日本語版『林語堂全集』を目指して

土気について


 数日前、長時間本を読んで夕方になると疲れたので、町へ散歩に出た。ちょうど天気も落ち着いてそよ風が吹き、歩くのに興が乗ったので、そのまま東単牌楼を通りすぎ、それから東交民巷の東口、そして哈徳門外に出た時、はしなくも自分は、自国の思想問題に関する重大な発見をし、数年来頭の中にわだかまっていた懸案が一気に完全な解決を見て、あたかも心の重荷がおりたごとく、その楽しさはたとえようがなかった。自分はずいぶん前から、ただ一個の概念をもって中国の混沌たる思想の精神および混沌たる思想人の心理的特徴を示し、道徳観念をもって思想を圧殺しようとする人々をそれによってすべて一種類に概括しようと試みたのであったが、いかに考えてみても容易に得られず、ついに匙を投げてしばらく不問に付していたのである。時に他人を「野暮くさいペリシテ人ども」などと罵ることはあっても、どうもピタリと来ない憾みがあった。「ペリシテ人」というのは英語ならPhilistineであるが、しかし英語にも元来そうした種類の人間を表すのにピッタリした言葉はないのである。Philistine(俗物)およびPhilistinism(下司根性)というのはアーノルドの言い出したことであるが、アーノルド氏の文章の力によって、現在では普通に用いられるようになった。しかし、イギリス人も実はあまりこの言葉を使わない。自分が「ペリシテ人」であるとしたら、そうした名称を用いる必要はないからである。土臭いことの多い中国で土臭さ(「土気」)を問題にする人のないのも、あるいは同じことかも知れぬ。アーノルド氏のいわゆる「ペリシテ人」とは、およそ開化的、維新的勢力に対抗する者、なかんずく家を持ち財産を持ち、この世には何の不自由もなく、社会には欠陥もないから改革の必要はないと思っている人間のことである。おそらく彼らの宗教は唯一の正教であり天経地義であろうし、彼らの民族は神の選民であり、彼らの国家は唯一の礼義の邦であって、もしこの社会的習慣、この伝統的制度、この道徳観念、この腐敗した政治を改革しようなどという者があっても、彼らには納得のいくはずがなく、嘲笑し、狼狽し、憤慨するだけであろう。ペリシテ人というのは、元来アーノルド氏がドイツ語のPhilisterを取り入れたもので、ドイツの大学生たちは町の平民のことをPhilisterと呼ぶ。田舎者の意味である。英語では他に言葉がない。いわゆるbourgeois(ブルジョア)などもフランス語から借用したものである。ブルジョアとは少しばかりの財産を持つ市民の総称であるが、普通社会の習慣や伝統的観念は従来すべてこれらの者によって維持されていた。英語でbourgeoisという言葉を用いているのなら、我々もそれを借用して構わぬわけではあるが、しかし発音がどうも具合が悪い。アーノルド氏がハイネを論じた文の中にも言っているが、フランス語のepicierという言葉などは同じような意味を表して結構である。epicierというのは「雑貨屋」の意味であるが、たぶん雑貨屋をやるような人間は至って実直で保守的であり、人が新しい観念を解し得ない時には彼も同様に解し得ないけれども、もし人が彼の宗教を攻撃したりすると、彼は懸命になって道のために戦い、果ては道のために死ぬことさえもある。中国語ではこうした人間の心理と精神を十分に示すことはできないと自分は思っていた。ところが先日、哈徳門外で「土気」(土臭さ)という言葉を思いつき、これでもまだ十分適切ではないけれども、これはこれなりに面白いと思った。


 「土気」(土臭さ)という言葉は自分の郷里では田舎者の挙動や感じを形容したもので、「ペリシテ人」とは少々意味が違っている。他の方言ではどういうふうに使っているか知らないが、しかし北京に住んでいる人には大抵みなこの「土」の字の深い意味が感じられることであろう。昔の人は「土」を「金木水火」と並べて「五行」としたが、これもあるいは中国の文化が黄河流域に始まったことによるのかもしれない。黄河流域の北方各省に行ったことのない人たちは「土」がどういうものであるかは合点いきかねる。彼らには「土」が人生にとって重要であり、密接な関係をもつことは決して理解されない。我々が土に生まれ、土に育ち、土に食を得、土に寝、土に呼吸し、思想も情緒もみな土に関係があり、全く寸時も離れられない有り様であるということが彼らにはわからないのである。子供の時分、本を読むのに字引をひくと、「霾」の字の説明に「風が吹いて土が降る」とあったが、「土が降る」とはどういうことなのか全く想像もできなかった。それが北に来て見てはじめて、昔の人の言う通りだとわかった。そして自分は、昔は全国がだいたい今日の北京と同じようであったに違いない、だから「霾」の字を使う必要があり、また「五行」の哲学が生まれたのだとも思ってみた。西洋哲学史の中に、ギリシアの哲学者はこの物質世界の根源をあるいは水、あるいは火と考えたとあったが、しかし「土」を取り入れたものはなかったように思う(この点に関しては哲学史家の教示を仰ぎたい。私の哲学史の知識はあまり当てにならない)。ヘブライの思想になると違っている。ヘブライの宗教では、人間は神様が「土」から作ったものと考えているが、そもそもヘブライの文化はメソポタミアの平原、すなわちユーフラテス河の流域に起こったものであるから、それももっとものことである。今日、アラビア沙漠の砂のことを考えてもわかるであろう。キリスト教でも、人間は「土」から作られ、かつ死後は土に帰るものだと信じているが、これはヘブライ思想の影響である。――北京人、なかんずく哈徳門外に住んでいる人にはその辺の道理がよく呑み込めることであろう。子供の時分に教会で説教を聞き、一人の宣教師が「人間は土で作られ、死んだら土に返る」ことの証拠を実に面白く示したのを憶えている。その人は言った、「嘘だと思ったら、お前の家の人の寝ている蓆(むしろ)の下をめくってみろ、みんな土じゃないか」と(たぶん人間の成れの果てであろう?)。


 以上は、「土気(土臭さ)という言葉が北京では特に当てはまることを述べたのである。次にまた自分があの日、哈徳門外で感じたこと、および「土気」という言葉を発見した動機を述べよう。それは何でもないことであるが、しかし述べるだけの値打ちがある。およそ欧米に留学して帰ったばかりの人、殊に高尚な理想を持った人は、ぜひとも哈徳門外に行ってみて、この「土気」の意味とその偉大な迫力とを体得しなくてはならない。そうすれば外国にいたころ考えついた一切の理想的な計画にいささか戒心を加え、中国で仕事をすることをあまり無造作には考えなくなるであろう。世間ではよくアメリカ留学帰りの者が北京の悪い空気のために軟化させられ、悪い社会にだんだんと吸い込まれて、ついに当初の理想はすべて朝霧のごとく消え失せ、結局「あの連中の一人」になってしまうという。しかし、いわゆる「旧社会の悪勢力」や、「老大国の沈滞陰鬱の姿」などを証明するのはあまり都合がよくない。やはり北京の「土気(土のにおい)を問題にした方がよかろう。土のにおいならば体得することが至って容易である。自分はあの日、哈徳門を通る前に東交民巷のあたりを通り、フランス・ベーカリーの外でちょっと立ち止まったりしたが、一たび哈徳門を出ると、たちまち千年も昔に返ったように感じた。フランス・ベーカリーのケーキも、東交民巷の塵一つない街路も、華麗な建物も、すべて自分とは幾千里を隔てたようであった。あたりを見回せば、炭団を作っている者、大きな甕を売る者、それから街頭理髪屋もある。これは南方では現在あまり見かけないものであり、旧勢力の力が恐ろしく根強いことをつくづく感じさせられる。さらに進めば道の両側の斜面にありとあらゆる露店が出ている。人相見、八卦見、歌本売り、古靴屋、古道具屋、金物、金輪屋、それから牛筋を売る者(銅銭二枚で大きな牛筋が一切れ買える)、羊肉屋のにおい、焼餅のにおい、それに道路の土に染み込んだ馬糞や馬の小便のにおいが入り混じって鼻を打ち、一種特別な懐かしみのある北京の真の土のにおいを感じさせられる。この時、自分はもうこの環境と完全に同化していることをほのかに感じる。玄妙な言葉を使えば、宇宙と調和し自然と合一しているとでも言おうか。ちょうどその時、ふと一しきり風が吹いてきて、牛筋や古靴や古道具や歌本の店から通行人のすべてを濛々たる埃の中に捲き込み、その埃に混じっている馬糞馬尿のにおいがあたり一杯になっていきなり人の鼻に飛び込んできた。そこで自分は急に一種の悟りを開いたのである。いわゆる「老大国の陰鬱沈滞の風」とは、実はこの土のにおいに他ならぬのであると。いずれの国の博士が帰ってきても、この土のにおいの中に捲き込まれたならば、二度ともう理想などは考えなくなるであろう。中でも我々のように、いつもピカピカした常雇いの車に乗る中流階級以上の者は、こうした土臭さに出会ったが最後、二度と革命事業などの夢想は抱かなくなるであろう。こうした悟りは、あの一陣の風と、鼻につくにおいのする埃に捲き込まれたことによって得たものである(これによっても、およそ人間の悟りというものはすべて何か小さな事柄、何か直接の経験によるものであって、学理によって得られるものではないことが証明される。パウロがキリスト教に帰依したのは、彼がダマスコへ行く途中、暑さにあてられたためである。ルソーが社会の起源を明らかにしたのも、ある道ばたの木の陰においてであって、暑さあたりでなければ寒さあたり、要するに陰陽が和を失して寒と熱の調節がうまくいかなかったせいである)。


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