮明にした。スターリンはゼネラル・モーターズの社長になるべきであつた。收入の平等についてのこの概念は、プチ・ブルジョアの十八世紀の思考の遺物である「平等主義」としてレッテルを貼られた。
「これらの人々が考へるところでは」と、スターリンは言ふ、「社會主義は、社會を構成する人々の必要と私生活の平等を求めるといふ。これらは、我々左翼陣營の迂闊なプチ・ブルジョアの視點である。我々左翼陣營の迂闊者の幼稚な實驗によつて、産業が甚大な損害を被つたことを我々は知つてゐる」。スターリンに萬歳三唱! その後のスターリン時代も、そして今でもさうだとわかるが、社會主義革命の目的は、收入の不平等にあつたやうであり、ほとんどそれしか行はれなかつた。一九三〇年代に工員が月に七百ルーブルしか得られなかつた一方で、工場長には二萬五千あるいは三萬ルーブル支拂はれてゐた。軍隊と産業における金錢的誘因と社會的不公正といふ堅固な土臺のお蔭で、ソ聯の産業は壯大で前例のない飛躍を遂げた。スターリンは、組合勞働者による壓迫から工場長を救つた。私は、USスチールとベスレヘム・スチールの經營陣が、スターリンのやうな人物の眞價を認めるだらうことを知つてゐる。質問はかうである、共産主義はどれくらゐ資本主義的になり得るか?
利己心の一形態である私有財産に對する本能は、土地問題において最も顯著に示される。もし農民であるならば、私は自分の土地、自分の小さな野菜用地、自分の犬、そして自分の牛を持ちたいと思ふだらう。他の人々とそれを共有しなければならないとすると、その瞬間にそれへの關心のいくつかを喪失することだらう。すべての農民がさうするだらう。このことは、集團農場の失敗によつて示されてゐる。農民の妻は、病氣の馬に適切に毛布がかけられてゐるかを見るために、眞夜中に蝋燭をつける――しかし、國家の馬のためには、彼女はそれをしようとしなかつた。ソ聯の農業の失敗は、産業における彼女の長足の進歩と對照をなす。農民に彼の土地を與へるべきかどうか、決心しなければならない。主人からそれを奪ふことはできず、彼に分配する。そして二年後――決して二、三年を超えることはない――、再び彼からそれを奪ひ、廢嫡された農業勞働者として集團農場で働いてくれるやうに彼に依頼する。これは共産主義諸國の中における本質的な矛盾である。農民が彼の土地を所有することを望むと同時に望まないのだ。一九五六年のポーランドやハンガリーのやうに、ソ聯の壓力の重い手があげられたところならどこでも、人々が要求した最初のものは、農民に彼の土地を返すために集團農場を廢止することであつた。しかし、ウクライナの集團農場を強化することを可能にするために、スターリンは五百萬人の農家を肅清しなければならなかつた。
また、統治者に對する恐れと不信は、民主主義國家の基礎である。人間の自由の大憲章は、王權の憲法上の制限から成る。民主主義の總體的進歩は、そのままにしておかれたならば、統治者は自らの權力を濫用する傾向にあるだらう、といふ異常なほどの不信と恐れに基づいてゐる。二大政黨制は、ある政黨が與黨である時、野にゐる政黨はその振舞ひを監視する番犬として役立つだらう、といふ提案に基づいてつくられてゐる。統治者に對するそのやうな組織化された不信においてこそ、民主主義はしつかりと前進する。統治者に對する完全な信頼は、いかなる民主主義をも破滅させることだらう。
故に、いはゆる進歩的な國においては、政府が完全な信頼と信任のもとになすがままに放置され、人々に自らの思想を實行する獨裁政治に囘歸しなければならない、といふ異常で不健全なことが教へられる。すべての支配する徒黨たちが自らを永續させようとするのは、權力への愛が、死すべき人間の性であるからだ。誰も、權力の座から追ひ出されることは好まない。人々は一致して從ひ、政府が望むものはすべてを滿場一致で支持することを強ひられる。政府が九九・五パーセントの投票によつて支持される場合、私は常にそれを疑ふ。
しかしながら、權力における民主主義的チェックの缺如の結果は、恐るべきものである。あなたは支配者を疑はずにはゐられない。なぜなら、そのやうな支配する徒黨の内部で、同じ權力鬪爭は進むからである。人々が「惡漢を捨てる」ことができないため、トップで權力鬪爭に從事してゐる者たちは互ひに蹴落し合ふことを強ひられる。それは、明確に示すことができることではないと私は思ふ。傳へられるところでは、ベリア(Beria)は文字通り同僚に飛び乘られ、抑壓され、そして射殺された。そのやうな鬪爭は、權力に對する日常的な民主主義のチェックがない國おいては必要になる。レーニンの棺の葬送者たちが行つたやうには、棺の葬送者グループは互ひの喉に飛びかかることはなかつた。それは、單に支援がなかつたからである。スターリンは言ふまでもないが、ベリアを殺すためにマレンコフとフルシチョフがどのやうに手を組み、その後マレンコフを排除するためにモロトフとカガノヴィッチがどのやうに仲間入りし、その後モロトフとカガノヴィッチを排除するためにどのやうにジューコフと手を組み、そしてジューコフを排除するためにどのやうにブルガーリンと友達になり、そして最後にスターリンを廢してその神聖を汚し、ヴォロシーロフを罷免するためにどうしたかを、我々は知ることができる。私は、これらの人々が皆、彼らの國を愛し、ある高い理想を前進させるために熱心だつたことを知つてゐる。それは、彼らが互ひに殺し合はなければならない悲哀である。これらすべては、權力に對する民主主義のチェックを供給すべき健康な本能を認識することに失敗することに由來し、共産主義の地では同僚が行ふことはただ一つ、お互ひに包圍し合ふことであるといふ不健全な幻覺から生じる。
特權に對する願望は、利己心とよく似てゐる。それについて、率直に、そして正直にならう。ロシアであれ他の國であれ、すべての仲間たちがこの人生で望むものは、日々を過ごしていくこと、隣人よりもより良い日々を過ごすことである。あらゆる人間は、他の仲間が持つてゐない特權を欲する。竸爭の激しい自由企業は成長してゐる。誰もが、ロシアで特權を享受するために、トップへ上昇する機會を得てゐる。彼は、その竸爭の激しい企業においては自由である。そしてある者はどのやうに日々を過ごし、トップに昇りつめるのか? ある者はどのやうにして「成功者」になるのか? ニキータ・フルシチョフは、我々に良い例を提供してくれてゐる。スターリンとエジョフの下におけるウクライナの大量殺戮の後、フルシチョフは歡喜の聲をあげた、「同僚のスターリンに對して手を上げることによつて、彼らは『人間性の持つ最良のもの』に對して手を上げたのだ。スターリンは我々の希望である。彼は、すべての進歩的な人間性を導く信號である。スターリンは我々の旗印だ! スターリンは我々の意志だ! スターリンは我々の勝利だ!」彼はヨーゼフ・ゲッペルスのやうに聞こえなかつただらうか? フルシチョフはどのやうに日々を暮らしたのか? 彼は速やかに共産黨政治局のメンバーになり、クレムリンの主要人物になつた。フルシチョフが到達したやうに、黨トップに到達できる者はほとんどゐない。だが、共産主義の人民委員は、常にある種の特權を享受してゐる。一般の勞働者が入居できない新しいアパートに移り住むこと、より良い學校に彼の子供を通はすこと、より良い夏の保養地に妻を連れていくこと、オペラでより良い席を取ること、車を持つこと、など。それらを持つて、田舍や小さな町や村で、黨官僚組織の黨書記および平の構成員として過ごす。そして、他の人々よりも良い家、より良い交通手段といふ特權、またその他のプチ・ブルジョアの特權に對する願望を知る。權力と特權の同盟は、依然としてソ聯の黨勢力の要石である。そこには、支配階級と被支配階級がある。人が被支配階級から支配階級へと到る方法を探し出すのを止める法はない。
世界は今日、資本主義と社會主義の二つの陣營に分割されてゐる。二つの社會が互ひに近づきつつあることを餘儀なくされれゐるのに氣づくのを、私は嬉しく思ふ。資本主義社會はより社會主義的になつてをり、社會主義社會はよりブルジョア資本主義的になつてゐる。スウェーデンでは、社會主義の立法があまりにも完璧であるため、若者たちは戰ふ相手もなく、その多くが自殺してゐる。共産主義者によつて引き繼がれるまで、チェコスロバキアには良い社會主義の立法があつた。英國には社會主義の醫療と鑛山がある。一時の觀光客でさへ、アメリカで勞働組合が壓迫を受けてゐる階級であるといふ印象を得ることはない難しいだらう。逆に、製造業者こそは自國の法によつて壓迫されてゐる階級であると思ふだらう。勞働者の獨占(クローズド・ショップ)はあるが、ビジネスの獨占はない(獨占禁止法)。アメリカの勞働組合は、アメリカ大統領はじめ、あらゆる人々から尊敬され、そして恐れられてゐる。彼らは、不動産で數億ドルを所有してゐる。反勞働者を表明する勇氣を持つた、上院議員も下院議員もゐなければ、大統領候補もゐないのだ。アメリカでは、價格の固定にはノー! 賃金の固定にはイエス! モスクワでは、價格の固定にはイエス! 賃金の固定にはノー! あなたに訊ねたい、共産主義者は一體どこにゐるのか?
勞働者がアメリカで最も甘やかされた階級であると言ふことは、公平であるやうに思へる。またそれは、ウォルター・ルーサーをレニングラードもしくはモスクワに行かせて、自らの權利のために戰ふ方法をソ聯の勞働者に教へさせるといふ奇妙な光景になるだらう。知らず知らずのうちに、アメリカはある意味での社會主義になつてをり、その一方で、ソ聯は世界で最も偉大な獨占資本家になつてゐる。我々が「資本家」によつて實際に意味するところは、苛酷な勞働をさせ、支配し、搾取するといふことである。この巨大な獨占資本は、勞働者のすべての材料、すべての生産手段、すべての製品を所有し、すべての男性、女性および子供の勞働雇用をすべて支配する。社會主義の資本主義經濟の内部で、財産、權力、特權は社會主義の構造を見分けがつかないほどまでに變質させてゐる。
私は、新しい「社會主義者」ブルジョワジーが、ソ聯で急速に成長してゐるといふ感覺を持つてゐる。それは、アンドレ・ジッドが遙か昔の一九三六年に目の當たりにし、彼をうんざりさせた事實である。共産主義者たちがますます我々自身に似るやうになり、ますます人生の贅澤と柔らかな氣樂さに中毒となり、精神においてより陽氣となり、獨立心を深めてゐるのを見て、私は大いに喜んでゐる。私は、彼らがより少なく普遍的なユートピアを抱き、より多く彼ら自身の個人的な問題と個人的な進歩を考へてゐることを、嬉しく思ふ。したがつて、彼らには私有財産と普通預金口座が、また相續法が、そして何よりも、國家により制定され、保護された賃金の不平等がある。あなたに良い支拂ひがあり、また偶然にも他の者よりも良い支拂ひがある限り、收入の不平等のそのやうな計畫的な政策を、今まで通り「社會主義」と呼ぶことができるかどうかは重要ではない。それは結局のところ、住むのに惡い國ではない。家族から相續するものがない場合にはどうなるか、また死亡に際して貯金が國家に戻されると知つてゐたならば、貯蓄に興味を持つかどうか、私にはわからない。ソ聯の人々に言論の自由を樂しむ勇氣があるなら、彼らは資本主義革命を内部から完成させてゐることだらう。我々資本主義者とロシアの社會主義者は、すでにお互ひに非常によく理解し合へてゐる。私が今言つたことが、資本主義陣營と社會主義陣營を變容させる聲なき微かな力に光を當てるのに役立ち、小さな方法で國際的理解に貢獻できることを私は望む。資本主義國が社會主義になつてをり、社會主義國が急速に資本主義となり、小さなブルジョアでさへ斷然帝國主義者である時、我々はなぜそのやうにお互ひを嫌ふ振りをしなければならないのか?
 

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