日本語版『林語堂全集』を目指して

抽象藝術としての書道

Ⅰ.定義


中國の書道は、あらゆる中國の藝術の中で最も基礎的なものであり、中國人は律動、線、結構(構造)の美に關する彼らの基礎的な概念を書道から學んだ。中國人の審美的な意識がその最終的な洗練に達したのは、この領域においてである。手首と指の微細な動きに反應する、纖細で無限に敏感な毛筆を使用するために、また、一般に正方形を成す漢字は、結構と構成といふ問題において無限の可能性を持つてゐるために、中國の書道は、完全に文字自體の付帶的な意味とは別に、實際に形式と運筆、律動と結構に關する研究を抽象的に發展させてきた。したがつて、藝術としての中國の書道は、文字の線と構成との抽象的な美の洗練および鑑賞を意味する。それらによつて構成されるものは、動いてゐる物體のスナップ寫眞のやうに、運筆の過程を捉へた、美に達する力の瞬間的な平衡を示す。その美は本質的に動的で、靜的ではない。また、完成作品が示すのは對稱や靜的バランスではなく、本質的に成功裡にもたらされた微妙なバランスである、形勢または勢ひの力、あるいは力のドラマである。一つ一つの、すべての線あるいはすべての文字は單獨で美しい。だが、完成作品においては、任意の一枚の紙に書かれた線と文字、そして文字群はすべて、生きてゐる調和した全體へと合成される。
この藝術への基礎的な着想は、すべての藝術と同じやうに、自然である。中國の書道史の、理論上可能な限りすべての樣式の律動および結構法に對する徹底的な探求において、實際に自然界に存在する生物のあらゆる有機的形態と動作が、異なる「書體」の原型となつて組み込まれ、あるいは同化された。特に、植物と動物の形態の有機的な律動の美は、着想の主要な源であつた。藝術家・創造者は、目の前の自然美の廣大な蓄積を持つてをり、コウノトリの脚の細さ、快足の獵犬の跳ねる姿、虎の重厚な足、獅子の毛むくじやらのたてがみ、そして象の激しい足取りを取上げ、それらを編み込んで魅力的な美の型をつくる。他の者は、二匹の戰ふ蛇の緊張、李の枝の頑丈さ、松の木のねぢれ、乾燥した葡萄の木の微妙な強さ、あるいは、夏の午前に旅人の前でお辭儀する柳の甘美な柔軟性を模倣するかもしれない。特に一般に、筆畫の要素は「筋肉」「骨格」、そして動物の四肢の「腕力」に比較される。これらの動物の姿の鑑賞は、官能的である。といふのは、コウノトリの細い脚を見るのと同じやうに、多くの官能的な樂しみとして、馬の丸くなつた臀部を觀察することに、中國の藝術家は由來すると思ふからである。自然そのままで、動物と植物の形態美は、大まかに二つの大きな階層に分割されるかもしれない。すなはち、一方には強さと頑丈さと嚴しさが、他方には優雅さ、優しさ、柔軟さがある。實際に起こつたのは、女性の肢體の完璧な均整を表現する中國語の語句は、美しい書道について記述する際につくられた語句だつた、といふことである。

圖一.書の石碑の鑑賞
穴の穿たれた「太湖石」でつくられた庭園の人工岩に對する中國人の歡喜、また繪畫における山岩の豐富な使用は、それらの荒々しい律動の眞價を認めることに由來する。これは、宋代の偉大な儒家、朱熹によつて書かれたもので、その大部分が書道によつて發展させられてゐることを示す著しい例である。Aは「觀」、Bは「光」、Cは「臨」、Dは「樓」といふ漢字である。漢字「B」を、同じ漢字(圖八の漢字17)と比較してほしい。
 
  自然の美へのこの官能的な鑑賞は、より道家的、精靈崇拜的で、洗練された、別の傳統に由來する。この非官能的な傳統は、道家の精神に由來する。それは、生物の形だけでなく、植物や、岩(圖一)、化石化された樹皮、樹木の古く荒れた幹、岩山、落ちる瀧、漂ふ雲のやうな自然の無生物の形にさへ、人間の精神を囘歸させる。おそらく、この非官能的な理想を、すべての獸欲が除去された單なる「植物」であると見なすことができるだらう。非常に官能的な動物の肢體の鑑賞は、一般的な實踐における中國書道の共通の着想に役立たなければならないが、中國の審美的な意識の最終的な洗練は、この官能性の完全な否認、そして乾燥した枝や幹、あるいは切り分けた石を暗示する、死せる無生物の形の受容と鑑賞においてこそ見出される。この藝術的な理想から、珍品として保存されてゐる人工岩、奇妙に見える流木あるいは幹への、中國人の愛好を育てた。


圖二.筆畫と構造の型

   中國の書道に組み入れられた美しき動物の形の實例として、對應する型によつて漢字の「犬」で表されるやうなイヌ科の四つの種を、ここ(圖二)に再現してみた。滑らかな輪郭を備へた、充分な筋肉の發達を示唆する「ポインター(Pointer)」種は、恐らく最も正常なものである。ボルゾイ(Borzoi)の毛の豐富な成長により、犬の形は直ちに毛に覆はれるやうになる。しかしながら、それはその柔らかい脚との美しい對照の中に配置される。この「ボルゾイ」型は、より充分な墨を含ませた、より柔らかい筆によつて達成される。それは實際に、二つの種類に分類され得る、異なる形式の中國の書に見える。一方は筆をより活用し、他方は墨をより活用する。「ボルゾイ」は後者の種類に屬する。「グレーハウンド(Greyhound)」型の場合には、グレーハウンドの「力強い」構造を示唆するために、筆が中程度に墨を含んでゐることに氣づくだらう。さらには、グレーハウンドの腹部の高い弓形は、横劃(技術的には、「肩」として知られる)を上げることによつて容易に示唆することができることに氣づくだらう。「隸書」の型と著しい類似點を示すアイリッシュテリア(Irish Terrier)の場合には、その原型と書の雙方において、すべての線がほとんど正方形の構成に終はり、結果として生じる形式が「ずんぐり」してゐることに注目してほしい。
  それらがすべて、體毛、骨格、筋肉の同じ組合せおよび割合から生じてくるが故に、四つの形式はすべて調和してゐる。この有機的な調和から、アイリッシュテリアのずんぐりした形式、あるいは柔軟なグレーハウンドの輪郭といつた、形の調和が生まれてくる。また、それらは我々にある型の動きを示唆する故に、これらの形式はすべて、我々にある種の審美的な樂しみを與へる。
  實のところ、動靜(Movement)は中國の書道のまさに命である。古人曰く、「楷書は立つが如く、行書は行くが如く、草書は走るが如し」。すべての良き書は動靜を示唆してゐるため、「立つ」ことをやめる方が遙かに適切であると言へる。三つの形式をそれぞれ歩くこと、走ること、踊ることと比較してほしい。草書は、竸走や移動といふよりは、明らかに舞踊である(圖三)。ただ篆書(あるいは印章の書)のみが、立つことあるいは座ることと比較されるかもしれない。この書の形式が目指すのは、動態的變化や姿勢ではなく、平靜と均整である。篆書は、平靜な精神の 中で丁寧に描かれなければならない。かうした理由から、英語あるいは中國語の印刷されたタイプ文字に見るやうな、單に輪郭が整然あるいは均等であることは、中國の書道の目標ではないといふことを理解することができるだらう。他方で、良き中國の能書家は、常に實際の筆の動きの證據となる線を、不規則な筆跡として殘すやうに注意する。肉筆あるいは古代の拓本が繰り返し再生産の過程を經て、輪郭の元來の不規則が喪失されるとたちまちに、文字はそれらの活力を失ひ、死んでしまひ、作爲的なものとなる。この理由からさらに、なぜ比較的乾燥した筆がよく使用され、筆法の中心に擦れた線があるかが理解されるだらう。といふのは、これらの筆畫は、筆自體の動靜、方向および速度をより明白に示すからである。

図三.紙の上の舞

元来は速く書くために発明された「草書」は、文字のすべての筆遣ひを一つの線へと繋げた。


Ⅱ.筆畫


  中國人の藝術的な書は、英語にせよ中國語にせよ、それらの印刷字體や商用字體とは異なり、生きた律動的運動の中における直線の筆畫の加減を通じてのみ、藝術となる。すべての生命は、曲つた律動的な線上を動く。波條の丘に曲がりくねつた小川、ゆがんだ、あるいはねぢれた木の枝を見よ。といふのは、動きがあるところに曲線があるからだ。また、生命と動きが示唆されるのは、まさにこれらの不規則によつてである。ただ人間の愚鈍とある實際的な必要だけが、超高層ビル、工場建造物、あるいは鐵道線路、街燈柱といつた、我々の魂にとつて死んでをり、非藝術的で、束縛する何かを造り出す。消毒されたものであれ、番號がつけられたものであれ、衞生的に醜いものであれ、我々の都市の大通りに並ぶ自然の木々はいづれも、街燈柱よりも何萬倍も美しい。木は不規則な輪郭と姿を持ち、動きを示唆するため、どこかへ伸びよう、天の彼方へ達しようとする大望がある。それは、完全に滑らかな輪郭を持つてゐるがために、死んで活力を完全に失つた街燈柱よりも美しい。藝術的な書道は街燈柱に對峙する。街燈柱は靜的な對稱を表現し、木は動的な美を表現する。
  したがつて、すべての中國の筆畫は本質的に不規則である。注意深く考察するならば、幾何學的に直線に反する、最も注意深く書かれた直線を見つけることができるだらう。すべての中國の筆畫は、本質的に三つの曲折、あるいは動作から成る、と王羲之は言つてゐる(圖四參照)。第一折は、筆畫そのものに對して起筆がまさに反對の位置に置かれるときにつくられる。起筆は、線そのものの點として始まる。その後、筆畫の起點に近づくごとに、筆は紙に對して強く接觸する。そして、運筆の方向に對して完全な轉囘をなす。

圖四.
點線は、紙と接觸す前後に筆が通過する方向を示す。中央の線は、筆の「先端」の通過する道を示す。小圓は、より重厚な輪郭を構築するために、紙に對してより重い壓力で、休止がどこでつくられるかを示す。『書法正傳』より。


一般に、 「頭」を形成する筆の接觸があり、これは第二の動きと呼ばれるかもしれない。その後、筆畫の殘りを續ける前に、筆は僅かに紙から浮かせられる。この行爲は、筆畫の中において、頭の後に「首」を殘す。首から、筆畫の終焉へ向けた筆の繼續的な律動運動は、第三の動きを形成する。圖五で漢字1~8の横畫を參照してほしい。「頭」と「首」は、特に漢字8において明らかである。圖五の漢字4および圖六のすべての漢字において非常に重要な、縱畫の筆畫も研究してほしい。9、10および13、14の漢字の縱畫における、同じ「頭」と「首」に注目してほしい。馬の尾の後部あるいは獅子のたてがみを示唆する漢字11の、大きく傾斜する筆畫に特に注目してほしい。この筆畫の幅の範圍は、藝術家の側の大いなる大膽さと自由を示唆し、その有名な「機動性」の理由の一つである。漢字12の縱畫の非常に強力な繼ぎ目にも注目すべきだ。その頂點は馬の膝に似てをり、その末端は馬の蹄に對應する「骨のやうな」構成を持つてゐる。一方、その中心は強さの點で馬の脛に等しい。これは、左側の傾斜する筆畫が、優雅に搖れることに對する好對照の中でつくられる。他方で、漢字13の強力な縱畫は、明らかにより「筋肉質」で、虎の脚に似てゐる。しかし、漢字15の細い眞ん中の筆畫は、その最後の上向きの撥ねにおいて、家鴨の口の優雅な強さを示唆する。

 
圖五.横畫

 
圖六.縱畫
 

  この律動運動の原理により、その筆畫が漢字の中心軸を形成する場合を除いて、中國の藝術家は常にその筆畫を曲げる。また、たとへ中心軸を成す場合でさへも、軸それ自體が片方の側に曲つてゐるものがしばしばである(漢字15を見よ)。特別に筆畫が曲げられることになつてゐる方向は、漢字全體の調和の感覺によつて決定される。たとへば、漢字3(圖五)の第二と第三の横畫は、反對方向に曲る傾向があるが、この祕儀は實際の修練を通じて學習される。一般に漢字は、(肩がないやうな)締まりのない形式に歸着するので、多くの初心者が成功することなく何度もこの漢字を書き續ける。いつの日か、彼らは書道の有名な模範からこの祕密を知り、そして、第二の筆畫の傾斜は、それだけで漢字が部分に墮することから救つてくれることを觀察する。さらに、漢字5および6(圖五)では、起筆の一畫が他の筆畫を眞下に保護するやうに、下方に曲げられてゐることに注目してほしい(この場合、その筆畫は修正される。「首」はなく、筆畫は點を書くことによつてではなく、右へと角度を加へることによつて形成される)。他方で、漢字16の起點は曲つてゐる。これは、反時計囘りに入る、より低い筆畫の移動を平衡させるために必要だからである。私の見解によれば、優雅に徹底的な線を追求するための原理は、有名な中國の屋根の、優雅な弛む線に負つてゐる(圖七參照)。


圖七.弛む屋根の起源
 


Ⅲ.結構


  中國の書道が難しいのと同時に、しかしながら、それを特に面白いものにしてゐるのは、これらの文字における結構(構造)の問題である。漢字は、元は最も奇妙なもの、象形文字から形成されてゐる。それは異なる複雜さの程度を持つ要素であり、理論的な正方形の中に要素をすべて集めなければならない。また、有機的統一體の中への文字の異なる部分を配置することは、最も鋭敏な洞察と美感を必要とする。まづ第一に、すべての文字は、有機的な生きた全體を形成しなければならない。その筆畫はすべて、互ひに纖細な均衡が保たれてゐなければならず、同時に、互ひに密接に融合してゐなければならない。そして最終的には、完成品は靜的な對稱ではなく、動的な状態になければならない。全方向から樣々な配置でやつてくる、異なる大きさの要素の多樣性は、一定の研究と觀察を要する。正方形の種類について見てほしい。

        口  呂  品  哭  器  向  哥  哉

  實際に、それぞれの漢字の結構を個別に學ばなければならない。
  これらのよく形づくられた漢字のいくつかに關する研究および分析は、それに含まれてゐる内的組成の問題として明解に説明されるだらう。西洋の機械によつて設計された商用字體とは異なり、中國の書道がいかにして藝術となつたかは、印刷書體の漢字と、よく書かれた肉筆の漢字との比較によつて理解することができるだらう。たとへば、漢字17(圖八)を比較してほしい。まづ最初に氣づくのは、絶妙にも、漢字の幾何學的な中心ではない中心點に向つて、計り知れないほど締めつけられるやうに、漢字が全體としてどのやうに構成されるかといふことである。また、運筆の跡である、故意に異なる筆畫の輪郭に注目してほしい。さらに、二つの點が、漢字の肩の上で互ひに反對方向から轉囘してをり、異なる大きさであることを見てほしい。結局、すべての中でとても重要なことは、全體の輪郭は少しも正方形ではない(左側より明らかに大きな右側)といふことである。その姿勢は、下方の二つの筆畫の對照によつて大部分が達成されてゐる。特に、他のいくつかの例では、右脚を直線に前に伸ばし、左脚を後方に曲げて走る男の姿勢である。平衡と不規則、平靜と機動性を同時に達成する、そのやうな姿勢が容易であると思ふならば、六畫で書かれたこの單純な指標を摸寫してみるがよい。

図八.輪郭(くびれの線)                 圖九.姿勢と緊張


   「飛ぶ」ことを意味する漢字18もまた、結構の中に興味深い點を示してゐる。それは、女性の服のやうに、ウエスト囘りが締めつけられてゐる。印刷字體とこの肉筆との比較は、漢字がいかにして藝術的に有機的統一體へと轉換されたかを、ただちに明らかにしてくれることだらう。
  上記の二つの例において示される、漢字の主軸を形成するといふ問題に加へて、漢字19および漢字20(圖九)において示されるやうに、より重要な問題として姿勢がある。印刷字體とは對照的に、漢字19は、一方に傾けられてゐることに注目してほしい。その本質的な動きと緊張は、少女が滑走する姿によつて最も示唆されるだらう。他方で、漢字20では、中心にある頭は一方に傾けられ、腕は一方が他方より僅かに高いことに氣づくだらう。左畫が傾いてゐるのは、より低い右畫に對する緊張感を成すものであり、それにより、漢字全體の輪郭をタップダンサーに似させてゐる。嚴密に言へば、重心は方形の中心にはなく、タップダンサーが彼の左脚を前進させなければ、倒れることだらう。だが、それはまさに我々が見るこの姿勢が、運筆の過程によつて捉へられたものであるからであり、それ故に、この漢字は生きてゐるやうに見えるのだ。そのやうな漢字を見ることで、人は僅かに不安定を感じる。重心の傾きは、音樂における「解像度」に比せられるかもしれない。不一致は、それ自体ではなく、次の音への移行として許容される。その最も明瞭な例は、現世代の最良の書家である葉恭綽氏の書の中に見出すことができる(図十一参照)

図十.構造の顛倒                    圖十一.解像度(葉恭綽の書)


「後ろ」あるいは「~から背を向ける」を意味する漢字21におけるがごとく、筆勢の美についての考へは、しばしば構造の別な奇妙な點、すなはち壞れた軸に歸着する。ここで我々は、印刷された漢字において、完全に對稱ではあるが、藝術家によつて頭部が一方に重心を向けられてゐることを理解する。同じ藝術家によつてつくられた漢字22では、それが靜的平衡として留まることを許される場合、完全に對稱的であることがわかる。これは、下方の二つの點において、最も明瞭である。漢字24のやうに、それは通常、異なる方向から對面するやうに書かれてゐる。ここで、しかしながら、 あたかも左からの突風に吹かれるかのやうに、雙方の點は右を向いてゐる。これとは對照的に、古代の拓本に見る同じ漢字は、反對方向に正確に面するやうにつくられてゐることを見てほしい。だが、「勢」と呼ばれる姿勢を想定する考へは 同じである。


図十二.構造の型


  したがつて、ある漢字から別の漢字へと、無限の柔軟性をもつて型は變化する。實際に、十年も書を續けてゐれば、ほとんどの漢字の型を書くことができたとしても、漢字の構造問題が個別に解決されてゐない場合、すべての漢字は、現役の藝術家たちに構造の新たな問題を提示する。異なる漢字によつて示された、變化に富む型の構造の實例として、古代北魏の同時代の僧の手になる石碑の拓本から取られた四文字、25、26,27、28(圖十二)を供したい。漢字27は、特に對照的である。漢字26は、變形前の漢字がまさに左右對稱的であるため、特に興味深い。
  當然のごとく、これらの構造の問題は、中國の藝術家による系統的な研究に供され、ある一般原則が導き出された。その顯著なものとしては、歐陽詢の「三十六法」がある。その中には、「讓り合ひ」「側面への傾斜」「竝列」「内面と外面」「分離された筆畫間の精神的な接續」「會釋(相互性)」、大きな要素への小さな部分の「加入」、「上方掩護」「下方支援」「平衡」「差異」「包含」などがある。また、非常に重要な原理として、力の平衡を達成するために、筆畫においてこれを擴張したり曲げたりすることを強調する誤差の「整流」などがある。しかしながら、これらの抽象的な原則は、すべて單なる一般化であり、それらの效果的な適用は、第一に、個々の漢字が當座必要としてゐるものは何か、といふことに對する理解力に依存する。第二に、長年にわたる修練と模範の研究によつて目指される、漢字の構造型の視覺的な概念の鮮やかさに依存する。第三に、筆と墨に對する實際の制禦に依存する。筆が持つ者の心に從ひ、彼の意圖を正確に反映するやうに。
  手綱を意味する表題の二文字目(羈)は、構造問題の格好の事例である。三つの別個の要素は、一つの全體を形成するために統合される。印刷字體では長い横畫である頭の點は、統合體の輪郭に必要不可缺なものに變更されてゐる。底邊の横畫は、それを「締める」要素として、右から左まで及ぶ。
  完璧な書の大家の場合、これらのすべての學問は、まるで彼の本性であるかのやうに吸收されていつた。故に、紙に筆で書くとき、彼は達人の器用さ、自らの心、手首、指によつて動かし、そして、筆は完璧な調和のもとに動く。


Ⅳ.力のドラマ

大家の手になるそのやうな書は、もはや意味を示すために書かれた象徴を繋ぎ合はせたり、並べたりするものではない。それは、まるで完璧なダンスのやうなものであつて、調和ある運筆の喜びに捧げられる冒險である。筆畫は連結し、再び離れ、強くなるために留まり、スタート地點の走者のやうに一氣に書きなぐる。そして、鋼の鉤針の力で曲げられ、ねぢられる。戰術の大家によつて采配された戰ひでの軍隊のやうに、絶妙な瞬間と場所に互ひに割り込んでいく。良き書を見る樂しみは、まさに大家の動作の律動を見るこの喜びである。それは言ふなれば、たとへば優勝選手によつてなされたテニスの試合を見る喜びに非常に似てゐる。この感覺について、王羲之は息子に宛てた「筆勢論」を巡る手紙の中で、書を戰場の將帥と比較してゐる。彼は紙を「戰場」に比し、筆を「戰鬪用の武器」に比し、墨を「甲冑」に比し、硯を「水路」に比してゐる。書家の才能または能力は「將帥」であり、藝術家の心は「參謀長」であり、構造型は「軍事計畫」もしくは「戰術」であり、書く者の直感として瞬時に生まれ、作品を創りまたは損なふものである、偶然または瞬間的な靈感は「運」であり、互ひに交差あるいは觸れ合ふ主線は軍隊「命令」であり、曲折と轉囘は「接近戰」であり、點と線は「支隊」であり、より長く伸ばされた拂ひは「軍旗」である。
したがつて、書く瞬間、筆と墨のすべての動きは、長年の修練を通じて會得され、藝術家の情緒的なエネルギーによつて瞬時に決定される、心と手の完璧な連携を含んだ、律動の中の冒險であることが理解されるだらう。「中國の書道は、紙の上で筆が踊つてゐる」。そして、漢字または漢字の線は、あらゆる補正や模倣を無視して、藝術家の特性の生きた表現になる。一人の大家が成し遂げることができることは、他の者が到達するものを超えてゐる。單なる對稱に到達することは容易であるが、氣紛れ、大膽さ、そして精神の自由から完璧な大きさを組合せて、力を入れずにそれを爲すことは難しい。鍾繇の弟子であり、おそらくは甥である宋翼は、完璧に端正で綺麗な漢字を書いたところ、これを師匠に嚴しく叱責され、三年間、彼は鍾繇に顏を見せる勇氣がなかつたと言はれてゐる。また、王羲之の息子で、同じく有名な書家として知られる王獻之についての故事も傳はつてゐる。ある時、彼は壁に書かれた父の文字を見て、すでに自分は父に匹敵すると考へ、父が家を離れてゐる時に文字を消し、その代りに密かに自ら模倣して書いた。歸宅するとすぐに、彼の父は目下の文字を見て、「このやうなひどい字を書くとは、よほど醉つてゐたに違ひない!」と自らに言つた。立ち聞きした息子は、自らを非常に恥ぢ、再び惡戲をする勇氣が沸かなかつたといふ。

解題:
上記のエッセイにおいて、私はできるだけ引用を避け、主として私自身の觀察を提供した。この主題を巡る、最も充實した完成された論文は、包世臣の『藝舟雙楫』、そして康有爲の勞作である『廣藝舟雙楫』に見出される。この主題に關する初期の論文や藝術家の見解の集成については、包世臣のより基本的な本である『書法津良』や王大錯の『書法指南』、あるいは入手困難な戈守智の『漢溪書法通釋』を參照してほしい。基本技術の實踐的助言については、蒋和の『書法正傳』を參照してほしい。

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