Ⅰ
文學は個人の精神の表れであり、一つの時代の文學を研究するといふことはまた、その時代の精神が、自信に溢れ安定したものであるかどうか、想像力に富み、活力がみなぎり、十分に創造性があるかどうか、それとも動亂混亂したものであるかどうかなどを研究することなのである。さらにまた、私たちが追究しなければならないのは、社會や政治の變化といふ衝撃のもとにおいて、深みのある完成した不朽の傑作を生んだかどうか、作家が最高水準の境地に到達し、後世に傳へるに足る傑作を創造してゐるかどうかといふことである。これでは掲げた目標があまりにも高すぎるやうであるが、しかしこれこそまさに、我々が討論しなければならないことではないだらうか? 我々と同時代の人について評價を下すのは、非常に困難であるが、やはり試みてみなければなるまい。
洋の東西を問はず、現在はすべて精神的不安定の時代であり、現代文學や現代藝術は、まさにこのやうな不安定性を物語つてゐる。原子時代と現代藝術の間には、非常に密接な關係があるが、一般の人たちはこのことをまだ認識してゐない。藝術家は、舊世界や舊信仰の崩壞分裂を眞つ先に感知する人である。再現不可能な現代藝術は、「内的視點」にせよ、キュビズムにせよ、すべて人に一種の物質的分裂の感覺を與へ、人間の精神的分裂を表現するのに適してゐる。ダリの超現實主義の作品は、論理に對する一種の抗議に他ならない。このやうな状態がなほ繼續されるならば、いつの日か、すべての現代繪畫が、我々のよく見知つてゐる人物とは、全く似ても似つかぬものになつてしまふだらう。
私に言へることはただ、このやうな藝術は實驗的なものである――極めて實驗的性質の高いものである――といふことである。不安定性そのものは決して惡くはなく、不安定はつまり活力なのである。ただ我々が問題にしなければならないのは、あらゆる事物を打ち壞し解剖したのち、さらに一切を廢棄して、果たして何を殘すことができるのか、といふことである。
現代中國もまた、一九一七年の文學革命の後に、一つの不安定な時代を經驗した。私が問はんとするのは、この四十何年かの不安定期を經て、結局いかなる價値あるものを殘したのかといふことである。
何はともあれ、私が最初に言つておかねばならないのは、文學は永遠に個人の創造であるといふことである。我々が一つの時代を總括し、その精神を語らうとすれば、事實上、何人かの傑出した作家をもつて例となし、これらの個人を通して時代の精神を見るより他はないのである。
いはゆる作家とは、一個の人間が時代に對して反應を起こした人のことである。作家と學者とは同じではない。學者も文章を書くことができ、作家も時には學術研究に從事する。しかし、ここではただ作家についてのみ檢討することにする。年鑑よりも難解な學者の仕事に、個人の精神を見出すことはできない。彼にとつて興味があるのはただ事實だけである。個人的意見? そんなものはなく、彼は超然としてをり、客觀的であり、非人間的である。一方、作家はこれに異なり、嫌惡、意見、偏見といつた個人的感情が筆の先から滴り落ちる。要するに、一つの時代の文學は、一群の個人が、それぞれ人生と時代とに對して起こした反應に他ならない。ジョサイア・ロイスよりもウィリアム・ジェイムズの個性を見る方が簡單である。ウィリアム・ジェイムズは、彼の『哲學への襲撃』の中で、かつて次のことを示唆した。彼はアマチュアだが、それはプロの同僚より彼が學習してゐなかつたからではない。それは、彼の精神が開かれてゐて自由であり、好奇心と探究心が強いからであり、それが現代のスコラ哲學の「灰色の壁」の中に閉ぢ込められることを恐れたからである。冒險、襲撃、探究についての考へは暗示であり、それが彼が書いたすべてである。それこそは、ウィリアム・ジェイムズがロイスより大きな衝撃を與へた理由である。
私が言ひたいのは、我々が一つの時代の文學を研究するには、何人かの重要な作家について語りさへすればよいといふことである。すべての眞の思考と創造的著述は、個人の洞察と認識の結果であり、ただ神と作家本人だけが責任を負ふものである。そのやうな個人の表現が禁止される時、創造的文學の庭は痩せ細り、荒廢する。これはすでに、共産中國で起こつたことである。
Ⅱ
我々がここに論議しようとする時代は、文學革命の年である一九一七年に始まる。まさにその年から、精神の動搖は始まつたのだ。私は、慣用として使はれる文藝復興ではなく、文學革命と呼ぶことを好む。なぜなら、「復興(ルネサンス)」といふ言葉は單に希望を表してゐるに過ぎず、事實ではないからだ。何となく中途半端で未成熟な、いささか滿ち足りない感じを私は抱く。私が「復興」といふ用語を避けるもう一つの理由は、それが意圖するところは古典時代に囘歸することであるにもかかはらず、一九一七年に始まつた文學運動は、古典的中國との關係を絶ち、西洋の思想や文學の潮流に身を投じるためである。管見の限り、イタリア・ルネサンスとの唯一の接點は、古典的な古風な中國語から離れ、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオの場合のやうに、記述の媒體として話し言葉を用ゐたといふことだけである。
文學革命の温床は國立北京大學であり、その代表的な刊行物は「新青年」であつた。興味深いことに、運動の第一聲が北京から起きたのではなく、ニューヨークであげられたことであり、その時、後に戰時中の一時期にワシントンの駐米中國大使になる胡適は、ちやうどコロンビア大學の研究生であつた。彼は、簡明平易かつ無感情な文體で、文學表現の媒體として、文語の代りに現代の白話(口語)である標準中國語(マンダリン)を使ふべきであると主張した。この主張は革命的なもので、人々を大いに驚かせた。といふのは、從來だれもこのやうなことを考へた者はなく、文語は中國において神聖なものであつたからである。これは確かに、大きな挑戰と解放であつた。古典語の運用に習熟するには、讀書人の一生涯の時間を費やさなければならず、しかも往々にして得るところは、ほんの僅かである。胡博士は指摘した、文語は文學の形式へと退化し、多くの場合、衒學的、暗示的で陳腐であり、使ひ古された決まり文句である、と。新しい生き生きとした表現を發明する自由は、そこにはほとんどない。古典中國語の作家は、自然の歩幅で闊歩するといふよりは、小刻みに歩いてゐるやうなものである。それは、第一級の作家を含むすべての作家を意味してゐる。他方で、現代人には表現力に富んだ生きた言語がある。胡博士は指摘する、中國の小説は、何世紀にもわたつて話し言葉で書かれてきたが、柔軟性に優れてをり、表現力にも富んでゐる、と。金聖嘆、李卓吾、袁中郎のやうな幾人かの十七世紀の批評家は、遙か前からこれらの小説の文學的價値を認識してゐた。中國の若者にとつて胡博士の提案は、人生を浪費する勞苦からの脱却を意味した。神聖な偶像は打ち壞され、古典に對する叛旗が掲げられた。その衝撃を想像することは、西洋人には難しい。中國の知識界、特に若い世代の間で燎原の火のごとく燃え廣がつた。
全中國の學生たちの視線が、北京大學の指導者たちに注がれた。この時、蔡元培學長のもとにあつた北京大學は、自由主義の砦であつた。城壁の内側には、多樣な見解に彩られた教授陣たちがゐた。湯爾和や林琴南のやうな清朝の老學者、胡適や徐志摩のやうな現代派、それから共産主義煽動家の李大釗と陳獨秀がゐた。林琴南や辜鴻銘といつた幾人かの頑固な老學者たちは、これらの革新すべてを嘲笑した。林琴南は、現代の白話を「行商人や手押し車を押す庶民の言語」だとした。二千年來、單獨で使はれてきた古典語を置き換へようとする勇氣がある者がゐるだらうか?
附隨的にここに述べておくならば、文法、構文、語彙の點において、古典語は現代中國人にとつては外國語に等しかつた。現代中國語が「I know it」と言ふのに對して、古代中國語はフランス語の「Je le sais」のやうに、「I it know」と言ふ。そして、「三フィートの生地を買ふ(buying three feet of cloth)」と言ふ代りに、古代中國語では「布に三フィートを買つてやる(buying cloth three feet)」と書かなければならない。これを見てもわかるやうに、それは難易度において學生にとつて外國語であり、その熟達は、他のいかなる眞の外國語の熟達とも同じくらゐ困難である。我々は「古代中國語」(古文)を書くことについて話してきたが、私の世代で純粹な古代中國語を書くことができる者はほとんどゐない。
しかしながら、文學革命は單なる言語の革命を超えるものであつた。社會的に、そして文化的に、それは過去との明確な決別を意味した。それは急進主義――過去に對する反亂――の精神、氣分、氣質の状態であつた。この「急進主義」といふ單語に注意してほしい。私は、それがいかに今日の左翼的、マルクス主義的傾向を直接的に招來してゐるかを示すつもりである。
十九世紀における敗戰の連續や外國の侵略、國土の割讓などによつて、中國人はまづ外國の砲艦に對して敬意を生じた。彼らは、外國の砲艦、電報、望遠鏡、寫眞機が優れてゐるのを認めざるを得なかつた。世紀末になつて、彼らはさらに、西洋の科學思想と政治思想もまた優れてゐることを、しぶしぶ認めた。彼らは、機械の背後になほ、科學があるといふことを認識した。嚴復は、ハクスリーの『天演論』、モンテスキューの『法の精神』、アダム・スミスの『國富論』を翻譯し、孫逸仙は共和政體を主張した。文學革命はさらに一歩を進めて、一種の覺醒を促し、西洋の文明、西洋の觀念、哲學、文學、社會意識などすべてが、より優れてをり、豐饒であるかもしれないといふことを認識させた。「青年よ、西方に向へ」と言はれた。それはものの見方と觀念の革命であつた。
胡適博士が一九一八年に全國的歡迎を受けて中國に歸つた時は、二十六歳であつた。彼には舊學の素養もかなりあり、さらに西洋の學術研究法の訓練を受けたので、この文學革命を指導する資格が十分にあつた。しかし、『新青年』の別の三人の編集者は、三脚机がうまく立たないやうなものであつた。四人の編集者のうちの三人は、實際には西洋のことを理解してをらず、うち一人は明らかに精神病質者であつた。錢玄同教授と劉半農教授は、熱烈な急進主義者であつた。胡適博士は、冷靜で明瞭な、理知的な彼のエッセイを書き續けた。共産主義者の教授であつた陳獨秀は、極端な急進的マルクス主義者であり、彈藥とスローガンを提供した。彼は、儒教、家制度、寡婦暮らしの風俗、こつくり占ひなどを猛烈に攻撃した。彼は直線的な進歩の考へを持つてゐた。彼はかう言つた、「今日の我々は進歩の先驅けであり、前の世代を踏み越えなくてはならない。そして、將來の世代は我々の屍を乘り越えてこそ、前に進歩するのだ」と。彼の豫言は當つた。急進主義の氣風は一九二〇年代の自由主義から一九三〇年代の左傾急進主義へと轉化した。
一九二〇年代の成長時代においては、思想は極めて平衡を缺いてゐた。古い中國は根絶やしにされた。過去との連續性は失はれた。青年たちはもはや古典を讀まなくなつた。古いものは、「封建」臭がするとされた。北京や上海の學校に入つた學生は、彼らの故郷の先輩を嘲笑つた。深い根も下ろしてをらず、西洋に對する眞の理解もなかつた。中國の青年は、共産主義の宣傳の罠に陷つた。共産主義は、これらの青年にあつては、最も急進的であり、それゆゑにまた最も良いもののやうに見えた。共産主義は偉大な約束と希望を與へるものであり、青年たちは常に希望を抱くものである。共産主義は信仰を要求し、青年にあるものは信仰心である。このやうな觀念の眞空状態の中で、共産主義は疾風のごとく入り込み、年若い學生たちに極めて容易に受け容れられた。ごく僅かな人しかロシア語を解しなかつたので、あらゆる共産主義の文獻は、たいていみな日本語かフランス語から轉譯された。共産黨員は、武力で中國を占領する前に、青年の心を虜にしてゐたのだ。
Ⅲ
これは文學革命の略史である。果たして、その文學的成果と功績は何であつたのか。この四十年間に新しい形式で書かれた創作物を評價するなら、六人くらゐの才能ある作家を見出すかもしれない。その各々は、それ自身の方法で何らかの成果を殘し、あるいは何らかの文學的進歩をもたらした。他方で、偉大な作品を生み出したかといふ文學的收穫といふ點では、疑問がある。それはかなりいい加減であり、奇妙な神經質に陷つてをり、深さと力強さを缺いてゐると言へることは間違ひない。
このやうな現象の原因を探し出すのは難しくない。それは過渡期の要因によるものであり、またおそらくは作家の經濟的不安定によるものである。まづ第一に、新しい形式を習得しなければならないといふ問題があつたが、それは詩、短篇小説、長篇小説、戲曲のいづれでも同じだつた。一般に新文學は、そのモデルを現代西洋作品に求めた。何人かの著者は明らかな模倣であつた。劇作家の曹禺の場合は、ユージン・オニールからの脱胎であり、小説家の茅盾の場合はアプトン・シンクレアの小説を受け繼いでゐる。第二に、話し言葉を新たな適切な美しい言語に精練するといふ問題がある。誰もが標準北京語で書くことに挑んだが、ごく僅かな者しか習得できなかつた。一般大衆が實際に話してゐる言葉(目の當たりに見るやうに生き生きとしてをり、慣用的で、逞しく、大地からその力を得てゐるもの)を書く代りに、ほとんどの作家は淺薄で味氣ない學術的な標準中國語を書き、そしてある者は、魯迅の先導下、ヨーロッパ主義の影響を受けた。作家は「people」として素朴な「人家jen-chia」を避け、現代的に見え、複數形を示したいがために、ひどく變てこな新しい発明「人們jen-men」を使用する。「happiness」を言ふのに、單純で素朴な「快樂kuai-lo」、あるいは一般大衆が話すやうに、單に「樂」を使ふ代りに、彼らは大仰な「愉快yu-kuai」を使ふ。
このことは、考へられてゐる以上に重大なことである。許容できる標準中國語を書くことができる者はゐたが、美しい標準中國語を書く作家は稀であつた。ちやうどただ英語を書くだけでは十分ではなく、上手な英語を書かなければならないやうなもので、良い英語は常に純粹で、自然で、具體的である。思考について議論する解説やエッセイの場合には、この問題はそれほど重要ではないが、散文において動作、感情、對話について描寫しようとすれば、それは非常に重要である。他方で、語法が歐化してしまつたために、傳統的な言葉の美しさや上品さの多くは失はれた。文章は冗長で、複雜で、不自然になり、そして囘りくどくなつた。まるで、トーマス・マンのドイツ語のやうに。
確かに、口語は生き生きとしてゐて、躍動的なものである。しかし、古典的言語には汲めども盡くせぬ美しさがあり、新しい言語はこれを取り入れ吸收消化してさせてこそ、力強く優雅な現代の言葉となる。現在の中國文學の特性のうち、優雅さは最も求め難いものである。私が言及しようとする著名な作家は皆、古典言語に對する深い教養があり、これはまさに若い世代に全般的に缺けてゐるところのものである。
第三に、經濟的要因がある。安心して、創作に專念できる作家は、非常に少なかつた。中國の作家は往々にして、一篇の短い散文か、あるいは一篇の旅行記を書くのが、一日の仕事とみなされた。多くのいはゆる作品は雜文であつた。一人の教師が、十篇、二十篇の短文を集めて、一册の書物として出版するのである。おそらく金錢的報酬があまりに少ないので、作家たちは長期の精力を費やして、長篇小説を書いてもつまらなかつたのかもしれない。最も成功した大衆作家の張恨水は、新聞に連載小説を書く方式で、彼の小説を書いたのである。
あるいは、私は間違つてゐるかもしれない。チャールズ・ディケンズは、連載形式で『ピクウィック・ペイパーズ』を書いたが、それは現在でも生きてゐる。モーパッサンやその他の作家も新聞に書いた。金錢的報酬があるのは、確かに重要であるかもしれないが、しかしまた少しも關係がないかもしれない。バルザック、サー・ウォルター・スコット、マーク・トウェインなどは皆、本を書いて借金を返したのである。反對に、『紅樓夢』の著者である曹雪芹は、全くの金錢的報酬なしに、偉大な小説を書いたのである。シェイクスピアは、彼自身雇はれ俳優として、また劇場の座長として忙しかつた。しかしながら、彼は偉大な悲劇を書くにあたつて、その生活のために書く必要はなかつた。何かが内面――内面の創作欲――から湧き出なければならないのだ。『アンクル・トムの小屋』がさうである。おそらく外部の状況は全く關係がない。必要なのは、持續性、安定的精勵、そして集中力である。しかし、ウィリアム・シェイクスピアの場合には、集中する時間さへなかつた。なぜなら彼は、時ならず舞臺に呼び出されたり、商賣上の事務を處理したりしなければならなかつたからである。
Ⅳ
詩、ノンフィクション、小説の各々のカテゴリーについて、いくつかの著名な人物を擧げて議論しようと思ふ。私は、より重要なものだけを嚴選しようと思ふ。
詩の方面においては、擧げるべき者は最も少ない。これは、讀書人が多少ともみな詩を吟じることができる國であることを思へば、不思議なことだと言はざるを得ない。傳統的な唐詩はすでに捨て去れられてゐた。胡適は、エイミー・ローウェルの自由詩を提唱し、どの青年作家も餘りにも自由に、自由詩を書くやうになつた。しかし、これらの詩作は、人が讀んでみたいと思ふやうなものでないことは、誰もがみな認めるところである。リズムの比較的明瞭でない自由詩は、立派な作品となり得ないといふわけではないが、しかし單に自由であるといふだけでは、詩とするわけにはいかない。それらの大多數は、不細工で、貧弱で、幼稚だつた。第一に、これらの詩人氣取りたちは、基本的な誤りとして、間接表現や暗示の技巧を理解してゐなかつた。第二に、宋詞においてリズムが豐かで變化に富み、非常に心地よいものであつたやうに、すべての詩においてそのリズムが不可缺であることを彼らは知らない。これらの作家は、唐詩や宋詞、元曲と共に育つてこなかつた。そこには形式を求める試みはなく、自由とは形式がないことを意味した。自由詩は最も書きにくいものである。なぜならば、それは決まつたリズムを放棄してをり、その技巧は目に見えないからである。最惡なのは、これらの詩人たちが、變化の多いリズムを用ゐないで、むしろ押韻を用ゐようとしたことである。二句目の末句がどうにか韻を踏みさへすれば、彼らはこれを詩としたのである。
一つの例外は徐訐である。彼の詩句はリズムに溢れ、非常に自然である。しかし、最も良い詩人は徐志摩である。彼は單に詩人であるばかりでなく、また一個の多彩な人物で、死んだのでさへ、飛行機事故によつて泰山の頂で命を失つたのである。彼はこの國のクラーク大學とケンブリッジ大學に學んだ。私は彼に一度、クラーク大學で何をしたのかを訊ねたことがあつた。彼は非常に剽輕に「私はほんのちよつと授業に出ただけです」と答へた。彼は極めて天分に惠まれた人であつた。私の仲間の中では、彼だけが現代の日常口語で美しい言葉を綴ることができた。作者がもし過去の精華を吸收することができたならば、現代の口語もやはり美しく書くことができるといふことを、徐志摩は證明した。私は非常に鮮明に憶えてゐる。私がドイツから歸國した時、それまで徐志摩の名前を聞いたことがなかつた。ある日、私は北京のホテルで朝刊「晨報副刊」を手にした。見慣れない筆者による雨中の散歩のスケッチを讀んだのだが、署名は徐志摩となつてゐた。私にとつては思ひがけないことであつた。そこには、口語が麗しく、力強く書かれてゐた。私は、未だかつてそのやうなものを讀んだことはなかつた。志摩は力を宋詞と元曲とに全面的に、そして豐かに得てゐる。周知のやうに、元曲は方言によつて書かれた。私がうんざりしたのは、貧弱で輕薄な擬似的な現代の標準中國語である。
例を擧げよう。「idea」を指す近代の輸入單語は「觀念kuan-nien」であるが、實際の土着の口語の單語は「念頭nien-tou」であつた。「念頭」は素晴らしい單語である。それにはある特性がある。それは「idea」を意味するだけでなく、祕密の思案をも意味し、さらには何かをするための熱望、渇望さへ意味する。最近では、すべての作家がこの單語を使ふことを忘れてをり、より無味乾燥で學術的な單語である「觀念」を「idea」として使ふことを好むやうになつてゐる。徐志摩は、この單語を使ふ勇氣があつた。この人は、元曲と宋詞の傑作を含んだ、あらゆる表情の豐かさを備へた口語を我々に與へてくれた。
『駱駝祥子』の作者である老舍あるいは舒舍豫は、本場の北京語で書くことのできた極めて少數の中の一人である。彼は北京に生まれたので、彼の文章には北方の特色と實質的な中身があつた。しかし、彼は詩人ではなくて、小説家である。彼の筆は生き生きとして力強いけれども、徐志摩の秀麗さと優雅さはなかつた。徐志摩は古いものと新しいものとを融合し、美しいものを創り出したのである。
Ⅴ
散文では、やはり周兄弟について話さなければなるまい。周作人も魯迅も共に大家として知られてゐる。中國の多くの兄弟や姉妹と同じやうに、彼らも異なる政治陣營に屬した。周兄弟はどちらも、充分なほどに舊中國に精通してゐた。政治的には、周作人は保守的だつたが、辛辣な諷刺作家であつた彼の兄、魯迅(周樹人のペンネーム)は現在、共産主義者たちの英雄となつてゐる。
胡適の筆致は常に明快で平易であるが、次第に研究へと向つた。彼の散文は一種の歴史研究を提供するものであり、正確さと明快さを特徴としてゐるが、美しさや文體を云々するものではない。それは合理主義者の論理的な文體である。
周作人と、ロンドンで教育を受けた朱自清とは、現代口語によつて純粹で完璧な散文を書くことができる作家として際立つてゐた。純粹な散文として私が意味してゐるのは、言語の自然な流れであり、多くの場合、會話調を基本とし、堅苦しくない。たとへば、G・K・チェスタートンやヒレア・ベロック、好みであればジョージ・サンタヤーナに我々が見出すやうなものである。(私が思ふに、サンタヤーナの『イングランドの獨白』には、英語の最も美しい散文の數行が含まれてゐる)。周作人は、言語の穩やかな自然な流れの感覺を我々に與へてくれる。それはその道において完璧である。それには常に慣用的な談話の調子がある。しかし、彼の題材はすべて古書や骨董であり、一杯の苦茶を手に持ち、世事を忘れた心境になつてこそ、彼の文章を讀むに相應しい。隨筆こそは、彼のお家藝であつた。
しかしながら、やはり私は魯迅について語らねばなるまい。彼は、一九二〇年代と三〇年代にあつて、年若い世代に大きな影響を與へた煽動的批評家である。H・L・メンケンと同じくらゐ、彼は辛辣だつた(私は、結婚する前のメンケンのことを言つてゐる)。
魯迅は短篇小説と、機智に富んだ辛辣な批評の兩方を書いたが、どちらも巧く書けてゐる。彼の今日の共産中國における地位は、ゴーリキーのロシア(ソ聯)におけるがごとく、どちらもすでに口をつぐんだ死せる偶像である。ゴーリキーが何も言はなくなつて長い時間が經つてから、スターリンは表面上において高らかに彼を尊重するようになつた。そして魯迅は、死の前夜、胡風との談話の中で、共産體制下においては、個人の思想の自由と言論の自由とが、どのやうな運命に見まはれるか、早くも感じとつてゐた。しかし、口を閉ざした偶像は甚だ役に立つものであり、死んだら、さらに一層崇拜されることになる。魯迅は、日本との戰爭の初めにこの世を去つた。だが、彼は舊社會に死を告げる偉大な聲であり、一九三〇年代にあつて若き中國を左傾化させるのに重大な影響を及ぼした。
痩せた、氣難しい、小さな黄色い顏に、ニコチンで黄ばんだ齒。彼は、その機智と諷刺で生きた中國社會の皮をは剥いだ。彼の筆鋒は諸刃の劍のごとく鋭く、棘のある毒矢のやうであつた。彼は自分自身を、作家であるといふよりは、一人の戰士とみなした。彼の毒矢が敵に見事に刺さつた時の得意の樣は、なほあありありと私の眼前に鮮明に憶えてゐる(私は彼が北京、厦門、上海にいた頃、さらには彼の晩年の數年を知つてゐる)。魯迅は敏感で鋭い頭腦の持ち主であつたが、身の置くところは、まさに劇的變動を免れ難い社會的、政治的體制であつた。彼自身は舊官僚の訓練を受けた者であつて、北京の學生を煽動して、舊態依然の北京政府を顛覆させてゐる時に、自身は平氣でこの政府から俸給をもらつてゐた。問題は、彼が古代中國をあまりにも熟知してをり、洗練された幅廣い處世哲學を身につけてゐたといふことにあつた。彼はかつて日本で學んだが(彼の弟には日本人の妻がゐた)、彼の出身は紹興(寧波)であり、紹興師爺のやうな風格で、一字で人を生かしも殺しもする筆の冴えを持つてゐた。
この世代において、作家として運命づけられてゐたのは、魯迅であつたと私は思ふ。私は常に、その人があまりにも多くのことを知つてゐたのではないかと感じてゐた。共産黨は、一九三〇年代に學生および一般の作家の心を捉へるために、嚴密な鬪ひを續けてゐた。作家を捉へ、コントロールするこの鬪ひは、トップから指示され、細胞を通り、勞働組合におけるやうに、しつかりと組織された。それは中國の青年の心を捉へるための必死の鬪爭だつた。共産黨は、青年を掌握した者が、未來の中國の運命を掌握することができることを知つてゐた。彼らには彼ら自身の語彙、標語、スローガンがあつた。いはゆる白話文學では飽き足らず、「大衆文學」といふ言葉を發明した。また彼らは、青年の世代にアピールし影響を及ぼすことのできる、一人の指導的人物、一つの象徴を求めた。胡適は、當然左翼の取るところとはならなかつたが、魯迅はその役割にぴつたり合致した。共産黨は攻撃の砲火を彼の身に集中させ、彼の型に嵌らない自由主義を嘲つた。彼の『阿Q正傳』は、無産階級の不合理に對する暴き立てと見なされた。この時、私は編集者として上海にをり、この鬪ひを目撃することができた。茅盾のやうに、共産黨側に投降した作家は、無條件に神に祭り上げられたが、追隨することを潔しとしない作家は、完膚なきまでに攻撃された。中國語で言ふ、「一犬形に吠ゆれば百犬聲に吠ゆ」である。それらの格付けに抵抗することは、若き文學志望者にとつては難しいことであつた。私は、魯迅が丸一年間、抵抗し、論爭し、反撃したのを見た。しかし、後に彼は轉向して、彼らがつとに彼のために準備してゐた王冠を受け容れた。一夜にして、彼の描寫した村の白痴である阿Qは、もはや民衆の姿を歪曲したものではなくなり、資産階級の壓迫に反抗する階級英雄となつた。もし我々が紹興師爺のやうな世故に長けた彼のやり方を知るならば、私たちは魯迅がどうして過去を打ち捨てることができたかを理解することができる。彼は共産黨の神殿の中に、彼のための神棚が設けられることが保證されてゐることを知つてゐたのである。
しかしながら、これには悲しいおまけがある。彼の妻はとても立派な人で、今は北京にゐる。古株の共産主義作家である丁玲が、地方の人民委員に對して傲慢に振舞つたとして、床を磨かされてゐた。魯迅夫人も人々の後ろから加はり、信じ難い言葉で彼女を非難した、「丁玲女史が黨に對してこのやうに傲岸不遜であるのは、彼女が民衆を輕蔑してゐる證據だ」。私はこの情報を得て、とてもやりきれない思ひがした。これが何と、魯迅夫人の口から出たのである。――私が彼女を知つてゐた時には、とても立派な人であつたのに。
Ⅵ
小説家をすべて列擧することは不可能である。ただ、成功した短篇小説家は、長篇小説家に比べて必ず多いと言へるだらう。短篇小説家の中では、魯迅、沈從文、馮文炳、徐訐が最も良い。
今日の自由中國あるいは香港における最も人氣のある小説家は、張恨水と南宮博である。張恨水は過去のいくつかの素晴らしい業績を殘してをり、南宮博は今日、歴史小説を書いてゐる。少なくとも、彼の小説は現代の指導者層に必要とされてゐる。
現在、本土中國に生きてゐるその他の作家は、もはや口をつぐんでしまつた。もし私に最近十年來、共産中國がどのやうな創作を生み出したかと尋ねるならば、私の囘答は「考へる必要はない」である。それらの作家たちのうち、茅盾は文化部長になつてゐる。郭沫若はただ毛澤東主席とスターリンを稱揚するのに忙しい、「汝は天上の太陽である!」「汝は光輝く鋼鐵である!」と。かうした調子で二十囘も三十囘も繰り返せば、その繰り返しが詩になつてくる。あらゆる學生に讀まれた最も人氣ある小説家の一人である巴金は、共産主義下においてはもはや何も書いてゐない。すでに言及した丁玲女史は小説『太陽は桑乾河を照らす』でスターリン文學獎勵賞を獲得したが、個人的なことで人民委員を立腹させたために、現在は不名譽な状態にある。彼女は、私が思ひ出し得る限りの、はるか以前からの女性の共産主義作家であつた。
私が特に懷かしく思ひ出すのは、『駱駝祥子』の著者である老舍である。彼は、一組みのプロ・ボクサーに關する小説を書いたし、その名を冠した七つあるいは八つの小説を持つてゐる。私は彼が偉大な人格者であることを知つてゐる。彼は完璧な北京語を使ひこなし、その文體にはユーモアがあつた。彼の物語には、北京の土の匂ひが滲み込んでゐる。私は戰爭中に彼と重慶で會ひ、のちにまたニューヨークで顏を合はせた。私は、彼が國民黨に向つて罵る樣を思ひ出す。彼は今では沈默し、一聲も發しない。もはや誰をも罵らず、また茅盾のやうな高い地位も得てゐない。彼は完全に沈默した。彼は今、一體何を考へてゐるか、私にはわからない。
Ⅶ
作家が政治をそのままにしておきたくないのではなく、政治が作家をそのままにしておかないのである。胡風や兪平伯に對する系統立つた迫害は、個人が自由にものを考へる權利があるかないかの問題に關係があるが、どちらも、大規模であまねく全國に及んだ。兪平伯の『紅樓夢』解釋が引き起こした紛糾は、政治の力が強く文學批評に加はつた一つの怪奇な事件であり、それが明らかに示すところの、國家の思想に對する抑壓は、さらに人を驚かすものがある。各地で黨の命令によつて書かれた、兪平伯を攻撃する文章は二册にまとめられ、六百頁の多きを數へてゐる。香港のUSIS(米國廣報文化局)は、約七十頁を費やしてこの事例に關する報告書を公表した。兪は戀物語としてのこの小説に關する研究に生涯を捧げた。黨當局は、ひ弱な男性戀人である賈寶玉は、ブルジョワジーに對する階級意識の強い反亂を表すべきであることを要求した。
最後に私は次のやうに言はうと思ふ。一切の創造的活動はすべて、個人の精神に由來する。文學は公式によつて書くことはできない。個人の自發性が抑壓される時、創造的精神の源泉は枯渇する。豐饒な土地には、必ず各種各樣の花が色とりどりに咲き亂れる。沼地では、一望果てしなく、全く一色であり、ただ灰白色の蘆だけである。一九五七年の春に、毛澤東主席は作家たちに「百花をして齊放せしむ」と言つた。作家たちは當局の鼓舞を受けて、表現したいことを表現した。毛澤東の花園にも、本當に忽然と春が訪れたやうだと思つた。二ヵ月後、政策は逆轉し、右派の肅清が始まつた。眞實の感情および見解を示す勇氣のあつたほとんどの作家たちは、蘭州、青海、海南といつた移住地、あるいはその他の邊境地に送られた。獨裁制度の都合の良い點は、獨裁者が二ヵ月前には、人々が自由に意見を發表することを公式に許しておきながら、どうして今になつてこれに罪を課することができるかといふことを、説明しないで濟むといふことである。彼は決して説明はしないし、またこれについて敢へて尋ねる者もゐない――獨裁の旨味はここにある。私はひそかに毛澤東に向つて、一つの問題を投げかけたいと思ふ、「毛先生、あなたの花園は今、どうなつてゐるのですか」と。