朱さんは柳家の敷居を跨いだ途端、夫婦二人の言い争う声が聞こえてきたので、大急ぎで中へ駆け込むなり仲裁人の役を買って出た。
「馬鹿にしないでくださいよ。そんなインチキなことばかり言って」と柳夫人のプンプン怒った言葉が聞こえる。
「誰が馬鹿にした? 勝手に誤解しているんじゃないか......」と柳氏が答える。
「まあまあ、どうしたってんです? とくと話したらわかるでしょう」と朱さんが傍らまで来て二人にそう言った。
柳夫人:だって、この人は、杏仁の仁の字は心の意味だ、『金楼子』に出ていると言うんですが、私は『金楼子』なんて読んだことがありません。これは明らかに人を馬鹿にしています。だからあたしが反対すると、今度はこの人は、つい今しがた、「天下杏仁」は実は「天下興仁」だと言うんです。
柳:朱君、君はどう思うかね。僕の言うことは違っているかい? いったい、杏仁はなぜ仁と言うんだろう? 僕は、仁の字には「心」という意味があると説き、なお「仁は人心なり」という文句を引き合いに出したんだ。家内は、そうじゃないだろう、「蝦仁」(エビのむき身)はエビの心の意味じゃあるまいと言う。僕は、蝦仁はエビの殻を取り去ったもので、明らかにエビの外面と相対するものだと言った。するとこいつは、「じゃあ、井戸に仁ありというのは、きっと井戸の中にエビのむき身がいるってことですね」と言った。考えてみてくれ、こいつが僕を馬鹿にしているのか、それとも僕がこいつを馬鹿にしているのか。
朱:何事かと思ったら、それっぽっちのことで口論ですか。隣近所まで聞こえていますよ。
柳:事の起こりはと言えば、僕が家内の人治法治の議論を非難したのに家内がいささか不服だったのだ。僕が人治も法治も大した差はないと言うと、家内はあると言う。それは法家だと言うと、家内はあっさり法家たることを認めたので、今度は僕が道家の議論で押さえつけてやった。
柳夫人:この人は愛国者気取りでいるんですよ。あたしが中国の礼義廉恥を三文の値打ちもないようにこき下ろすと、結局「仁」などを持ち出してきて理屈をこねるのです。この人の議論、東洋文明を弁護しようというこの人の議論を聞いてごらんなさい。あたしはとっくに、東洋思想の特徴は儒教にはなくて道教にあると言いました。だからこの人はあたしに反対するため、やむなく「仁」などと言い出したのです。
朱:はてね? 僕にもよく呑み込めないんだが。老子は「仁を絶ち義を棄つ」「大道廃れて仁義あり」と言い、仁を甚だ低く見ている。「仁」ということは儒家のお得意の道具なんだが、どうして道家の遺産になったのかな?
柳夫人:それはこうなんです。孔子さんはいつも仁を説いていますが、しかし結局仁の姿は明らかにされず、人はそれを把握しかね、ああでもない、こうでもないといった形です。顔淵が仁を問うと孔子は、「一日己に克ちて礼に復すれば天下仁に帰す。仁を為すは己に由る。人に由らんや」と言い、顔淵がその細目を問うたところ、孔子の答えは仁それ自体ではなくて礼だったのです(「非礼視るなかれ、非礼聴くなかれ...」)。これじゃどうにもなりません。仲弓が仁を問うと孔子はまたもや礼のことを述べ、「門を出でては大賓を見るがごとし、民を使うには大祭に承たるごとくす......」と言いました。その「仁」という言葉の使い方を検討してみると、知とは相反するもので、静を主とし、安を主としています。だから、「仁者は静なり」「仁者は仁に安んず」「天下人に帰す」「君子は食を終うるの間も仁に違う無し」で、仁は帰すべく、違うべく、安んずべく、静にして動に非ず、そしてこの静こそは道家の本領ではありますまいか。
柳:お前のその議論は正しいよ。腹を立てるにも及ばんじゃないか。よく話せばわかる。もともと孔子は道家だったんだ。
朱:何だって?
柳:孔子は道家だと言うんだ。少なくとも道家の流儀を取り入れている。道家でなかったら人治を説くはずがない。だから僕は人治を弁護するために仁というものを持ち出さざるを得ないのだ。僕は正直のところ東洋文化のために弁護して一個の愛国者たらんとするのではない。真に東西の文化を批判するには、まず仁というものをしっかり掴まなくちゃならん。仁とは何ぞやというに、人をして人たらしむることに過ぎない。いずれの文化にせよ、人をして人たらしめ、立派に、安楽にさせるならば、それは良い文化だ。科学、哲学、宗教、発明、改良、進化などはみなその後のことだ。人生の目的は楽しさであって進化ではない。もし東西の文化を批判しようとするならば、まずこの目標をとらえなければならん。全く正直のところ、我々の礼義廉恥はいずれも外国人に及ばぬ。ただ人をして人たらしめるという点では少々取り柄がある。それもただ中国人だけが人たる道を心得ているのではなく、中国人の礼義廉恥は人に劣り、そもそも人たることからしてあまりうまく行ってはいない。だが、こちらに短所があればあちらに長所あり、儒教に短所あれば道教に長所ありだ。儒教では忌服の年月数や棺桶の寸法ばかりを問題にして、すでに墨子や荘子の腹の皮をよじらせている。そんなことがもし儒教の精神だとしたら、それこそ儒家なんか死んじまえだ。だが幸いにして儒家にはなお仁というものがある。もっとも説き方は曖昧なものだが。ともかくこの仁が結局のところ儒家の最高の理想となっているのと同じだ。しかし仁といい大同というも、要するに架空的なもので、実際において儒家の行っているのは小康でこそあれ大同ではなく、礼でこそあれ仁ではない。だから僕は儒家の儒的方面を小人儒と見なし、儒家の道家的方面をこそ君子儒と見なすのだ。事実、礼を云々する者は多く、仁を重んじる者は少ない。だから僕はあまり儒家を尊敬しないのだ。儒家の唯一の取り柄は、儒教の中に含まれた一派な道家思想だろう。孔子の偉大さは、彼が儒教を超越した道家であった点だ。
朱:君がさっき孔子は道家だと言ったのはどういうわけだ?
柳:孔子も人間としては我々と同じく、時には世俗に入らんことを重い、時には世俗を出でんことを思い、時には一奮発しようかと思い、時には筏に乗って海を渡ろうかとも思った。あの孔子様が木の筏に乗っかって東海を漂流し、波風のまにまに行方を定めずというのは、徹底した一個の道家じゃないか。孔子が筏に乗って大海を渡るのと、老子が黒牛に乗って函谷関を過ぎるのと、その間に何の相違があるのだ? 四十にして惑わず、五十にして天命を知るというのは、あれは道家じゃないか? 六十にして耳順というのは、あれは「養生」の要訣じゃないか? 七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えずとなると、天台山の道士ともなって、鶴に乗って羽化登仙ができようというものだ。もしも孔子が今日に生を享けてこの乱世の有り様を見、もしも彼が修養の完全な正真正銘の道士でなかったとしたら、果たしてその耳が順であるかどうか、少しも腹を立てずにいられうかどうか? 天命を性といい率性を道というとあるが、この「率性」とは何の意味だ? 道家思想でなくて何だろう。この「命」というのはどういう意味か、「性」というのはどういう意味か、「道」というのはどういう意味か?
朱:君のような論法だと、孔子、曾子、子思はいずれも儒家兼道家の輩となり、諸葛孔明なども道家兼儒家となるね?
柳:その通り。中国人というものは生まれながらにして一個の道家だと思うね。時に治国の経綸を発揮してしばし儒家たることはあっても、芯はやはり道家なものだから、どうにもやりきれなくなるというと小便でも舐めるし、下野して田園に帰れば林間に悠々自適する。だから中国人は、朝にある時はすべて儒家、野にある時はすべて道家だ。成功した時はすべて儒家、失敗した時はすべて道家だ。裕福な人間はみな儒家、貧乏人はみな道家だ。道家がさらに一歩進んで病膏肓に入ると、今度は仏家に変わり、貧苦が高じてしまった者は仏教徒になる。仕事に手のつく間は儒家、手をつけなくなったら道家、どうにも手がつかなくなったら坊主になる。中国人の神経は専らこの道家の原理によって調整され、交際疲れがすると林間に引き籠ってのんびりするというわけだ。さもなければ、一日中交際に疲れさせられていた日には発狂するに決まっている。それゆえ、中国の詩文のうち立派なものはいずれも道家の思想であり、すべてこれ田園林泉の楽しみを述べたものだ。もしも一日中あの下手くそな政治論を読んだり、新朝謳歌の太鼓叩きをやっていたのでは、中国民族全体が精神病院に入らねばならなくなる。この点は道家思想が中国文化に与えた賜物と言わなくちゃならん。
柳夫人:でもそれが中国、西洋の文化と何のかかわりがありましょう? あたしはやはり中国では人間一匹が犬一匹も同然で、人間はやはり西洋の国の方が人間らしく、また上品だと思います。
柳:俺はさっきお前を馬鹿にしていたが、西洋の国では人間らしいという点は俺も同然だ。こちらが西洋人をいきなり蹴倒したりしても、西洋人は地べたを転げながらお敵様などとは言わないってことも同感だ。
柳夫人:それは言うまでもなく、人権には法律の保護があるからじゃありませんか。
柳:その点も同感だ。だが一利一害で、外国人は剛毅、中国人は柔弱、外国人は進取的だが中国人は分に安んじ、外国人は動的だが中国人は静的、外国人は陽性だが中国人は陰性、外国人は火でできているが中国人は水でできている。一つ聞きたいことがある。もしお前が嫁入り前だとしたら、外国人の嫁になりたいか、中国人の嫁になりたいか?
柳夫人:もちろん中国人の嫁になりますわよ。
柳:まさに我が意を得たりだ。東洋の夫もあり西洋の夫もあるが、東洋の夫は東洋文明の結晶、西洋の夫は西洋文明の結晶だ。もし俺が結婚前だとしても、やはり中国の女を妻にはしても西洋の女を妻にしたくはない。それはなぜかというに、必ずしも飲食や住居の差異からばかりじゃない。抽象的に言えば、中国の夫は西洋の夫に劣るか否か? 中国の妻は外国の妻に劣るか否か? この点は中国と西洋の文化の決定的な標準だ。それにはその文化の生み出したところの人間を見るがいい。どうも中国人は温和で実直で勘がいいように思われるね。確かに人間というものが文化の最後の目的なのだ。
柳夫人:あたし、文化の決定的な標準はそれが人を世の中に楽しく生きさせるか否かにあると思いますわ。楽しく生きられればその文化はよく、楽しく生きられなければその文化はダメなんです。
柳:中国の陶淵明のごときは質朴に甘んずる生活をしている。中国の文化が陶淵明のごとき人を生み出したということは、中国文化がいけないということになるだろうか? 夜、赤壁に遊ぶ蘇東坡を生み出したのは、中国の文化がいけないということになるのだろうか?
朱:そんなことをプロレタリアートに聞かれると、君は落伍者と言われるよ。
柳夫人:下司な人たち! あんな受け売り専門のろくでなしの連中なんか相手になさいますなよ。あの人たちは犬の首輪をはめ、ネクタイを結び、流行小唄を歌い、欧文脈をひねくるだけのことです。陶淵明の、鶏は桑樹の顛(いただき)に鳴き菊を東籬の下に採る生活は、決して大衆的な農民生活ではなく、また赤壁の賦にある江山の清風や山中の明月は資本家階級でなければ楽しめないものと言っています。あきれた話じゃありませんか。プロレタリアートは人が菊を賞することなど求めず、ただチョコレートを食べることだけを求めています。菊の花は中国固有のものですから、あんなものを賞していたのでは落伍者ですが、チョコレートは西洋産ですから、女学生といっしょに食べれば革命的というわけです。あの人たちの魂は銅銭でできているか、でなければチョコレートでできているんでしょう。黄金、黄金、すべてこれ黄金、黄金ならずば価値なしですよ。
柳:プロレタリア作家が何だ。貧乏学者の変形じゃないか。勝手なことを言わしておくがいい。当今の中国人はあまりにも取り越し苦労で、すでに精神が変態的にできている。何か冗談めいたことからでもすぐに亡国を考える。全くロレンスのいわゆる「半熟卵」の亜流だ。そんな奴は泥溝にでも落ちて死ぬがいい。だから僕は仁を説くんだ。つまり人たるの道を説き、同じく人たるにしても、もっと健全なものになってほしいと思うんだ。
朱:仁とはどういう意味だね?
柳:仁の意味は最も難しいとされているが、しかしまた最も易しいものだ。僕の考えでは、仁とはつまり人間たることだ。だから易しい。ところで「人間」とは何であるかとなると誰にもわからない。だから難しいのだ。孔子は「天下仁に帰す」「三月仁に違わず」と言い、孟子は「仁に居り義に由る」と言ったが、何ともはや玄妙な話だ。「居る」とはどんなふうのことか? 「帰す」とはどんなふうのことか? 「違わず」とはどんなことか? 「違わない」としたらどうなるというのか? 「違った」ときはどうなるのか? これは明らかに、人情の正鵠を得た一種の境地を言ったものであって、こうした境地にいるのを「仁に居る」と言うのだ。その後、孟子はこれを惻隠、羞悪、辞譲、是非の心に分けたが、惻隠とは要するに仁愛のことであり、四つを合わせてみるとそこに広義の仁が成り立つというわけ。でなかったら、「回や、其の心三月仁に違わず、其の余は則ち日月至るのみなり」という文句の趣旨が貫かぬ。老子が軽蔑したのもやはり王莽のごとき人間の虚偽の仁義であり、人たるの道でないものであった。ギリシャ文化の理想は「達才」であり、従って人生の理想は「其の才を達し得ること」(the exercise of one's powers in their lines of excellence)としたが、中国文化の理想は「達情」(物分りのいいこと)にある。この情を達するという境地は実現の難しいものだ。なぜ実現が難しいかというに、......
柳夫人:あたしにはわかっていますわ。
柳:何がわかっている?
柳夫人:一貫することでしょう。
柳:そうだ! 人間はとかく矛盾し、チグハグなものだ。一つを抱き、一つを守り得るものだけが一貫したことになる。現代人は言わば破れ鏡みたいなもので、もともと一つの物も、この鏡に写すと姿が乱れて見える。また壊れた琴のようなもので、出てくる音はガアガアという雑音だ。琴の音を調和させようとするには、まず琴そのものが調和をもたなくてはならぬ。チグハグなものをまとまりのあるものにし、矛盾したものを調和あるものにするのが仁の世界だ。道家が真に帰り朴に返ろうとするのも一つの方法、儒家が世に応じ、人情の正鵠を得ようとするのも一つの方法で、大した差異はないのだ。
柳夫人:すると、儒道合一というわけですね。でも、あたしは心の中にまだ一つ不満があります。
柳:何だい?
柳夫人:あなたは法家のことをお忘れでした。
柳:便所の法家か? お前もなかなか強情だな。
柳夫人:あなたが儒道合一をなさるのなら、あたしは儒、道、法を合一させます。儒道の二家ではただ陰性の潤いになるだけですが、法家が加わると陽性の補いになるのです。西洋人の法家思想をもって東洋の儒道に補いをつける、そうした世の中になったら、人間生活もそれこそ有意義なものでしょう。
柳:坊さんの方はどうした?
柳夫人:坊さんは人間世界に余計なものです。俗人が坊主を生まぬとしたら、坊さんはとっくに滅びていたでしょう。もし人口が増えて困るようだったら、幾人かを坊主にしてもいいわ。たとえば人間の十本の指のうち一本が片輪になるとか、あるいは自由がきかなくなっても構わないようなものじゃありませんか。
柳氏は女房にすっかり惚れ込んで、うつむいて口づけしたまま答えがない。......それが済むと、柳夫人は急に首をもたげ、照れくさそうに朱さんの方を見た。
柳夫人:朱さんはどこへいらしたんでしょう?
朱さんはこっそり表門へ出ていた。
あくる日、朱さんから一枚の口上書が届いた。
曰く、
奥さんに柳君、昨晩は月夜に訪問仕り候ところ、ご夫婦には口論をしたり仲直りしたり、弁論に発して接吻に終わる。これいわゆる人情の正鵠を得たるものに候わずや。月下に徘徊しつつ思うに、みなこれ口のせいなり。しかるに両道両儒、一法の互いに口づけするや、その勢い平らかなる能わず、よって暇乞いをもせず辞去せる次第にて候。小生も黒生に乗りて去らんの心づもりに候。ネジ敬白。