新聞報道によれば、須磨(南京総領事)は唐有壬(外交部次長)を訪れ、北平学生運動に対して抗議の意を表したという。須磨は何も唐有壬を訪れる必要などなく、電話だけで済むことであるにもかかわらず、あえて訪問したということから、北平学生運動を重視していることを窺い知ることができる。加えて、何応欽の北上に対して須磨は抗議せず、北平学生運動に対してだけ鄭重に抗議したということからは、須磨の眼中においては、中国の軍人界よりも学生運動の方を恐れていることも知ることができる。立派なるかな須磨、三島に人無しと誰が言ったのか! 日本が欲しているのは、全国が落ち着き払った中国であり、民衆運動もなく、デモもない中国である。どうしてそのように言うのだろうか? 国権喪失の禍は眼前の塘沽協定にあり、それは何の関心もない落ち着き払った国民の間において間接的に形成されたものである。一方、全世界の列強の視線を一つに集めたヴェルサイユ条約は、落ち着き払っていない、非暴力の五四運動の中国民衆によって十分にこれを破壊することができた。ゆえに、民衆の力は燎原の火のごときものであり、中国の軍人界よりもよっぽど恐ろしいものであることを知ったのだ。さらに五・三〇運動を想起すれば、英国人をして屈服せしめるのに十分である。国民党青年運動はもって北方政府を打倒するに足る。すなわち、今日の党国・北伐の栄光の歴史もまた、民衆運動・学生運動の上に直接的に打ち立てられ、真の民衆勢力と革命軍人勢力の組み合わせによってはじめて形成されたものである。この理は先哲たる孫中山先生が知っていたものであり、日本の政治家もまた深く知るところのものである。ゆえに先哲は「民衆喚起」の四字を遺嘱の中に残し、将来の興国のための要諦とした。隣国の政治家もまた、このことを知っており、だからこそ今回の学生運動を極めて注視していた。吾が党は須磨のためにこのことを想起した。もし今回の華北独立に反対する運動が五四運動の段取りを継承し、滔々と壮大に行われていたなら、結果はどうであったか、全くもって想像もできない。もし北平の教育界が政府を擁護し、中国領土の保全を擁護するデモを行ったなら、北平の軍警は果たして銃口を向けてあえて制止しようとするだろうか? きっとしようとはしないはずだ。その場合、どうなるか? きっと軍警を使って諸大学を包囲し、デモに出られないように軟禁の方法をとることだろう。もし、五四運動のように、北大の学生が第三院で軟禁を受けることを望み、北平の各大学の授業ボイコットを引き起こし、全国のボイコット学生たちの呼応を引き起こし、全国の商会の呼応を引き起こしたとしたなら。もしそうであったなら、厄介なことになったのではないだろうか? 息も絶え絶えの瀕死の国魂が復活してくるのではないだろうか? その時になれば、たとえ中国政府が善隣政策に努めようとしても、どうしても民意に配慮せざるを得ないだろう。そして、中国政府はついにこう答えることだろう、「制止しないのではなく、実際のところ制止したくでもできないのだ。民意がこのようであり、学界と商界の総意もこのようである」と。土地の保全と行政院の完備を要求する時にあたっては、私でさえ中国当局を責めることはできない。華北運動は中国の国内問題であり、日本は干渉しづらいが、こうして局面が一転すれば、どうしてまた、居仁堂にいて数名の官吏とともに声一つ立てずに、華北の利益を奪うことができようか! 隣国の眼はこれを見ていた。国内より見れば、日本が中国に民衆運動を制止するように要求するのは、すなわち国民党に総理の遺嘱中の「民衆喚起」の四字を取り消すように要求することである。賢明な人物に不足しているわけではない、党国の先進的な者たちは、すでにこれに気づいていた。北平の学生運動として数えることができるのは、ただ葉楚傖・于右任ら党国の先進的な人物が提唱した『民吁』『民呼』のみである。二、三十年前に中国が喪失した国土は幾ばくぞ? 今日の中国が喪失した国土は幾ばくぞ? あの時は叫ぶことができて、どうして今回だけは叫ぶことができないのか? 国土がまさに失われようとしているのに、民国はただちょっとだけ声を出すことができるだけに過ぎない。もし華北が葬り去られた時に一声も叫ぶことができないとすれば、それは中国の精神力がすでに尽き果てたということであり、華北が滅びるだけにとどまらず、全中華の滅亡もまた遠くない。犬や驢馬が死を迎える時でさえ、後ろ足をバタバタさせて蹴るものであり、人間はそうではないというのか? もし今、私が一頭の犬の足を切ったとして、この犬が少しも喘ぎもせず、足をバタバタと蹴りもせず、すでにもうおしまいになっていれば、足を切ろうが切るまいが死んでおり、「落ち着き払う」ことを言う必要などないのではないか? このような中国の滅亡は、日本がこれを切ったことによる罪ではない。日本が切らなくても、また他の者が切るに違いなく、私をして日本のために、まさに中国を憎み、中国を唾棄し、むしろ生きた鶏を切るも、死んだ犬を切らない方を選ばせる。民衆運動は、病人の脈拍のようなものである。医者が言うには、病状がどうであれ、病人の脈拍を診ることが肝要である。脈拍が良ければ、症状がひどくても心配する必要はないが、脈拍が良くなければ、症状が軽くても命に関わる。北平の学生の脈拍は確かであり、中国にもまだ望みがあるということだろうか?