今回のロンドンにおける故宮宝物展では、中国の芸術作品がヨーロッパにて大いに面目をほどこし、一九三五年の日本人にとって最大の痛恨事であった。最近では、ニューヨークに三カ月貸し出して展覧するという議論もあるほどで、かくのごとく中国美術は米国においても大いに面目をほどこすことだろう。今回の展覧物は、独り中国が供出しただけでなく、ヨーロッパ各国もまたその所蔵するところのものを陳列し、まことに古今未曾の中国書画古物の集大成と言えるものであり、中国人も稀にしか見ることができないものであった。その影響は大きく、英国各紙の評論と掲載されるニュースは十分に想像できる。Bmyonが中国美術の伝統はギリシアよりも優れていると直接的に言っているように。その表面上の成功は、字林西報(North
China Daily News)のロンドン通信所が報じたように、昨年末まで、まだ開催から一カ月も経っていないのに、参観者がすでに十万人を超えているということに示されている。新聞の評論と専門家の品評により、この展覧会の影響として、十八世紀に中国文物が西欧で一大ブームを巻き起こしたのと同じように、中国文物・器具・瓶・図画が再び流行している。試みに考えてもらいたいが、英国の戦艦は先に西洋のキリスト教と帝国主義を東に運んできたが、今度は中国芸術の帝国主義を西に運んだ。まことに千古の奇談である。
今回の展覧の効果は二つあり、一つは普通のものであり、もう一つは芸術的なものである。たとえば、盆景、金魚、木器、漆などは、流行を追うものであり、本質を捉えているわけではないが、国内外の感情に対する影響には深いものがある。盆景は、去年すでに米国で流行しており、金魚、堆朱彫り、茶器、食器戸棚もまた、すぐに後に続くだろう。十八世紀のいわゆるロココ時代には、ヨーロッパの男たちは辮髪を結い、女たちは扇子を手にとり、貴族たちは絹織物を身にまとい、知識人たちは磁器を所蔵し、宮廷の妃たちは輿に乗って移動しており、いずれも中国崇拝の一時的な流行に他ならない。最近の西洋のモダン木器は、線状に屈曲した単純なものを主としているが、これもまた中国木器の影響を受けたものである。リー・アシュトン(Leigh
Ashton)は、近代の室内装飾の傾向として、多くは大戦以後、中国古代の芸術の評価と軌を一にしていると言っている。サー・ウィリアム・ルウェリン(Sir
William Liewellyn)は、今日の英国社会の上も下も知っているのはただ「明」という一字であると冗談を言っている。
「出会っ人誰もが、家に中国磁器を持っている。たとえそれが一つの新しい黒砂糖生姜汁入り缶であったとしても、明器(古代の副葬品)だと言い」、すぐに棚の上に置こうとする。
芸術方面では、今回の展覧は、西洋人に比較的普遍的で本来的な意味で中国美術の精神を味わってもらった。そして、中国人と西洋人との精神上の接触をさらに深めた。こうした芸術上の鑑賞は、先の麻雀牌や京劇を歓迎するのとは異なる。なぜなら、中国書画、特に今回陳列された書画は、正しく中国文化の頂点を代表することができるものであり、中国美術の精華を託されたものだからである。中国文化は従来、理知に劣り、情感に優れ、分析に弱く、総合に強い。ゆえに、中国の科学分析、格物致知にこれといった優れた主張はなく、ただ美術において創造性を発揮し、頂点を極めたに過ぎない。中国人は物の内に遊ぼうと外に遊ぼうと、誰もが閃きを得る。どれほど微賤であろうとも、十分に観賞に足る。ゆえに、花や月を評しても、茶や瓜を賞しても、誰もがおのずから風格を有しており、西洋人の及ばないところである。その図画と化し、詩詞に託したものは、また人為のうちに山林の気を存し、自然を手本としている。自然を手本としているがゆえに、その様態は千変万化であり、その技は甚だ神秘的である。ゆえに、中国文化が各方面において西洋人の賞賛を得た中でも、美術が第一であるというのは、もっともなことである。