一 学術・思想・道徳・文章はそれぞれ別物である
昔の人が他人を褒める場合にはいつも学問、思想、道徳、文章の四つを列挙するのが定石であり、また文人と学者とを区別していたことからしても、学問と文章とを別物と見ていたことは明らかである。文人才子が経学や訓詁学に通じているとは限らず、学者碩学が文章に巧みであるとは限らない。およそ学者と文人とは天分が異なり、趣味もまた異なっている。実際的な学問を好む人はとかく文学を小手先の器用として軽蔑するし、詩人や文章家はまた才に任せて放逸となり、古典の文句をほじくったり、年がら年中、古人の糟粕をなめて文字と首っ引きをするようなことには我慢がならない。文章をもって天下に鳴り、同時にまた一世の大学者として重きをなすというようなことは、稀代の天才でなければ叶わぬことである。一人にして才・学・識・行の四つを兼備することは容易でない。古人にしても、ある人は才が勝り、ある人は学に長じ、ある人は才と学は充分でも識と行において不足するなど、歴史を見れば明らかな事実である。たとえば漢の王充のごとき人は、あの思想的に雑駁空疎な漢代としては独立不羈な批評家であり、文筆の遊戯に耽(ふけ)ることを潔しとしなかった。その古典学は、あるいは東漢時代の古典専門家に及ばなかったかもしれないが、しかしその見識には感服させられる。揚雄という人は才学ともに優れていたが、しかし見識や行動になると随分とおかしなところがある。馬融、鄭玄、何休、服虔の連中は、ただ字句にばかり拘泥し、学者とは言えるであろうが、文章においては一向に取り柄がない。司馬相如などは全く派手一方の文章家で、その性行や才気は後世の文人の一典型である。司馬遷のごとく不世出の史才と豊富な学識と、さらにまた豪放慷慨の文章と卓抜な歴史眼とを兼ね備えて、その著作の後世にまで行われるものに至っては、これはもう絶世の奇才である。後代の著作家になると大抵文人か学者かの肌合いの相違が見出され、時には互いに非難嘲笑し合っている。たとえば宋の元佑年間、道学先生の程伊川と徹底的に文人であった蘇東坡とは、一人は崇政殿の説書(御進講の控え役)、一人は翰林院の学士で、この両人が互いに嘲笑し合ったことは学者と文人の相容れなかった好例である。清初のころ大師匠であった顧亭林もまた文人たることを恥じ、一切の宴会文学を拒絶した。もちろん、一人にして同時に文章家であり学者であり得ないということは必ずしもないので、たとえば清朝の孔広森、張皋文などは、一人は駢文(対句)に長じ、一人は詞学(歌詞)を得意とし、そして二人とも文字音韻の専門学者であった。ともあれ、一人の人間の学問・思想・文章・道徳の四つは、普通には容易に見分けられるのであって、これは人物批評をする時に忘れてはならないことである。王充が学者を分けて、(一)儒生、(二)通人、(三)文人、(四)鴻儒の四つとしているのは結構なことだと思う。「儒生」というのは一つの古典に通じた人のことで、つまり現代のいわゆる専門家(specialist)である。「通人」とは、古今の文献に広く通じた人で、現代のいわゆる学者(scholar)である。「文人」とは上奏文などに巧みな人で、現代ならば文章家(writer)である。「鴻儒」とは思索によって系統的な文章をつづる人のことで、我々のいわゆる思想家(thinker)である。専門家も学識が広くなると「通人」(学者)となり、文章家も薀蓄が深くなると思想家になる。
それゆえ我々は、学術・思想・道徳・文章の四つを区別して考えるべきである。ことに修業時代には、学術を偏重して思想方面のことを疎かにするようではいけない。現在の大学教育制度では、特にこれといって思想を強調するようには見えないが、しかしお互いに学問をするにあたっては、単に学問だけをしていればよいというのではないことを知らねばならぬ。大学教育の趣旨は、学問のある人間をつくるというのでは決してない。それは四年やそこらで到底できることではないからである。我々が大学の卒業生に求めるのは、決して学問の博識な専門家たることではなく、ただ学問の方法を知り、そして学問に興味を持った人となることであり、中でも大切なのは、頭がはっきりしていて考えがよくまとまり、一般的な文化現象、文学、美術、政治、歴史に対して相当に批判的な意見を持っている人となることである。よく見かけるように、学問の方面では相当に研究をしていても、見識は固陋で思索は凝滞し、幼稚なことはお話にならず、現代の思想や政治、文学に対しては一向に心得のない者もあるが、これでは我々が読書人に対して抱く期待に背くことになる。
一 中国の文章は盛んであるが思想は貧困である
思想の方面になると、今日の中国は新陳代謝、東西交流の時代にあり、極めて蕪雑な、荒廃した状態にある。それゆえ現代の若い人たちは思想の貧困に悩み、あたかも風雨に閉ざされた夜道に踏み迷って従うところを知らぬ有様である。今日この時代には、文学、美術、思想、風俗と言わず、到るところに極度の矛盾が見出される。政治の方面では、ソヴィエト政府の樹立を主張する共産青年があるかと思うと、頑固一徹で辮髪を切ろうとしない清朝の遺臣があって、すでに辮髪を切った皇帝のことをなおも追慕している。思想方面では、国粋主義者が武術、筆先占い、孔子崇拝を提唱し、文語体を主張し、儒教を復興しようとし、『大学』の中にある「平治」ということを「平民政治」の意味であると曲解している。そうかと思えば、青年たちよりも急進的な思想を持った老闘士が声を大にして、西洋物質文明の無条件採用を主張し、口語体を主張し、孔子を祀ることを廃止しようとしている。文学方面では、上海の内幕を描写したり芸者の太鼓持ちをしたりする文芸家が今もなおあるかと思うと、雨後の筍のように生まれ出た新しい文学者たちが彼らの「震える心の糸」や「幻滅の悲哀」を訴えている。であるから現今の青年たちは、一方では西洋の機械文明を攻撃する人の声を聞き、一方ではまた欧米の文化に心酔している。一方では中国の政治風俗の腐敗を目撃し、一方ではまた東洋道徳への讃美を聴かされている。一方では女子の自由解放をはかろうと考えるが、一方また「新思想に旧道徳」の女を讃美する声を聞くと、自ずから岐路に徘徊することになり、思想の中心を失って進退に迷う結果に立ち至る。
しかし、すでに述べたように、思想と文章とは別物である。個人においてもそうであり、国家の場合もまたそうである。中国の思想は、周・秦以後、諸子の学が中絶してから久しく停滞状態に陥っており、決して最近百年間にそうなったのではないが、しかし近代になって西洋の文明と接触したために、いよいよもって思想界の貧困寂寞を暴露したのであった。しかし、思想は退化しても、文章だけはさすがに相変わらず盛んなものである。中国の精神文明はどうも浮薄な文人の姿そのままであると私は思う。真の学問は一向にできていないのに文学ばかりを弄び、文章道においてはなかなか派手を気取り、大した腕前である。東洋の文明は精神文明であり道徳文明であるなどという人があっても私は信用しないが、しかし中国人の文章の才が西洋人に勝ることは誰しも否定し得ないであろう。中国では文人が文章をよくつくるばかりでなく、武人もまた文章に長け、世間一般もまた文章については多大の時間と精力を浪費している。その証拠に、軍人が戦争を起こそうとする時には、必ずまず「和平提唱」の通電を発する。部下の者が反乱をやる時にも、まず「中央擁護」の声明を発し、統帥者が大いに兵力を用いようとする時にもまず兵力縮小会議を開くのが定石である。こうした駆け引きは西洋の軍人には真似ができないし、文章をつくろうと思っても我が国の軍人さんのように辻褄の合ったものはつくれない。だから中国の軍人はみな政治屋であり、中国の政治屋はみな文章家である。いや、軍人ばかりでなく、実業家や官僚もまた作文にかけては達者なもので、一般の社会活動もまた大部分は作文に終始し、いずれも我が儒教伝来の名分論に深く中毒している。たとえばアヘンの闇業者たちは、決まったようにアヘン毒防止会の委員になっている。明らかにアヘンの公開取引でありながら、何とかもっともらしい名称を考え出して「禁煙捐」(アヘン禁絶のための寄付金)などと称する。明らかにアヘン煙管であるものを、鑑札の上では「戒煙儀器」(禁煙のための器具)などと書いている。政府が民権を撤回し、言論を圧迫しようとする時にも、大いに民権主義を提唱するのがお決まりである。官僚が他人を無理に下野させる時にも、「外遊を申し合わせ」などという芝居をやる。こうした作文は西洋人にはできっこあるまい。またそれを読み取ることもできまい。西洋人がとかく中国政治の動向を見誤るのは、中国の古文を勉強していないからである。この点、日本の新聞記者は比較的賢い。日本人は割合に我々の文章を解し得るからである。よく考えてみると、我々の社会生活では、到るところにこういったふうのお手盛りでこじつけた作文をやっている。だから、中国のこれまでの精神文明は文人の発明であり、現在の中国は思想が衰えて文章の盛んな時代であるということができる。
三 現代は文章が衰えて思想の起こるべき時代である
しかしまた、よく考えてみると、我々も気を取り直してよさそうである。中国の思想界が盛んであったのはもちろん周・秦時代が第一で、武帝が儒教を尊重して諸子を排し、思想の統制を実施してからというものは、中国の思想家は伝統の権威と政治力の圧迫を受けてついに生気を失い、極度に乾燥沈滞してしまい、いかにもがいても孔子・孟子・荀子・董仲舒の制約を破り得なかった。今日となっては、儒家の道統はもはや世界の潮流のために押し流され、局面は沈滞単調から矛盾雑駁へと変化したが、我々はこの新しく解放と自由とを得た局面において、再び思想の復興を望まなければならぬ。二千年来の圧迫が解放されたこの際に、偉大な思想家が現れてきて、二千年来の思想界の衰えを元に戻し、先秦時代に百家九流の思想が溌剌と活動した状態を復興するように望むべきである。
先に述べた文人たちが、思慮を巡らし道理を悟った結果、詩稿などは焼き捨ててしまい、文章道から進んで思索に入ったように、中国もまた、愚にもつかぬ宴会文学的な精神生活から進んで思想という新しい生活に入り、清新で健全な、充実しきった新文化を創造するがよい。今後の中国は、文章が衰えて思想の盛んな時代に入るべきである。
四 現代批評の職務
ではその、新しく充実した文化とはどんなものであろうか。いかなる方法によって得られるのであろうか。中国をして、文章が盛んで思想の寂しい時代から一転して文章が衰え思想の盛んな時代に入らしめるには、いかなる力を頼りにすべきであろうか。それはいわゆる現代批評の職務である。古い文化は自然には消滅せず、新しい文化も自然には生まれてこない。古いものを消滅させ新しいものを生まれ来させるには、我々の批評の力に頼らなければならぬ。人も知るごとく、古代各国の文化は、幾人かの聖賢の権威の上に打ち立てられた。西洋ではアリストテレス、聖トマス・アクィナス、中国では孔子がそれである。古代の人間は早くも思想問題を聖人に任せきりにして、自らは思想の枯れしぼんだ世界に風月を友とし、酔生夢死、ただ歳月を送り迎えして死んでいくばかりであった。現代人はもはやそうした生活をすることはできず、常に人生の種々の問題の圧迫を感じている。我々は、昔の聖賢がもはや我々の指導者たり得ないことを知っている。現代の我々の思想界の先導者はただ批評家のみであって、フランスならばルナン、テーヌ、ドイツならばゲーテ、ニーチェ、ロシアならばトルストイ、イギリスならばラッセル、ショーのごとき一流の批評家である。しかし我々はまた、現代人はもはや思想界の権威に支配されるものではないことも知らねばならぬ。死んだ聖人が我々を支配し得ないばかりではなく、新しく起こったいかなる思想家といえども、思想界を統一して自家一色の局面をつくり出すことはできない。もちろん、この他に精神界の指導者もいるが、しかしそれらの指導者たちの地位は往時の聖賢には及びもつかず、彼らに信服すると否とは、すべて我々の権利によって決定するのである。すなわち取捨の権利はすべて我々思想界の平民の手中にあり、しかして我々が取捨選択の権利を行使するについての基準は、全く我々の批評能力にあるのである。
五 現代の文化は批評の文化である
したがって我々が過去の思想界の権威者の代わりとして頼むのはただ批評のみである。我々の精神界の指導者はすなわち我々の批評家である。現代の文化は批評の文化であると言ってもよく、古代において思想界の権威に信服した文化とは異なっている。この批評の文化は、今や各国の共有であり、いずれか一つの地域の一つの国の専有物ではない。西洋の文化に承服せず、西洋人のすることが必ずしも全部正しいわけではなく、中国の風俗が全部悪いわけでもないと言う人もいるが、しかし我々は西洋の風俗制度には割合に進歩の能力があり、たとえよくない風俗制度があるにしても割合に古きを捨てて革新する機会があり、改良するとなれば我が方よりも迅速であることを認めぬわけにはいかない。それは西洋の文明が批評の文明だからである。たとえば西洋の婦人の入浴服装を見ても、スカートがズボンとなり、さらにまた上衣とズボンとをいっしょにしたものになっているが、こうした服装が礼に適っているか否かは論外として、主たる相違点は、西洋人にはこうした改良進歩の自由があるということである。反対者にせよ支持者にせよ、共に批評の理論に基づいて社会の輿論に訴えることができる。これは批評的でない文化の国においてはあり得ないことである。こうした変更がよいことか悪いことかは別問題として、少なくとも新しい理想が充分な実現の機会を与えられているわけである。これは言うまでもなく、批評のない、寛容性のない社会に比べれば得である。仮に我々が、人類の文化はすでに成人期に達し、人類にはすでに相当に自決能力があり、聖賢の教えをもって礼儀風俗を制定するには及ばないことを認めるならば、こうした批評的な文化こそは最も健全な、最も希望のある文化たることはもちろんである。婚礼や葬式などにしても、中国式のそれと西洋式のそれとを比較してみると、西洋の方が文明的のようである。中国の婚礼は新夫婦が刑の宣告を受ける日のようなものであり、中国の葬式もまた、楽隊ではやし立てたり親類縁者がたらふく食ったりする宴会の日であるかのごとく、ただしきたりを守るというだけで、哀悼の本意からは遠ざかってしまっている。しかし断っておくが、これは決して西洋人が文明で中国人が馬鹿だからではなく、西洋文化の中には真の批評精神があり、意味のない、だらけた、矛盾した礼儀風俗は次々に改良されてきているからである。これはただ比較的手近な例を一、二挙げたまでであるが、さらにこれを西洋の社会、政治、宗教、経済制度、結婚制度あるいは文学思想などに及ぼしてみると、たとえ不良の点が多々あるにせよ、社会と大衆の批評によって漸次改革され、漸次進化しており、昔流にすがりついている東洋固有の文明が、思想と批評を自由に運用して発展させることをしていないのと比較すれば、全然違っていることはもちろんである。さればこそ我々は、現代の文化は批評の文化であるというのである。
六 批評とは対象の正しい認識である
批評が現代文明の唯一の推進力というような神聖な職務を持つものであるからには、我々はさらに批評の実体を検討してみなくてはならぬ。マシュー・アーノルドはかつて、「批評とは対象の真相を正しく認識することである」(Criticism is the effort to see the object as in itself it really is)と言った。すなわち、批評とは学問的に冷静な態度をもって、我々の文学思想、生活動作、風俗礼儀、および一切の社会事象を批判することである。これはもちろん、生易しいことではなく、世間で言う共鳴や排撃とは全く別物である。我々は対象の真相を正しく認識しなくてはならぬが、しかし我々の一切の想念は多少とも俗念に曇らされており、多少とも輿論に掣肘されているものである。もしも批評が俗見を脱し得ないならば、真に自由な批評はあり得ない。ゲーテも言っているように、「行うは易く、思うは難し」である。真の思想家としての見識を有する者は、単に科学者の公平沈着さばかりでなく、探検家のごとき迫力と勇気をも持たなければならぬ。こうした精神的な勇気は、武力的な果断よりも難しいことであって、人がその既成概念を捨てて高邁誠実な心境に達することは新大陸の発見以上に困難である。中でも困難なのは、自分自身に対する批判であろう。多民族を蔑視し自分の国を褒めるのは人情の常であるが、しかし真の批評家はそんなことを顧慮しない。ハイネも言っている、「イギリス人は真理を愛することその妻のごとく、フランス人は真理を愛すること恋人のごとく、ドイツ人は真理を愛することその祖母のごとし」と。現代の世界においては、真理はなお恋人の立場にあることが多いと思うが、人間がもし恋人を愛するとなると、家のお袋の言うことなどには構っていられないように、恋人を愛する気持ちで真理を愛しないならば、真の批評家とは言われない。真理は嫉妬の女神であるから、家庭に入って第二夫人の地位に甘んじ、正妻に仕えるということはしないからである。自分自身を批評するということこそ、知識人と田舎者との相違であるが、これは教育ある人士にとっても最も困難な修養であることを知らねばならぬ。我々はバートランド・ラッセルが中国の文化を礼賛するのを聞くとみな喜ぶが、ロドニー・ギルバートが中国を罵倒するのを聞くと誰もがみな嫌な顔をする。ラッセルはなぜまた西洋の文化を非難して東洋の文明を礼賛するのだろうかと不思議がる人もいるが、仮にラッセルが中国に生まれていたとしたら、東洋の文化を最も大胆に、最も徹底的に攻撃したことであろう。ロドニー・ギルバートが中国に生まれていたら、これまた西洋文明を勝手に貶しつける国粋主義者に過ぎなかったであろう。してみれば人間は、教育の有無や学問の程度などはどうでもよく、ただラッセルであるかギルバートであるかが問題なのであって、その他はどうでもよいのである。
ところで、思想的批評と実際の行動は別物であり、両者の範囲は異なっているから、その範囲を明白に区切っておかないと批評が転落して実際行動の奴隷となる。たとえば、朱兆莘、施肇基の両氏がジェネヴァの国際連盟で中国のために宣伝をし、アヘンは中国ではもう十年も前から禁絶されていると言ったが、ああした愛国的な言葉は、まことに要領のよいのに感服させられるけれども、しかし批評の世界においては、この種の不誠実は何より大きな罪悪とされる。さもないと、批評もまた昔の作文主義と同じように、思想たるを失うからである。今もなおしばしば新聞紙上で孔子の人柄を議論する者があり、俗物どもや学者たちの非常な不満を買い、このころの若い者は暴慢無礼で、ことさらに古人に反対し、聖人の悪口を言うと思われている。しかし、孔子の人柄がどうであったかは、今もなお充分には判明していない。我々はただ孔子を聖人と崇めるだけで、孔子の人柄を明らかにはしていないのであるが、その書を読めどもその人を知らずというのでは、批評などは思いもよらぬことである。中国が二千年来思想の沈滞したゆえんは、真に自由な批評的精神がなく、ただ作文ばかりをやっていたからである。こうした作文主義は、批評的精神とは根本的に相反するものである。
試みに一例を挙げてみよう。崔東壁などは清代を通じて最も純粋な学者の一人であろうが、その『考信録』はすこぶる慎重綿密で史実を論断する科学的方法に富んでいるけれども、しかし彼の『洙泗考信録』を見るに、一たび聖人のことに関することとなると、たちまちにして批評的な建前を失って、道統の守護者に成り変わってしまっている。「孔子が周に行って老子に罵られた」という説を彼が考証したのを見ると、批評家としての厳正な態度を失って、儒家の一味になりきっていることがよくわかる。崔は言う、
「ああ異端を以て吾が道を攻むるは、勝つか勝たざるか、なお未だ知らざるなり。吾が儒を以て自ら吾が道を攻むる、その勢い遂に必ず勝たざることなし。怪しむなかれ、異端の日に熾(さか)んにして、聖学の日に微(おとろ)うるを。」
これではまるで崔氏が孔子の店の番頭になって拳に息を吹っかけ、異端者と一喧嘩して手柄を立てようという態度であって、我々のいわゆる「対象を正しく認識した」批評家にはなっていないのである。また彼は、晏嬰が斉の景公の孔子を罵るのを諌めたという説を考証し、張子厚がこの説を信じているのが不服でならず、これまた同様の党派根性を示している。
「されば此の文は戦国以後墨子の徒の偽撰して以て吾が儒を攻むる所のものにして、晏子の倹を以てことさら之に託したり。而して晏子を撰したる者がまた従いて妄りに之を採りしのみ。彼の司馬遷は固より怪しむに足らざるも、子厚が道学を為すと号して亦之を信ぜるは何ぞや。」
崔氏は張子厚に対して全くカンカンに怒っている。「お互いに儒家の仲間なら助け合うのが当然じゃないか。我々一派を非難する者ども、たとえば司馬遷などが孔子の言葉を引用するのはまだよいとして、子厚、君も儒家の端くれなのにあんな話を信用するのか?」――こうした態度では真の批評などはあり得ず、せいぜい自己を欺き他人をも欺く作文に堕するくらいが落ちである。ついでにもう一つ例を挙げて崔氏の考証ぶりの大体を示し、同時に真の批評と作文主義の相違を明らかにしよう。「孔子世家」に、「孔子要絰(ようてつ)するとき(服喪中)、季子、士を享し(饗応し)、孔子往くに与(あずか)る。陽虎、絀(しりぞ)けて曰く、季氏、士を享(饗)す、敢えて子を享(饗)するに非ざるなりと。孔子、是に由りて退く」――つまり、『家語』の記事は、陽虎が孔子を弔問し、士を饗応する催しのことを告げたところ孔子は、自分は服喪中だけれどもいっしょに行こうと思う、と言って、陽虎を非難しない意味を示したのである。元々、大事な忌服の時に宴会に行くのは礼法違反ではあるが、しかし人間の行為というものは一挙一動ことごとく礼に適うというわけにはいかない。孔子だとて普通の人間であるから人情に変わりはないはずで、そうした点は現代の批評家から見ればないとも限らないことである。ところが崔氏はそういう公平な態度をもととせず、まず孔子を言行ともに一点の非の打ちどころのない聖人であると決めつけてかかり、こんなことを言っている。
「虎、弔して士を享(饗)するを言うは、即ち失礼の小なるもののみ。衰絰(服喪)ししかも往くは失礼大なり。......且つ虎果たして礼を失せば、これを非とせざるさえ足るに、なんぞ為して更に之より甚だしくする、これ諂いなり。往かざるに偽わりて往かんと欲すと告ぐるは、これ欺くなり。聖人は必ずかくの如くならず。」