日本語版『林語堂全集』を目指して

科学と驚嘆する感性

歴史の始めから、人は常にある種の信念、信仰する何かを求め續けてきた。我々は多くのことを知つてゐるが、我々自身についてすべてを知つてゐるわけではない。そこで、信念といふ問題が生じる。限られた知識と信念との間には、明白な差異がある。ここで、トーマス・エジソンによつて傳へられた、私のお氣に入りの話をしてもよいだらう。ある時、牧師が知識と信念と間の差異を説教し、解明してゐた。彼は言ふ、「私の妻は、我々の子供たちが彼女の子供であるといふ限られた知識を持つてゐます。私は、彼らが私の子供であるといふ信念を持つてゐます」と。あるものは、信念として受け容れられなければならない。
この何かを信じるといふ必要は、ウィリアム・ジェームズが「信じる意志」と呼んだものである。明らかに我々は、これから起こること、あるいは起こつたこと、またまさにこの瞬間に起きてゐることすべてを知ることはできない。しかし我々は、我々が信じるものに基づいて行動することをしばしば求められる。たとへば、戰場の結果を豫言することができる將官はゐないが、彼は自分が知つてゐるものに基づいて行動することを求められる。人は、彼が見ることができるものを越えて、多くのものを知る必要があるし、また知ることを求める。もし生命と宇宙の統一見解を持つてゐなければ、彼は心地好くないために、疑問に對する答へを求めるだらう。私はどこから來たのか? 私はここからどこに行くのか? 私はここで何をしてゐるのか? これらは、ある形式あるいは別の形式の宗教によつて、また時として哲學によつてもその解を與へられる問ひである。それらは單純だが根本的な問ひである。といふのは、それらは人生における我々の態度、人生における我々の振舞ひ方に影響するからである。それらは、我々の疑ひのない知識を越えた領域を包含する。だが、それでもなほ我々は問ひ續ける、「人生の意味や目的は何か、また我々はここで何をしてゐるのか? あるいは、人生に目的はあるのか?」と。我々は問ひ續ける、なぜ? なぜ? なぜ?
現代人には、かうした問ひを發しない傾向があるやうに思ふ。毎日、我々は物理的宇宙について、また醫學、生物學、ホルモン、遺傳學について、新しいことを發見する。我々は、物質界の祕密を解き明かしてをり、いつの日か、科學が我々にすべてを教へてくれるだらうといふ印象を持つてゐる。我々は、地球の周りに衞星を送り、それらの軌道を正確にコントロールすることができる。また、我々は宇宙を探檢し續けることだらう。そして、我々はすべてを知ることだらう。このために、一部の人々は單純だが根本的な問ひを發することを止めてしまつたのだ。
我々が問ふことを止めてしまつたもう一つの理由は、進行する知識の專門化にある。我々は、中心的な問ひよりも、人生の個別の現象に對して關心を持つてゐる。我々は、ますますより少ない事柄しかわからないやうになつてゐる。蜂の專門家は、蜂についてあまりにも多くのことを調べるために、雀蜂にまで手が囘らないほど、現代の專門化は行過ぎてしまつてゐる。現代醫療を研究するために、息子を送り出した中國人の父親の話がある。彼の息子は、博士號を取得して歸國した。ある日、母親が脚を骨折した。父親は、それに對して息子が何らかの處方をすることを期待した。息子は、これは外科の仕事であり、彼は外科醫ではないと答へた。では何なのか、と父親が問ふと、息子は内科醫であると答へた。その後、彼の兄弟が胸に妙な痛みを覺えた。再び父親は、彼に助けを求めたが、息子は「駄目です」と答へた、「私は、眼、耳、鼻の病氣の專門家です」と。老人は怒り狂つて問うた、「お前の專門は右の鼻腔か、それとも左の鼻腔か」と。
その話は、現代人の知識を浮き彫りにしてゐる。我々は、そのやうな事實――氣象學に關する事實、エレクトロニクスと磁氣に關する事實、動植物に關する事實――の專門化された知識の重荷を背負つてをり、人そのもの、總體としての人、完全な人について考へる時間がなかつた。客觀的事實の適切な蓄積は叡智の増大を意味する、といふ奇妙な信念さへ、幾人かの人々は持つてゐる。H・G・ウェルズは、現代世界の大いなる要求は、あらゆる既知の事實の完全な百科全書であり、この方法によつてのみ、世界の問題は適切に扱はれ得ると考へた。見識を備へた知識の均質化は、西洋人の病氣の一つである。あたかも、年鑑に書かれた事實の完璧な所有者が、自動的に良き大統領になるやうなものである。それは、「とにかく、我々はあらゆる『事實』知つてゐる」と言ふ決心がつかない人のための科學的な見せかけであると私は思ふ。
事實に對する熱狂は、どうやら度を越し過ぎてしまつたやうだ。黒人、アメリカインディアン(赤色インディアン)、白人が皆、同量のグラムのカルシウム、リン、鐵、マグネシウムなどを持つてゐると言ふことにより、すべての人種の平等を證明しようとする信じがたい歌を私は聞いた。私は、實際にそのやうな歌が、戰爭中に公の場で歌はれるのを聞いた。もし女性が正しい「情報」を提供すれば、ユニバック(UNIVAC)コンピューティング・システムは、實際に結婚すべきことを主張する。ちやうど地球の周りの人工衞星の軌道を追跡することができるやうに、いつの日か、我々がコンピュータ・システムによつて閣議決定をつくることができるかもしれないといふ幻想が生れる。
我々はより多くのことを知ると共に、より僅かなことしか理解しなくなつてゐるやうに見える。私の論點は、科學が多くを知れば知るほど、どんな良き科學者も傳へることができるために、我々はますます不思議に思ふやうになるといふことである。あらゆる部門に及ぶ科學は、「どのやうにHow」の問ひに答へることができるが、「なぜWhy」の究極の問ひに答へることはできない。例へば、我々は身體があるウィルスに對する抗體をつくることができ、それを免疫とすることができることを知つてゐる。生物學者はさらに、珍しい抗體の化學式を知つてゐるかもしれない。しかし、まるで化學者の大家であるやうに、それが必要とされる時に正確に解毒劑を生産する能力がなぜ身體に備つてゐるのか、その理由を生物學者は發見することはできない。我々は抗體を數へることができるし、おそらく疾病と戰ふ「過程」について記述することができるだらう。だが、我々は「なぜ」それがさうするのかといふ問ひに答へることはできないし、最良の化學者が要求する試驗管による隔離といふ便益なしに、同じ血流の中でどのやうに百もの化學反應を生産することできるのかを考へることは全くできない。
過程についての記述は、過程の理由を見つけることではない。血液についてより多くを知るに從ひ、我々は血流が、ある特定の目的のためにその中に入れられて運搬される何百もの化學物質の複合體であることを發見する。これらのうちの一つは、血液凝固因子として知られてをり、指あるいは身體の他のある部分が切れた時に、出血を止めるその機能さへ我々は知つてゐる。しかし、我々はその存在の神祕的な原因を知らない。といふのは、その存在自體が神祕であるからだ。我々は心臟の鼓動を知つてゐるが、なぜそれが鼓動するのかは知らない。いつの日か、我々が心臟の鼓動を引き起こすために作用する特別な化學物質を發見し、誇らしげに「恥かしがり屋が何であるかがわかつた」と叫ぶかもしれないことは、完全にあり得る。我々はその性質については何も知らない。我々は、ただその過程、「どのやうにさうなるのか」を知るのみで、その理由、「なぜさうなのか」を知ることはないだらう。我々は、なぜその生理機能を果たすために特定の化學物質が「ちやうどそこに」存するのを知らない。機能と目的を知ることと、その出來事の第一原理との間には違ひがある。私が大學生だつた頃、私の教授は、我々が脾臟の正確な機能を知らないといふことを傳へた。今では我々は、そのほとんどを知つてゐるが、なぜ脾臟が偶發的にさうした機能を果たす能力を持つてゐるのかはまだ知らない。
私は、howとwhyの違ひ、生命の技術的な過程を知ることとその出來事の根本的理由との違ひを示さうとしてゐる。私が言ひたいことを示すのに事足るもう二つの事例がある。我々は、腎臟がどれくらゐ見事に構成され、作用するかを知つてゐる。それは、多くの役立たない化學物質を膀胱へ通過させ、有用な要素を血流へ再吸收させるといふ選擇的な能力を持つてゐる。これらすべては、試驗管あるいはそれらを分離する他の手段の手助けなしに、同じ血流の中で起きてゐる。我々は、腎臟がそれらのことをしてゐるといふことは知つてゐるが、未だそれがどれくらゐ正確にこれらのことをすることができるのかは知らないし、「なぜ」なのかは決して知ることはないだらう。
我々は、もう一つの周知の事實、日光が降り注ぐ状態で空氣中からある要素を變換する、植物の葉緑素による光合成の事實を取上げてもよい。我々は光合成といふ單語を發明したが故に、アフリカの未開人よりも多くを知つてゐると思つてゐる。實際には、植物が日光の中で緑を繁殖させ、その缺如によつて弱體化するといふ結果の事實以上には、我々は少しも知らない。アフリカの未開人もまた、それを知つてゐるといふことを忘れてはならない。彼は、ただ「光合成」といふ單語を知らないだけである。
しかしながら、私は最適への「到達」に關するダーウィン説の缺陷に注意を促したい。純粹なダーウィン説の全體的な思考とは、すべての變化が純粹に機械的なやり方で、盲目的に偶然によつて起こるといふものである。それは多くの科學者に好まれる思考の型であるが、不充分で表面的である。それは、可能な限り純粹に機械的な説明を常に求める科學者の願望であつた。訓練と偏愛とに基づく科學者は、「deus ex machinaデウス・エクス・マキナ(急場しのぎの神)」を嫌ふ。適者生存は、百囘以上にわたつて、疑ひのないものであると證明された。しかしながら、最適な變化がどのやうに首座に「到達」したのかといふ問題、その他の問題は、證明や論證がそれほど容易くない。受容されてゐる正統な理論は、これらの變化が盲目の偶然によつて盲目的に起こるといふことである。それが良き、有用な目的に歸着したとしても、そこには特定の目的に適應した、いかなる意圖的な變化もない。何萬年もの歳月にわたる無限の變化が與へられるなら、最適もしくは最も有用な變化は偶然によつて起こり、その特質を殘しながら生存し續けるだらう。
先驗的に、目的への無目的な變化といふことがあまり意味をなさない、と反論することができる。さらに言へば、無限の歳月における確率變動に關する理論は、チンパンジーに百萬囘に達するほどタイプライターのキーを打つことを訓練すれば、偶然にシェイクスピアの十行をタイプするだらうといふ假定に似てゐる。私は、これは健全な思考でも、「科學的な」思考でもないと思ふ。確率の法則は、それを許すのだらうか?
さあ、我々は當てにならない危險な地點に到達した。生物の變化のうちのいくつかは、高度に複合的で、信じられないほどに見事で、複雜であるため、目的なき變化に關する理論は、物理的に證明することはできず、ただある種の機械的な先入觀を伴つた論法によつて假説として認められるに過ぎない。目的を持つた變化であらうと、目的なき變化であらうと、その變化が生じて生き殘つたといふ事實とは別に、證明することはできない。我々は、嚴密に物理學にではなく、形而上學の分野に沒頭してゐるのだ。目的といふ問ひ――「目的のある」と「目的のない」――は、科學としての物理學の適切な知識を超えた所に位置する。目的の肯定と否定の雙方とも、物理學ではなく形而上學の問ひである。眞の科學者は、科學者として彼が知りもせず證明もできない主張をなすことはない。しかし、彼は人間として、何とかしてそれを信じることに決めることはできる。どちらも、「科學的」信念の形式と呼ぶことはできない。
説明することはできずに、我々は驚嘆する。事實、我々は驚嘆することを強ひられる。第一原因が我々をすり拔け、その説明が我々を失望させる時、我々には驚嘆する權利がある。驚嘆することは、非科學的ではない。我々がさうしない時に、知つてゐると假定することは非科學的である。證明された事實と起こりさうもないことを混同することは非科學的である。ショーペンハウアーが、我々に良き説明を與へてくれてゐる。「雄牛は角を持つてゐるからといつて、突くわけではない。しかし、突かうとする意志があるが故に、角を伸ばすのだ」と、彼は言ふ。これは、「意志としての世界」における彼の哲學の協和音である。それは形而上的で、神祕的に聞える。もちろんさうである。我々を助けるてくれる者はゐないのだ。換言すれば、我々は血液凝固因子つまりある抗體が血液の中で偶然生産されるといふこと、また才能が偶然に遺傳する、もしくは人間性は一種の宇宙の意志あるいは目的によつて、一貫してその特有の才能を所有し繼承する、と想定するところまで撤退した。偉大な科學者は、絶望の中で、「おお神よ! 私は知らない」と叫ぶべきである。
我々は驚嘆する立場に立ち返つた。我々は、宇宙の美や神祕を認識しようとする目的推論よりも、何か他の能力に頼らなければならない。科學は我々に、驚嘆しないことではなく、驚嘆することを教へてゐる。

今こそ科學のお伽話が語られる
若者の勇敢な夢を超えよ
信念が眞の創造的推察となる時
昔ながらの妖精を自然と結びつけよ
あるいは、自由で大膽な我々自身の幼年期の空想
家族愛が宇宙全體を動かす時
光輝く小さな星が天上から囁く時
兜蟲の後部は金よりも可憐なり
青春期が冷めた灰色の色調を帶びるまで
瞬きするやうな論證は魔法の魅力を青ざめさせる
すべては無機質で、正確で確實である
すべての神祕は消え、驚嘆すべき不思議はもうない
しかし、地球は生きてゐる! もう一度、我々にはできる
古の人の歡喜と驚嘆を奪還することを

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