本卷は、『With Love and Irony』(一九四〇年)所收のエッセイのうち、『リトル・クリティック(甲)』および『リトル・クリティック(乙)』に重複して收録されてゐるものを除く二十二篇の邦譯である。
『リトル・クリティック(甲)』と重複してゐるために除外したのは以下の十一篇である。
・「チェスタートンの確信」
・「南京蟲は中國にゐるか」
・「犬肉將軍の追憶のために」
・「私は人殺しをした」
・「死亡通知について」
・「ジョージ國王のお祈り」
・「上海に寄せる讚歌」
・「私のハウス・ボーイ阿芳」
・「手に汗にぎるバス旅行」
・「私はどうしてアパートに引越したか」
・「失はれたる官人」
また、『リトル・クリティック(乙)』と重複してゐるために除外したのは以下の十五篇である。
・「ベーシック英語」
・「私は何を欲するか」
・「ロンドンの乞食」
・「ある菜食主義者の告白」
・「女性が世界を支配すべきか」
・「言論の自由について」
・「苦力は存在するか」
・「中國娘のために」
・「金目當て女を辯護する」
・「私の爲さざること」
・「我が庭の春」
・「バーナード・ショーとの對談」
・「安徽への旅行」
・「小鳥を買ふ」
・「大晦日のお祝ひ」
これら以外の、本書に譯出した二十二篇については、昭和二十一年に飛鳥書店より發刊された土屋光司の譯を蹈襲した。ただし、明らかな誤り、あるいは原文の英文から適切に漢字變換できてゐないものについては、適宜これを改めた。たとへば、「雨の中で歌う孔子」においては、『論語』にあるエピソードを紹介する中で「魏」と訳出しているが、これは「衛」の誤りである。また、「杭州の僧侶」においては、土屋譯では書中の有名な僧侶について「吉恭」と記述してゐるが、これは有名な活佛「濟公」のことである。なぜこんな誤りが生じたのかは、原文の記載に歸せられるであらう。「魏」も「衛」もローマ字表記では共に「Wei」であり、「吉恭」も「濟公」も、ローマ字表記では共に「Jigong」となる。かうした單純な誤りが意外に多かつたことを附言しておく。と同時に、私自身への戒めとしたい。
さて、本卷收録のエッセイのうち、印象深いのは冒頭四篇の英國人、米國人、日本人と中國人とを比較した、一種の比較文化論、比較社會論である。そこには、日本人に對する辛辣な諷刺と共に、愛情溢れる崇敬の念も垣間見られる。だが、いづれの場合も行間から強く洩れ出づるは、中國文化に對する確固たる自信である。あるいはその自信は、現代中國人にはやや面映ゆいかもしれない。なぜなら、次のやうな記述に對し、果たして胸を張れる者が現代社會にどれだけゐるだらうか。
「中國人はあくまでも合理的なので、戰爭好きにも、偏狹にもなれず、いかなる形の熱狂にも引込まれず、純愛國主義者にもなれない。中國語で論爭してゐる人々の最後の訴へは『ところでこれは合理的か?』といふ言葉である。合理的でないことを認めた側が敗れて、罪があることになる」(「中國人と日本人」)
他方で、中國人が歴史的に具備してゐた、さうした洗練された文化を喪失してゐまつてゐることに對する反省も、林語堂は忘れてゐない
「その叡智とユーモアの多くは今失はれ、我々の古代生活の特長であつたあの善性も、今は廢れてゐる。現代の中國人は、移り氣で、氣難しく、神經衰弱な人間で、前世紀の中國の國民生活の不幸のためにもたらされた自信の喪失と、自らを新しい生存方法に從はせなければならない屈辱とのために、正當な氣分をなくしてしまつた」(「英國人と中國人」)
未だに、我々はこの古代の「善性」を失つたままなのかもしれない。そんな鬱屈した我々の氣分に一服の清涼を與へるのが、餘りにも有名な林語堂の次の名言であらう。
「理想的な生活とは、イギリスの田舍家に住み、中國人を料理人に使ひ、日本婦人と結婚して、フランス婦人を情婦に持つことである」(「英國人と中國人」)
平成二十四年九月二十一日
華本 友和