皆さんはニュースを事業にしている方々ですので、そういう意味に照らして、ジャーナリズムと現代社会について、少しお話ししてみたいと思います。我々は印刷と文字思想の伝播には極めて密接な関係があることを知っており、宋版や元版があるとは聞いても、漢版あるいは晋版があるとは聞いたことがありません。現代は版本の他に新聞紙もあり、一国の思想や時事の印象に対する関係は重大です。新聞界は輿論の機関であり、輿論を代表し、政治を左右することができる、文明社会の一つの大きな力です。たとえ毎日、何百万言が印刷されて配達され、明日には紙くず箱に押し込まれるとしても、国民の思想への影響は甚大です。
今日の社会では、一人の毀誉褒貶は常にテレビ放送を含めたこれらのマスメディアに依拠しています。新聞を読む人は雑誌を読む人よりも多く、雑誌を読む人はまた本を読む人よりも多いものです。政府は非常に重視しており、新聞業界の人もまた、彼らが人心に影響を与えるに足る重要な地位を占めていることを熟知しています。今日の西洋の国では、専門家に頼って何某の印象をつくり出すということがよくあります。それはImage あるいはPublic Imageと呼ばれるものです。たとえば、マリリン・モンローは、月に1枚ずつ裸体を撮影することによって身を立てました。だが、専門家は彼女に対する大衆の印象を良くも悪くもつくり出すことができます。専門家が彼女の天涯孤独の幼年時代を宣伝することに全力を尽くすことで、大衆の同情を引き、さらに深く彼女の裸体を吟味することができるわけです。
ニクソンとケネディの大統領選挙時には、初めてテレビで公開弁論が行われました。なぜかはわかりませんが、ニクソンは顔をうまく剃れていなかったようです。あるいは美容クリームを塗ろうとしなかったのかもしれないし、画面を操作する者が故意に悪く見せたのかもしれません。このような極めて微細な点が、ニクソンの容貌を変質させ、ニクソンに対する観衆の「印象」は改められたのです。
この印象は人工的につくり出すことができます。たとえば、私は泳ぐことができません。二十尺も越えないうちに、立ち止まって大きく息継ぎをしなければなりません。しかし、私には映画を撮影して、私を世界記録を打ち破った水泳の大家に仕立てるというように、印象をつくり出す方法があります。撮影が始まると、私は台北の淡水河から飛び込みます。次に、私と背格好が同じ人にお願いして、淡水河の上で思いっきり泳いでもらいます。なぜなら、世界に名を馳せるこの遊泳の大家は、泳ぐ時には顔を水面から離さず、後頭部しか見えないからです。淡水に着いて画面が切り替わると、私は再び河辺から姿を現します。ここにおいて、岸辺の黒山のような人だかりは「私が岸に上がる」のを見て、歓声を上げて拍手喝采となります。このようにすれば、私は世界的な遊泳の大家になるのではないでしょうか? 時間は58分で、私が泳いだ距離は30キロメートル余りといった次第です。
ゆえに、新聞は輿論の権威になることもできれば、詐欺宣伝の道具になることもできます。記者は一筆のペンをもって、人を騙す道具となることができまますし、読者が「愚か者」に成り下がるかどうかも、記者の手加減一つにかかっています。ですが、水準が比較的高い社会においては、一面では記者が責任を負い、一面では読者が鑑賞弁別の能力を有しています。記者は身勝手に人を騙すことはできず、読者もまた容易に騙されたりはせず、「愚か者」になることに甘んじることはありません。思想のある読者は、過剰な宣伝に対しては不快な気持ちを抱くものです。
新聞報道は極めて複雑なものであり、記者には取捨の責任があります。それは記者の観点と技巧にかかっています。「知っていることはすべて話し、話せば余すところなく話し尽くす」というのでは駄目なのであって、さもなければ記者の飯の種(職業)はきっと失われることになるでしょう。
文化水準が高い社会では、発言に責任を負う編集者及び記者は、まず読者の信用を獲得しなければなりません。さもなければ、人々はあなたの新聞を買ってはくれません。読者の側もまた、個人の視点を持つことを好むものであり、新聞に書いてあることをすべて信じるならば、新聞がないのと同じことです。
中国古代に新聞はなく、ただ朝廷の「邸報」(官報)があるだけでした。外省で大官を務める者も、常に京都に彼の個人的な代表を置き、都の情報を報告させていました。しかし、新聞はなかったとはいえ、王道観念においては、政府の力もまた民意を重んじ、民情を重んじていました。『書経』に言うところの「天の聴くこと我が民より聴き、天の視ること我が民より視る」とは、言論の道(言路)が塞がれて下の情報が上に届かなくなるのは、良くない政府だということです。政府が民意を尊重できなければ、結果として天命は移り、天の命が革まり、国家が滅亡の危機に瀕することになります。いわゆる「天命」とは、やはり民意や民情によって決まるのです。
このいわゆる言論の道が通っているかどうかという言論の道は、二種類に分かれています。第一は「言官」、つまり御史であり、皇帝の組織任用に対する監察の責任を負っています。今日の監察院に相当するもので、政府が民情を顧みず、時代の流れに逆らった道理に合わない行動をとり、一般民衆に災いを残すことがないように、六科言官による「封還上諭」(皇帝の命令を突き返す制度)の方法がありました。言官は常に皇帝の暴威に背かなければならず、務めるのが難しい役職でした。それでも、厳嵩を弾劾した楊継盛のように、正気凛然たる(正しい気風を堅持して人を畏怖させる)言官もいました。民意が盛んな時には、御史は生死を顧みずに、前の者が倒れても後の者がその屍を越えて戦うことができました。楊継盛が殺されて死んでも、相継いで厳嵩を弾劾する鄒応龍ら十人余りがおり、尻を叩かれる刑罰(廷杖)を受ける者もいれば、流刑になる者、そして死刑になる者もいましたが、死に至るも悔いることはありませんでした。さらには、「屍諫」という方法もありました。この奏文を上呈すれば必ずや死ぬと知りながらも、やはり太鼓を打ち鳴らして上奏し、自ら縊死するというものです。明代に宦官の劉瑾を訴えた蒋欽や、武則天時代の劉褘之がまさにそうでした。
時にはこれも、皇帝と言官とが互いに渡り合う曲芸に変わってしまうこともあります。言官は言いたいだけ言い、皇帝が聞き入れるかどうかは皇帝次第だからです。たとえば正徳帝の江南巡遊は、認められないとする十度の御史の諫疏を受けました(一度目は二人が奏疏して廷杖の刑を受け、二度目は七人、三度目は三人、四度目は十四人、五度目は五十三人、六度目は十六人、七度目も十六人、八度目は十人、九度目は二十人、さらに十度目がありました)――しかし、それでも正徳帝はやはり江南に巡遊しました。また、万暦帝という政治に無関心な皇帝は、専ら御史を目の敵にしました。それは「正儲」(立太子)のことを巡ってです。この件はそのまま16年(1586-1601年)もなおざりにされました。万暦帝は言官を疎ましく感じ、この件について提起してはならないと彼らに言いました。御史は東宮を正すことは国の根本に関わる一大事であり、速やかに解決すべきもので、言わないわけにはいかないと考えていました。皇帝は、「お前たちが言えば言うほど、私はますますそのまま放置したくなるのだ。さあ、どうすることもできまい」と言いました。こうして、一種の曲芸へと変わってしまいました。
中には、唐の太宗のような、とても善良な皇帝もいました。唐の太宗は魏徴の直言を聞き入れることができました。後に、門下中書省が太宗の聖諭に対して、いつも慣例に従ってそのまま公布し、可否を加えなくなりました。太宗は彼らを罵ってこう言いました、「私がお前たちを置いているのは、聖諭の手稿に参画し、思案してもらうためだ。一律に慣例に従って公布するのであれば、お前たちを置いていても何の意味もないではないか」と。
第二の輿論の表れは、後漢の清議です。太学生三万人は、朝廷の政治の得失と任用に対して有力な攻撃を行いました。これは太学生と宦官が敵対する局面をつくり出しました。宦官に嫌われた正人(高潔な人格者)はすでに免職されており、政府に再起用を迫ることができました。たとえば、陳蕃、李膺、張倹、范滂は皆、人々の心を打ち感動的な物語を持っています。南宋の和戦問題も、発言する気概のある士人たちによる度重なる論争を引き起こし、社会の一つの勢力となりました。明末にも、東林党や復社などの正人がおり、魏忠賢および(その愛人の)客氏の義子、義孫に対し、言論の責任を負って有力な批評を行いました。復社が阮大鋮に対処するのに用いたのが、南京で壁に標語を張るという方法であり、駆阮(阮氏を追放する)運動になりました。後に、党争に変わってしまい、明朝はそれによって滅びました。
私は、一つの国家はひとえに、責任を負う新聞と監督能力を有する読者による独立した審判にかかっていると思っています。清議には欠点はあるものの、取るべき点があります。しかし、決して互いにその風格を吹聴するということに陥ってはなりません。漢朝の清議は、まさにこの悪習に陥りました。いわゆる「三君、八俊、八廚」等は、当時の士大夫が犯した悪習であり、かえって党錮の禍を招く結果となりました。東林党人が批評したことは、もちろん間違っていませんでした。しかし、高尚な言葉と過激な議論によって名声を高めようとする悪習がありました。
政治はもとより複雑極まるものであり、その是非を見分けるのは至難の業ですが、二つの見方があると言えます。最も重要なのは、言論を行う人が公のためにしているのか、それとも私のためにしているのかということです。なぜなら、言論もまた、個人を攻撃し、徒党を組んで私利を図ることになりかねないからです。皆が国家のために志を立て、天地のために動機を抱くなら、それは良いものに違いありません。個人的な怨みに報いるために、徒党を組んで私利を図るならば、是非を弄ぶ小人の道具と化してしまい、必ずや党争の悪しき現象を惹起することになります。正義を主張する気風の良し悪しは、まさにこの一点にかかっています。
(1966年 ジャーナリズム界大会での講演)