日本語版『林語堂全集』を目指して

浪漫について


 朝早く起きると雨が晴れていた。雲に囚われること数日間を経て、晴れた心の赴くままに従った。窓の光が紙を照らすさまは、まるで青天や海の月のごときであり、照らされる人の顔はさらに美しい。すなわち、この心境を書き記し叙述すること、決してその朝の光に劣らず。日々家に籠って思いに耽り、一歩たりとも門を出ることができず、あたかも名教や文学上の古典主義のようなものである。その間に処する者は、また終日身を守ること玉のごとく、霜を踏み氷に臨む念を存し、戦戦兢兢としてこの世を終えて棺に入る。これは果たして人情に適った正しい者であろうか? 孔子は人が歌うのを聞いて楽しくなると、いっしょになって歌ったという。それは、孔子が時を選ばず吟じたということに他ならないが、今の儒者は時を定めても決して歌おうとはしない。大声で泣き、嘆き悲しみ、酒は量なく、音楽に夢中になると三カ月間肉の味がわからないほどであったというのは、どれもみな孔子が情感豊かであったことの証である。見ず知らずの者を弔問して、思わず涙をこぼしたこと(理由なく涙を流したことを恥じたという)に至っては、まさにルソーにも比すべき浪漫派の行いである。思うに、儒家の本領は中和を求め、喜怒哀楽を発して、しかもほどよく節度を保つことに他ならない。ところが、この「中和」の二字が問題の原因となったのだ。腐儒は中和を誤解し、専ら「節」の字や「防」の字を用いたため、孔子の自然な人生観は陰気で不気味な強制的な礼制へと一変し、さらには屁理屈をこねる虚偽の道学へと変わり、人間本性に適った楽しみはすべて喪失されてしまった。漢の儒学は陳腐化して専ら章句を習うようになり、すでに生気もなければ人間味もない。ここにおいて、第一次浪漫運動である魏晋思想が出現し、縄墨を守る儒士を褌(ふんどし)の中に棲息する虱(しらみ)に比した。古典主義と浪漫主義は人間本性の正反両面であり、いかなる民族にもある自然現象である。ゆえに、名教が天下に君臨した中国もまた、これを免れることはできなかった。儒者は自らその過ちを知らずして清談を悪罵したが、実のところ自身の俗論が引き起こした反動であり、時勢の成すところで積もり積もってもはや元に戻すことは困難なものであり、儒家が反抗してもどうすることもできないものだということを知るよしもない。これより道家思想はついに中国の浪漫思想となった。たとえば、放逸、清高(孤高)、遁世、自然鑑賞などは、いずれも浪漫主義の特色である。自然に没入することが深ければ深いほど、その礼制を憎むこともいよいよ甚だしい。阮籍らが理知を失って放縦に流れ、名教を唾棄することは、古典主義を深く憎む浪漫派の本領である。あるいは深く憎んでいるのではなく、ただ大声で笑いながら軽蔑しているようなものである。唐においても道家の風潮は絶えず、宋に至って理学が出現すると、蘇黄は理学を誹ったが、これもまた浪漫思想である。明末後にも浪漫思想が出現した。袁中郎、屠赤水、王思任から清の李笠翁、袁子才に至るまで、みな真摯に自然を崇拝し、粉飾偽善に反抗する儒者であり、今に至るまでなお読む価値のある明清の文章があるのは、少なからず彼らの生気を借りているものである。これらの人々はちょっとした自称儒者とでも言うべき者であり、また自称儒者を肯定する者たちであり、孔子の人本主義の基礎と深く関係している。ゆえに「情理に適った」範囲内において、浪漫的な反抗を容認し、人々が自然に帰ることを許すことができた。この時の屠隆の浪漫思想が最も鮮明である。彼は放縦を貴び、偉大を貴び、傲慢を貴んだが、『鴻苞』の中の「庸奇論」において最も明快に説いている。


 


 俗人は井の蛙・夏虫の狭い了見に閉じ込められ、広大無辺の観点に乏しく、ただ食べては排泄することを中庸だと考える世の中を知るのみである。少しでも常軌を外れて歩む者は「奇」として後ろ指をさされ、驚愕されるとともに疑いの目をもって畏れられる。これが凡庸な衆人が往々にして願いをかなえ、賢智の人が困難に陥る理由である。いやしくも鍛えに鍛えられた金属の性質も、鳳凰の崇高な気も持たない者で、世間一般の好みに頭を垂れない者は少なく、常態に合わせて世の疑念から免れようとする。世道、また何ぞ頼ることができようか? その関係がどうして浅薄なことがありえようか?


 


 屠公はこの中に一つの鍵を見出した。眼光が群を抜いて優れており、中国の偉大な人格であると私が考える者が、まさに賢智が困難に陥ることとなり、世間一般の好みに従うのが通常の状態である。人間を見損なっていない者であれば誰も、このような賢智を陥れるのが通常の状態だということに賛成することはないだろう。考えてもみよ、中国の四億の同胞からどうして一人のガンディーを輩出しないことがあろうか? ましてや、英国の三流・四流の政治人材を輩出しないことがあろうか? この中の関係は、赤水の言うことと同じではないだろうか? さもなければ、天が四億の同胞をすべて凡才として生んだに違いないのであって、決して礼教や世間一般の好みの罪ではないはずだ。赤水曰く:


 


 古の豪傑が今の時に遭遇したなら、ただ眉を下げ、手をこまぬいて苦境に追い込まれるだけである。そして、要職に就き富貴を享受している者は、すべて食べては排泄するだけの輩たちである。食べて排泄する以外に、少しでも変な動きがあれば、ことごとく「奇」とされる。これがどうして国家の福であろうか!


 


 その言や痛快なるかな! 私の意見としては、天が豪傑を生まないのではなく、天が豪傑を生んでも、豪傑が世の中によって拘束されているに過ぎない。世の人は奇を蔑んで凡庸を貴び、悪賢い者はその奇を粉飾して凡庸のうちに隠すことで、世間にうまく溶け込もうとする。王公閣下の歓心を買い、官職を求めようと思えば、凡庸な大衆に従って食べては排泄するしかなく、また彼らに従ってその子孫を生むことになり、国事を問う者は誰もいなくなってしまうのだ。どうして大志を抱いた英雄が男女の愛情に溺れて、おのずから結果を出すことができないなどということが本当にあろうか? 凡庸が奇を打ち負かす状態が形成されるに至っては、半人前のガンディーを得ることができないばかりか、半人前のロイド・ジョージさえ得ることはできない。一人のロシアの四流の小役人であるボロディンは黄帝の三十六世の子孫と仕事を共にするのに、ただ顧問であるだけで、職権がないにもかかわらず、黄帝の三十六世の子孫は独りボロディンに主導権を握られている。ここから、すでに中国が病膏肓に入る状態にあることを知ることができるだろう。赤水は黄泉にあってこれを知ったなら、また三嘆するに違いない。

 ゆえにわれ曰く、中国は亀を産み出すことはできるが、首の長い鹿を産み出すことができない、と。なぜなら、中国では首が長すぎることは一つの罪過であり、誰もが斧を手に待ち構えて、これを切り落とそうとするからである。ただ亀だけが、上手にその首を縮ませ、人々の歓心を買うことができる。果たして、亀は万年、鶴は千年という長寿を実現することができるわけである。これこそが中国式の養生である。

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