聞くところによると、南京ではちょうど三中全会が開催されており、非常に多くの議案が可決されている。やれ憲法の起草やら、国民会議やら、民権の保障やら、軍隊の削減やら、教育の改良やら、手当たり次第に珍しいことを探し出しては、いずれにせよ議案にすれば可決されるという次第で、これは必然的なことである。三中全会と国連を比べると、中国の議案可決は非常に容易で、ジュネーヴの議案可決は非常に遅々として進まないと感じられる。両者はいずれも我が国を利するものではない。我々は決して憲法を必要としないわけではないが、憲法は光緒末年から今に至るまで、すでに十数回にわたって起草されてきた。憲法の第一の要諦は、民権の保障にあることを知るべきである。民権はどこから来るのか、それは決して黄河の水のように天上から降ってくるものではない。およそ国民による政治(民治)を語る者であれば、民権には二種類あるということをはっきりと見極めるべきである。一つ目は、選挙、複決、罷免などのように、積極的なものである。もう一つは、消極的なもので、国民の生命・財産・言論・結社・出版の自由の保障がこれにあたる。中国が今日必要としているのは、積極的な民権ではなく、消極的な民権に関わるものである。選挙・複決の権利は、民衆を官にする権利であり、その結果として、当選しなかった時には民となり、当選した後は官となるのであって、依然として吾が民には与えられていない。これに対して、国民の生命・財産・自由の権利を保障することこそは、真の民権である。この種の権利の実現が難しいのは、決して民が享受することを望まないからではなく、官が与えたくないからである。民権と官僚勢力は、暗中で正面衝突している。一般庶民が一つ多く権利を享受すれば、官僚は一つの自由を剥奪されることになる。言論が自由になれば、新聞社をいつでも任意に封鎖することができなくなる。生命の自由があれば、人民は不法逮捕されなくなる。財産が保障されれば、政府は任意に没収することができなくなる。つまり、民が自由になることは官が不自由になることであり、官が自由になることは民が不自由になることである。故に、今日の中国において、民治を真に阻害しているのは、官であって、決して民ではない。中国の人民はいつになったら民治を語るにふさわしくなるのか、と私に問う者がいた。それに私はこう答えた。いつ何時、我々の官僚が民治を語るにふさわしくなれば、一般庶民はおのずからその時に民治の資格を有するようになる、と。知県が人民を不法に逮捕し、法廷に出て訴えられる立場に身を置くことができるようになれば、人民が出廷して知県を告訴することができないことを心配するまでもなく、すぐにでも民治を実行できる。人民が官長(役人の長)を法廷に訴えることができ、勝訴の希望があれば、これは中国が民治を実行する端緒となるであろう。今日の人民が官長を告訴することができない理由は、官長に面子があるからである。中国の官僚が面子を欲しがる限り、民治は一日たりとも実現することはできない。故に、皆が面子を失うことが、法治・民治の第一の前提である。これは、三中全会の諸先生方が何としても体得しなければならない点である。官僚が面子を失わない限り、あと百回憲法を起草し直したところで、実際には無益である。不覚にも三中全会は多くの議案を可決させる中で、最も重要な一条を忘れてしまったようである。もし当時、「およそ中国の官僚は、今後誰もが面子を求めず、平等の法治を守ることを誓い、本三中全会の出席委員は、今日から一律面子を失い、決して食言しないことを自らの身をもって誓願する」という議案を可決させていたなら、憲法の起草に何倍も優ったことだろう。