華北の密輸問題は、すでに中国外交史上いまだかつてない新式の侵略となっている。その方法の奇怪さと態度の気弱さは、すでに一切の古今東西の隣国の正常な道を外れており、両国がまさに「親善」「善隣」「国交締結」を大いに語る時期になったなどということはあり得ないことである。嗚呼、奇妙なるかな、「国交」の締結がこのようなやり方であるとは、思いもよらなかった! 一言で言えば、一国の武力をもって法を犯す手段を使って隣国の法律を破壊するものであり、字林西報(North China Daily News)は早くからすでに、大国がとるべき態度ではないと非難していた。もう一つ昔話を付言すれば、もし大アジア主義が大陸浪人の手口の基礎の上に築かれるなら、最後には必ずや失敗するであろう。日本は近来、天の怒りに触れ人の恨みを買っており、全世界の同情を失った。この点から、日本の過去の偉大さはすでにこの種の汚点を受けており、かの国の人士の中にはこれに心を痛めている者がいる。他人のことは構わないとして、我々自身はどうであろうか。私はこのことに対する全国の大新聞の反応を注視しているところだが、それは医師が病人の脈拍を注視しているようなものである。この点において、新聞の編集にせよ、社説の気迫にせよ、いずれも私を失望させるものであり、脈拍は案の定、悪いようようである。このような国家の命脈の瀬戸際に遭遇しても、口実を設けて国交を保ち、口を閉ざして無言を通している場合だろうか? 真実を述べて隣国の誤りを是正させることさえ、新聞社は門を閉ざして行おうとはしないというのだろうか? 上海の外字新聞は鳴り物入りで吹聴し、写真も掲載しているが、中文新聞には有力な評論や特別記事がないばかりか、あちらに記事が掲載されても、二、三日経ってからやっと翻訳され、第何版かの何枚目かの記事に甘んじるだけである。中央通信の税関当局がこのような重要な文献を報告するのでさえ、編集を加えずにいつも通りに「地元新聞」に転載され、騒ぎが大きくなって外国にまで伝わるようになってはじめて、第一版あるいは記事を評する資格が与えられる。まるでそれは、民智が日増しに開けていっているのに対して、輿論は日増しに廃れていくのは理に適った現状だとでも言うのだろうか? 私は三月十二日の字林西報の社説を読み、それが公論を述べる力を持っていることを知った。そこで、左のように訳出することにした。第一に、外国の一つの議論の例を知ることができ、第二に、中国新聞界の一つの模範となることができるだろう。
多田中将が中国を離れる際に示した中国の時事に対する評論は、まさにその人と同じように、剛直できっぱりとしたものであった。一面においてそれは、馮玉祥ロンドンの記者に述べた話を裏打ちするように、冀東にいわゆる密貿易はなかったこと、なぜなら、輸入品はすでに冀東当局に納税しているからだとする多田氏に対する我々の理解を助けるものである。冀東「独立政府」によって制定された税則がいかなるものであるか(この税則は多田の談話からわかるように、日本に有利なものである)を見るまでもなく、冀東当局の独断専横にして国法を無視するものであり、すでに日本の軍人代表の批准を得たものであることを我々は即座に私的することができる。日本の後押しのもと、極東の安定を図ることを口実に、中国の領土の一部がまたもや侵略されることになった。本紙は従来より、武力によって日本に抵抗する論調を排斥してきたが、それは、このような政策はこの国の庶民の苦痛を増やすだけだからである。しかしながら、もし馮玉祥があまりのことに仕方なく、どうしても抵抗したいのであれば、そうなった事情には十分に許すべき点があると言えよう。南京政府は、中日協力の条件に対する日本側の見解を明言するように、たびたび日本に要求しているが、得られた回答は、曖昧模糊としていつでも随意に伸縮可能「三点」のみであった。同時に、華北は関東軍の武力による誘発のもと、統治権の簒奪が日増しに進行している。塘沽協定を引用しつつ、何条何項に基づくかの説明もないままに、中国税関行政の統一した職権行使を破壊することによって、いわゆる「独立」運動の発展にとって大いに好都合な扉を開くこととなった。早くより、本紙社説はすでに、華北中国当局が置かれている地位は、まさに一羽の鳥が毒蛇の催眠を受けているようなものである(実際のところ、これは決して華北に限ったことではない)と指摘してきた。鳥が動かない限り、毒蛇はただ向こう側で舌なめずりをして誤魔化すだけに過ぎないが、一たび鳥が動けば、あるいは逃げようとしたり、反抗してきたりすれば、蛇は鳥を一呑みにしてしまうことだろう。その時になって、小鳥がもし抵抗しようとすれば、自ずから犯した罪が深くなることは、詳しく述べるまでもないことである。馮玉祥が不注意にも言葉を滑らせて、少しでも抵抗の可能性を示せば、たちまちに「排日」の罪名を加えられてしまう。局外の人間から見た場合、日本に害を残し、同国の外交地位を辱め、人をして日本の外交官の甘言蜜語に信を置くこと困難にさせているのは、こうした行為に他ならない。市井の無頼者がこのように偉そうにふんぞり返って、一般庶民を耐えるに耐えられないほどにいじめておいて、その後に胸を張って去って行ったなら、間違いなく通りの人の注目を浴びることだろう。いわゆる豪傑は同じではないはずだ! 一回だけなら僥倖で免れるかもしれないが、将来必ず天誅が下るであろう。
多田はまた現在、南京政府はただ税則を低減しさえすれば、密輸問題は自ずから解決できると言っているが、これはまさに「挽き肉を食べればいいじゃないか」(光〔lucus〕が届かないことから森〔lucendo〕と呼ばれるという逆説的な筋の通らない説明)の原則に合うものである。言われてみると面白いもので、妙に彼らのこれまでの行動とやり方に合致する。まず、密輸を阻止する税関の合法的職権の行使を禁止し、続いて恥知らずな治外法権の濫用をし、日本の銃刀の保護下において、大量の密輸品が絶えず往来しており、なおかつその過失の責めを他者が受けなければならない。さらに今度は密輸商人の野蛮な了見に従って、他人の家の税則を改訂しようとしている。中国税関の独立の原則に依拠して、少しでも余計な弁解をすることは、あまりにもその価値に値しないきらいがある。米国のハル国務長官は近頃、関税引き上げは一種の弊害であると声明した。この言葉が正しいとして、あえて問いたい。もし、ある国が武力を用いて、カリフォルニア州における米国政府の職権行使を阻害することを黙認し、その後に大量の密輸貨物をサンフランシスコからアメリカ大陸に運び入れ、全国の国際貿易を完全な停滞状況に陥れた上で、条件を提示し、ワシントンに対して輸入税則を引き下げるよう求めたとしたら、ハル氏の感想はどのようなものになるだろうか? ボーラ(Borah)やピットマン(Pittmann)、さらにはアプトン・シンクレア(Upton Simclair)のような弁論の天才でさえも、このような局面を形容するのに困るだろう。多田はまだ中国に来て浅く、興味が尽きない中で、もう帰国してしまった。彼が東京にこっそり持ち帰ったものの中には、きっと一つの新奇な国際倫理論が含まれていることだろうことは、推して知るべしである。