神を食う討論
(An English Dayton. By H.N. Brailsford.
The New Republic,Nov.23,1927)
一昨年、米国ではテデーン案が、去年、英国ではバーンズ主教案が起きた。テデーン案は、現代の初等学校で進化論学説を教えるべきか否かについて論争したものであり、英国を揺り動かした今回の論争は、神を食う問題である。両者はともに科学の急進派と古い宗教観念との衝突を示しているが、そこからは両国の異なる国民性を見て取ることができる。ブレイルスフォード氏は自身の儀礼を好み偽善を尊び、適当にお茶を濁すところに強い不満を抱いており、そのために、米国の雑誌に投稿し、これらの事案の顛末を仔細に述べた。この中から、英国紳士たちの思考と英国文化の内容を知ることができるだろう。文末の二段落は特に出色であり、著者のブレイルスフォード氏は英国有数の評論家であり、アーサー・ランサムと双璧をなす。著書に『Russian Impressions』『Across the Border』などがある。――訳者記
今回、ともに英語を操る英米両国は、伝統的信仰が打撃を受けた際に、異なる態度を示した。これは類型化を研究する者にとって格好のテーマである。我々は英国で一つの重大な局面に遭遇したばかりだが、このことは人々に、より騒々しかった米国のあの「テデーン案」を想起させる。バーンズ主教(Bishop Barnes)が引き起こした波がもたらした想念は誤りであると私は考えているが、しかし、当時のこの論争活気あるものであり、激しいものあったのは確かである。私が思うに、比べるならば、あなた方(米国人)の点数は我々よりも高いと言えるだろう。もし私の言葉が媚びへつらいであるならば、さらにあなた方に嫌われることだろう。表面上から見れば、我々はあなた方よりも強いように思われる。あなた方よりもどれほど寛大で、忍耐強いか知れない。大西洋のこちら側が討論するものは、そんなに幼稚な問題ではない。この方面では、我々はあなた方よりも三十年進歩している。のみならず、我々の論争はあなた方がニュースで報じたような喧騒さはない。我々の礼儀は分をわきまえたものであり、我々の気性もまた冷静なものである。
だが、このいくつかの取り柄も一つの重大な過失には敵わない。確かにあなた方は忍耐力のない天性の衝動を持ち、笑うべき宣伝のペテンを有している。しかし、結局のところ、あなた方は問題を綺麗さっぱりととことんまで討論し尽くすのであり、正式で精緻な弁論が行われる。法廷においても、新聞紙上においても、そして大衆の集会においても、あなた方は決して問題の核心を回避したりなどしない。米国の民衆は、進化論およびダーウィン主義の解釈の詳細な討論について聴いたことがある。一方、我々は問題の核心を放り出した。我々はバーンズ主教の軽率さに対する反対、抗議を目の当たりにする。礼拝堂においても、新聞紙上においても、我々はバーンズ主教の礼儀や方法を巡って、激烈な論争を繰り広げた。また我々は、アングリカン・チャーチ(英国国教会)の包容的な態度についても論じた。それは左手に理知的な人間を抱え、右手にカトリック教徒を抱えることができる。我々の計算では、彼らはその懐の中に抱かれながら
互いに問題なく安んずることができるはずだ。我々は、我々はダーウィン主義について討論してはならないと言っている。これは誰もが認めていることである。しかし、問題の核心は、キリストの聖餐の起源および性質に関して人類学が発明した新しい意義(すなわち、野人の神を食う風俗を起源とする)であり、我々は完全に放り出してしまった。カトリック教徒はバーンズ主教に口出しお断りを言い渡した。それに対して、バーンズ主教は引き続き良心に従って発言すると言った。カンタベリー大主教は一通の書簡を記して婉曲的に彼を諷刺し、以後はもう少し上品に、優しく話すように促した。このようにして、論争は終了した。始めから終わりに至るまで、誰一人として、聖餐の意味に関する人類学の発明について討論した者はなく、また討論したいと欲した者はいなかった。管見では、たった一つの社説が言及しただけで、それも二言に過ぎない。おそらく、私一人だけが彼について討論した。ただし、それは社会主義党の新聞の記名発表であり、なおかつこの新聞はこれは私「一人の個人的な」見解であることを鄭重に声明している。この寂しい原因は何であろうか。我々は知らないのだろうか? それとも、驚いているのだろうか? あるいは、関わりたくないのだろうか? 要するに、我々は公衆の面前で自身の信仰および懐疑を誠実に討論しようとしないのだ。私が見るに、これは我々の名誉を損なわせている。誠意をもってこれを否認する者だけが、我々から相応の敬慕を受けるだろう。しかし、一人の国民としては、信じもしなければ、否認することもなく、ただ曖昧模糊としてごまかしていくならば、おそらくその理知の肉体は痩せ細っていくいくばかりとなろう!
この窒息死させられた争論の事実は、すぐに明らかになった。バーンズ博士の昇格はすこぶる速い。彼は仕事がよくでき、文章もよく、力強い。彼は一人の数学者であり、その業績は王立学会会員に選ばれるほどである。彼はロンドン・テンプル協会の長(Master of the Temple この教会は多くの法曹が学んだ教室である)を務め、大戦時に環境に迫られて、たとえ表面上は幾人かが感情的な側面から、なお英国国教に対して忠誠心を保持しているとはいえ、科学と近代人の人生観がすでに読書人の信仰を動揺させていることを悟った。そこで、彼は一心不乱に科学の眼で新たに教義を解釈しようとした。マクドナルド(Ramsay MacDonald)が首相であった時、彼を先進的な地区であるバーミンガム主教(Bishop of Birmingham)に昇格させた。前任の主教は温和なコア(Charles Core)であり、社会問題に注目するとともに高教会派(High Church)の道学を信仰した(訳者注:英国国教は高低の二会派に分かれる。高は儀式、伝統を重視し、教会の権威を保つ。その道学とカトリック教に近い。低はその反対である)。バーンズ博士が就任した後も、引き続き大胆な布教を行い、依然と変わらずざっくばらんに話すことを好んだ。彼はその「手段」によって有名になったわけではなかったが、多くの人々は社会党の首相の選任者に対して意見があった。彼は講演の中で何度もダーウィン主義を闡明した。これらの講演はのちに「猿講演」と綽名された。彼は人類学の知識に基づいて変質説の始原を解釈した(doctrine of transubstantiationとは、最後の晩餐における葡萄酒とパンの本質がキリストの血肉に変わることをいう)。彼は極端なカトリック教徒たちに対し、彼らがインドの偶像崇拝者と大きな差がないことを告げた(なぜなら、一般の人はカトリック教徒が信じるところと、本質変化説との違いを見破ることはできないからだ)。
彼の地区内の英国カトリック教徒は自ずから憤慨して反対した。彼らのいわゆる「恥辱」はついに彼らの党派の関心を引き寄せ、教会発信の評論を惹起した。だが、バーンズ主教にも彼の信徒と崇拝者いるため、ロンドンに招かれて、まずはウェストミンスター寺院で、次にセント・ポール寺院で道を説いた。前者において彼が語ったものは、いつもと同じように激烈なものであったため、何人かのカトリック教徒はあらかじめセント・ポール寺院で集団抗議を行った。バーンズ博士が講壇に昇るやいなや、座っていた一人のカトリック聖職者のブロック・ウェブスター(Canon Bullock Webster)は上着を捨て置き、闊歩して前に進んだ。聖職者の礼服を着ており、周囲には屈強な聴衆が護衛を務めていた。そこで、この聖職者は長篇の抗議書を読み上げた。読み終えた後に礼拝堂を退出し、後に続いたのは二百(一説で五百)人の聴衆だった――これらの人々は隔てたもう一つの礼拝堂に行き、聖餐式を行った。この抗議書が言うには、バーンズ博士に国の教会で道とを説かせる「神を侮り、善人を辱めるもの」であり、バーンズ博士を「邪教を伝え、罪を説いた」ことで審判に付し、「神の教会から追い出すべき」であるというのだ。
問題が起きた後、この怒りに震えた聖職者は記者に対して、彼は決してバーンズ主教の進化論に関する意見に反対しているわけではないと説明した。これについては、彼は全く嫌っていない。彼は単に「聖餐に対する攻撃」に反対しているだけなのだ。この記事は面白い。なぜならここから我々は、この聖職者は近代の見識を備えておらず、また知力を誇りともしないことがわかるからだ。事実上(教会が報じた評論を見る限り)、高教会派は進化論の最も激烈な思想に反対していない。教会の中には、なおダーウィン主義を忌諱する一部の人々がいるが、それは間違いなく「国立教」(Established Church)以外のあまり名を知られていない反対派の宗派であり、さもなければ「低教会派」(Low Church 訳者注:英国国教の中で儀式、繁文縟礼を重んじない者たち)である。この「低教会派」は近年、勢力および信徒が次第に減少している。今日のいわゆる「高教会派」(当然ながら、高低の程度は多くの種類に分かれる)が最も流行している宗派である。「寛教」(Broad Church)もまた、幾人かの著名人によってその生命を伸ばしてきたが、やはり「高教」の熱心さと組織には及ばない。
高教会派のこのような態度は容易にわかる。高教会派は聖書を護身符とはしていない。科学によってモーセの神話が陳腐化することを感じ取る時、彼らは聖書の神の感応を信じる(あるいはそれに別の解釈を与える)。このように聖書を放棄しても、高教会派は気分を害しない。なぜなら、彼らが至宝として奉じているものはまだ保たれているからだ。彼らはまた、神が毎日、聖餐の秘蹟によって自己を顕示しているとは信じていない。この教義の大半は教会の伝統的な説明に依拠しており、聖書に依拠しているわけではない。ゆえに、ダーウィン氏に対しても微笑みかけることができる。ダーウィンの攻撃を受けて最も重傷だったのは高教会派やカトリックではなく、低教会派やプロテスタントである。高教会派にとってもっと危険でよく知られた仇敵はフレイザー氏(Sir James Fraser 訳者注:『金枝篇』(Golden Bough)の作者、著名な人類学者、未開民族の迷信を収集して比較研究を行った)である。だから、儀礼儀式を信じるこの我らが聖職者が抗議を行ったのは、聖餐を救うためであって、聖書を救うためではない。まるで、かつてスペインの勇士が、イエスが処女から誕生したという「道」を守るために決闘したように、我らがブロック・ウェブスター先生もまた人と口論し、真神降臨(real presence)という「道」を守ろうとした。
今回の騒動以後、争論は少しも決着していない。Dean Inge(セントポール寺院の一人の聖職者)はあの聖職者を痛罵する短文を発表した。バーンズ博士もまた常態を回復し、再び攻勢に出た。カンタベリー大主教(Archbishop of Canterbury)へ宛てた公開書簡の中で、彼は再び人類学に依拠することを明らかにし、改めて「真神降臨」の道理を攻撃した。カンタベリー大主教の返信も、ある意味では傑作と言えるものであった。その書簡はあの聖職者をいくらか責め、バーンズ主教も責めた。やや冗長ではあるが、語気は温和であった。彼は直接に言わず、ただ暗黙裡に、今となってはもはや進化論をあえて討論する必要はなく、これはすでに人々が信じていることであることを示すだけである。彼も物質変化説を否認するが、しかし、我慢できると彼は主張する。人類学については一言たりとも言及しなかった。このような老練で見識豊かな一通の書簡によって、この危険な争論はついに雲散霧消した。バーンズ博士の礼儀を除いて、もはや何も論じるべきものはなくなった。弁護しようとする者は誰もいない。なぜなら、温和な文章という礼儀は決してバーンズ氏の長所ではないからだ。
これは何たる英国式、何たる「聖人君子」の様式であろうか! respectable(社会的に尊敬された)人々の結論は「誰が何を言っても構わない、ただ声が静かで、語気が上品でありさえすればよい」というものだ。もし声高に叫んだり、口調が礼儀を好む者の限度を超えたりすれば、邪説、異端扱いである! バーンズ氏は燃え尽きた灰を再び燃やすべく、再び書簡をしたため、祝福した後の酒とパンを顕微鏡と化学の検査を加え、神の肉、神の血に変化したのかどうかを判定すべきだと、改めて説いた。しかし、そんな彼でさえも、もはや再び人類学に言及することはできなくなった。反響は一切なく、騒動は静まり、世界は平穏になった。邪説を罪に問う審判も、もう必要がなくなった。主教はやはり主教であり、聖職者はやはり聖職者であり、猿講演はやはり市場に流通し、繕われた聖餐はなお広く普及している――英国は依然としてやはり英国である。
要するに、唯一重要な問題を除いて、すべての問題は解決されたのだ。比較解剖学が天地創造の神話に対して新しい説明を与えたように、比較人類学はすでに真神降臨の聖餐に対して新しい解釈を与えている。ダーウィンが人類の起源を明らかにしたように、フレイザーの『金枝篇』は宗教の起源を明らかにした。我々は現在、未開人や太古の文明も一種を儀式を有していることを知っている。この儀式の基本観念は次のようなものである。神はこれをつかまえて殺し、食べることができる。およそ我々が知っているところの石器時代の狩人の儀式と獣に対する崇拝は、いずれもこの意味をあらわしている。我々が知っている、イエスが初期に競争した東方宗教のいずれもが、このような意義を有していた。三万年の中で、人類は幻術と祭礼によって無実の罪をでっちあげた。そして、重要な点は一つの観念である――神は死すべきものであり、それを尊崇する人類は、本物のあるいは象徴的にその体の一部を用いる。カトリックの儀式はその例外だろうか? この問題に対し、我々国内の読書人は回答しようとしない。勇敢な人は引き続き聖餐式を守っており、小心者はバーンズに従って、彼らの祖宗の幻術を教義の中から抜き出した。彼らは聖餐の聖なるゆえんは、神が彼らの心の中にいることに由来することを信じている。各人がそれぞれ自らが正しいと思うことを行うことに、我々は同意する(We agree to differ)。共に神の玉座の前に跪き、ある者は聖餐Mass(真神降臨、カトリック教説)を信じ、あるものは聖餐Communion(プロテスタント教説)を信じる。我々は我慢できるのだろうか? あるいは、率直に言えば、我々は恭しく儀礼に臨むと同時に、怠惰で怯懦なのだろうか?