日本語版『林語堂全集』を目指して

訪米印象記


 上海から米国まで、およそ四十日ほどかかっただろうか。全くもって困ったことに、何一つとして仕事を仕上げることができなかった。これは私の悪い癖で、旅のときには考えを巡らすことができず、考えを巡らすときには旅をすることができないのだ。一冊の本を書き上げるためには、遠方に行って印象と刺激を得なくてはならないと作家たちは言うが、これほど滑稽なことはない。国内の人物では、彼らの観察研究の対象として不足しているのだろうか? 一皮むけば、各民族とも同じではないのか? 米国の婦人が靴下を繕う姿は、中国の婦人のそれと同じではないのか? 彼らが買い物をするときに値切りに熱心になる姿もまた、中国の婦人のそれと同じである。あらゆることの一切は、異なると同時にまた同じである。今朝、朝食後に外に散歩に出ると、前に靴下に穴が空いた女性がいた。それを見た途端、私は故郷に帰ったかのごとき快感におそわれ、ほっとした。


 初めての印象について少し書いてほしいということだが、私が見たものはとは何だったのだろうか。私は、水着を着た太った老婦人が船内の喫煙室に駆け込んでいくのを見た。また、太平洋一面に広がる果てしない大海原も見た。これほど多量の水を見たために、ホノルルの人から太平洋の前途を問われたとき、太平洋は将来もやはり洋々たる大海原であり、その中には多くの魚も含まれている、と答えたほどである。一体だれが太平洋において覇を争おうとするだろうか? 太平洋の魚は、神の選民の総数よりも多いというではないか? 神は地球のわずか三分の一だけを人類に与え、魚類たちには三分の二も与えたのだから、魚類もまた神自身の子供というべきではないだろうか?


 おそらく水の中も陸上と同じで、多くの傲慢で愚かな出来事がある――それぞれの魚たちは皆、自分が隣の魚たちよりも優れていると思っており、自らの文化を発揚しようとする。多くの不公平なことも起きる――大魚が小魚を呑み込む。多くの固執と偏見もある――金魚はカジキの嘴を誹り、カジキは金魚の虚弱で敏感な体質を罵り、カニはまたタコの行動の不可思議さを笑う。多くの他人を統治しようとする野心家もいる――ある独裁魚は欧州の独裁者と同じように尊大であり、ある外交魚は太平洋の底で談判したが、その結果はジュネーブの先生たちと同じように、少しの結果も導き出すことはできなかった。人と魚の違いはただ一点になる、それは、魚類の貧窮と飢餓は人類が争っているそれよりも深刻でないということである。


 私が執筆をしているところは、ペンシルバニア州の田舎にある一人の米国の友人の家である。ここの周囲の風景は美しさは素晴らしいが、情緒が異国のものであり、私自身の審美観念を調整しなくてはならないほどである。ここには楡の木もあれば楓の木もある。それに何と、信じられるだろうか、枝垂れ柳まであるのだ。しかし、これらはすべて異国情緒のものであり、何かを想起させてはくれない。私は無意識に、中国と幼年時代を思い出させてくれるようなものを探した。なぜ英国人が傘を持って外でに出かけるのを好むのか、私はようやくわかった。たとえば、このように言うことができるだろうか、ここには山岳がないために妙な寂しさを覚える。山岳のない風景は、風景として成立しないと言えよう。ここには美しい森林があるが、森林が山岳を覆い隠してしまっており、その結果、両者は両立せず、森林が欲すれば山岳を見ることはできない。


 美しいデラウェア川は親密感を与えてくれる。川に沿ってまっすぐで平坦な汽車のの線路を進めば、誰にも関心をもたれない一、二本の枝垂れ柳に出くわす。知り合いが誰もいない只中に孤独にたたずむその姿は、やはりおかしなものであり、微風のなかで揺れている。これらの枝垂れ柳たちはしなやかな舞を踊っているが、それは決してジャズダンスではない。私が思うに、この点は米国の大きな不幸である。


 愚鈍には愚鈍の賢さが、のろまにはのろまの優雅さが、不器用には不器用の機知が、卑しき者には卑しき者の良いところがある。


 どうやら私は道家の境地に入ったようだ。彼らにどう説明したらよいのだろうか? ロダンは「のろまは美しい」と言った。しかし、ロダンはフランス人である。フランス人と中国人の精神は元々よく似ている。我々はただ、枝垂れ柳たちがそこで孤児のようにたたずむのに任せるしかない。そして、彼らは自らそのことを苦とも思わず、依然として悠々と揺れている。


 いいだろう、私は今、米国にいる。米国は極悪の地獄であると同時に、ソ連にとっての幸福の楽園――資本主義の極悪の地獄であり、機械進歩の幸福の楽園でもある。ソ連共産党員がレーニンを崇拝する以外に、最も崇拝するのは温水パイプであることを私は知っている。私が思うに、ソ連が今、渇望している楽園とは次のようなものである。赤の広場に万人の大衆浴場が出現し、スターリンが彼らのために温水のパイプ栓を開く。断っておかなければならないが、私は中国人であり、大衆浴場に関心を寄せることはない。そして、私が資本主義と機械進歩に羨望の眼差しを向ける時、この両者に対しては批判的な態度をとる。


 米国にあるのは、富・安らぎ・平和、美しき紺碧の田野、乳牛、田園の詩情あふれる養鶏場であり、そしてすでに述べた楡の木、楓の木、枝垂れ柳がある。換言すれば、米国は人生を楽しむための物質的基礎を備えていると言ってよいだろう。確かに米国は生産過剰と失業で騒いでいるが、この二つのことは決して重大な過失ではない。いずれ我々の誰もが、生産過剰と失業で騒ぐようになる。機械の進歩を阻むことはできず、機械の進歩はおのずから深刻な生産過剰と失業者をもたらし、そして各人の仕事時間は当然ながら減り、遊ぶ時間も当然ながら増える。結果として、極悪な機械は、労働者一人ひとりを、午前は仕事をし、午後は遊びにふける有閑階級に変えてしまう。資本主義と共産主義の国家がいずれもより多くの機械を欲するならば、職業と休暇の配分という点において、この二つの文化にはいつの日か、団結する時がくることだろう。休暇問題は、まさにすべての文化の中心問題となりつつある。ゆえに、機械文明そのものに誤りがあるわけではない。米国が、その明らかな例である。


 すでに述べたように、米国には人生を楽しむための物質的基礎がある。米国には富と安全、そして大量のクヌギと楡の木がある。「それがどうだというのだ?」という問いをあなたが投げかけることだろう。米国人は楽しんでいるのか? 何が彼らを楽しませているのか? 彼はどのような人間なのか? 結局、彼の人生の価値と特性を決めるのは、「彼は何を持っているか」ということではなく、「彼は何者か」ということである。


 この快楽問題は、大きく取り上げられるべき問題ではない。たとえば、「米国人は楽しいか?」あるいは「これらの物質上の繁栄は彼らを楽しませているか?」と問うことは、いずれも理に適ったものではない。いかなる文明もまた、この種の検査に耐えられるものではない。もし、快楽こそが文明の最後のあるいは唯一の試金石だというなら、バリ島の文明は中国や米国よりも高いレベルにあると認めるところまで行き着くだろう。この点については、常識が誤りであると告げてくれるだろう。もう少し理にかなったものでなければならない。我々は科学を必要としており、エレベーター、エスカレーター、板敷の床、クリーナー、美術館、博物館、プラネタリウムを必要としている。美術館、博物館、プラネタリウムに寄付するのは、醜い善意の金持ちでなくて誰だろう。全米の古物陳列館と研究院は、魂と肉体との妥協の産物であり、科学と資本との間の妥協を代表している。そうではないだろうか? 科学者は資本家に養われている。科学者が名声を博し、社会において一定の地位を得るためには、一人の金持ちの寡婦と結婚することである。哀れなこの世の中において、我々はこのように前に向かって奮闘努力しなければならない。私が見るに、米国は極悪の資本主義の地獄でもなければ、機械進歩の楽園でもない。米国は、ただ単なる人類文明の一地域に過ぎないのだ。ここには大いになる発展のチャンスがあり、いかに生活するかを心得ていれば、相当に楽しく生活することができる。もしそう言いたければ、私のことを不器用な唯物論者と呼ぶがよい。私は、インドの聖人のように、一方で物質文明の実利を享受しながら、他方であらゆる機械を極悪のごとく罵るような真似はできない。道端から汲んできた一杯の水を飲むよりは、むしろ冷たいトマトジュースを私は飲みたい。


 いや、私を不器用な唯物論者と言うことはできない。私はただ、自らの楽しみを追い求めると同時に、米国人がどのように彼らの楽しみを追い求めているかを見ただけに過ぎない。私はかつて、人生において最大の面白みを獲得させてくれる文明こそが最高の文明であると言ったことがあるが、これは誤解を受けやすいものである。エスカレーターに乗って米国の摩天楼に昇る時、あるいはラジオ街に入る時にも、ある種の面白みを得る。だが、私が指しているのはこのことではない。初めて刺激を受けたのは、子供たち、普通の米国人、普通のラジオ聴取者、映画を観る人、航空マニア、車のスピードを競う者たちである。車のスピード競争で毎時八十マイルの記録を弾き出した時の刺激は、子供が汽車に乗った時に得るものと同じである。こう言っては申し訳ないが、車のスピードを競う者たちと子供たちは、知力の上においても非常に似通っている。普通の米国一人ひとりもまた、子供と同じで、ラジオにせよ麻雀にせよ、とにかく新しい玩具がなくてはならないのだ。ところが、すぐにこれらの新しい玩具にも飽きてしまう。一人の普通の米国人には刺激がなくてはならず、これらの刺激は必ずしも肉体的な快感ではなく、また必ずしも精神的な快適さでもない。私の印象では、普通の米国人一人ひとりの誰もが、どのように自らの楽しみを追い求めればよいかわかっていない。たとえば、彼の車をどこかへ隠し、家に閉じ込め、ラジオの受信機を止めたなら、彼の退屈な様子と言ったら、まるで檻の中の猿のようである。


 ソローとエマソンの魂は、米国文明を不完全なものとして認識した。どのような文明が完全無欠なのだろうか? 米国人の精神には沈黙の要素が欠けている、あるいはあったとしても表現することができない。これは、このような環境においては避けがたいことである。なぜなら、ここにはここの生活のリズム、開拓の伝統精神があり、なおかつ欧州からの不断の移民があるからである。これらの大勢の移民を、米国はいかにして同化することができるのか? 米国は煉丹の炉にたとえることができよう。炉が青白い炎の境地に到達するには、とても一朝一夕の歳月では足りない。我々は文明について語るのに、あたかもものを煮るかのごとく、すぐにでも火が通るように思っている。だが、これは不可能なことである。君はできる限り、中国文明はわりに人間味のある文明であり、わりに閑暇があり、わりに生きることの大切さを認識し、そして最良の時にわりに個人の自由があると言おうとするだろう。しかし、普通の米国人にはいくつかの美徳があるということも、君は認めざるを得ない。日常の生活と仕事、公徳心と子供・動物への愛護、礼儀正しさと強固な独立心。これはいずれも、私が最も敬い重んじることである。我々が真に恥ずべきは、一人ひとりの普通の米国の車掌、エレベーター・ボーイ、同行の乗客、警察、あるいは商店の職員でさえ、中国の省市の近代人よりもはるかに礼儀正しいということである。もし孔子が現在のバスの車掌の勤務態度を見たならば、きっと大いに癇癪を起したに違いない。


 米国にはさらに、デモクラシーがある。これによって私が指しているのは、民主制度の目標――自尊と個人の自由である。すなわち、言論の自由に他ならない。民主党と共和党の新聞は公然とお互いに攻撃し合う。ルーズヴェルト大統領は、ニューヨーク・タイムズに完膚なきまでに批判される。米国が共産主義やファシズム国家に変貌することが決してないほどに、米国の自由の伝統の基礎がこのように永遠に堅固であり続けることを私は望む。それはつまり、個人の自由を渇望するというその本能を米国人が失わないということである。この点については、米国人にもさらなる保証が必要となるだろう。だが、米国人の本能はデモクラシーであると私は信じている。人類の行為を決めるのは本能であると私は信じている。言論の自由は政府の障害物であるが、ファシストあるいは共産主義者とデモクラシーの信徒との違いは、まさにこの点にこそある。ファシストあるいは共産主義者は言論の自由を障害物と認識するため、迫害を実行する。デモクラシーの信徒は言論の自由が障害物であるということを否認する、ゆえに神が彼らにこのような光栄あるものを与えたことに感謝する。実のところ、新聞にせよ、国会にせよ、デモクラシーの制度そのものにせよ、いずれもあえて政府を困らせるためのものである。私が思うに、政府と国民の関係は、競馬における騎手と馬との関係と同じである。デモクラシーの制度のもとにおいては、馬には騎手と話をする権利があり、時には質問を提出ことさえできる。ファシスト政府は凶暴な騎手であり、独断専行する。彼は勝利を獲得するためには馬に鞭打つしかないと考えており、そうでなければファシストとは言えまい。統治される国民に対する蔑視はファシズムの精神的基礎である。米国の馬は、決して鞭打たれることを喜ばない。この点について、私はとても嬉しく思う。


 私は米国の政治におけるデモクラシーに対して、必ずしも十分な尊重を払っているわけではない。デモクラシーは、普通人を管理するための政治に過ぎず、往々にして私の目には滑稽に映ることがある。もうすぐ米国の大統領選挙が行われようとしている。これは一種の思想の熱病であり、マラリアのように規則的に、米国は四年に一度罹病する。もうすぐ、民主党と共和党のどちらがより大きな嘘をつくことができるかを見ることができるだろう。もし共和党が嘘をつくのがより上手であったなら、共和党の大統領が誕生するだろう。逆に、民主党の方が共和党よりも嘘をつくのが巧みであったなら、民主党の大統領が誕生することになるだろう。私が言っているのは、党の機関のことであり、決して大統領候補者個人を指しているわけではない。なぜなら、一人ひとりの大統領候補者は皆、生真面目な人ばかりであり、彼らが各地でつく嘘は、彼の党を代表しているに過ぎないからである。


 我々はすでに人間であることの他に、一体何を望むことがあるだろうか? 否、私が言うところのデモクラシーとは、ウィル・ロジャースのデモクラシーを指している。ロジャースは典型的な米国人で、愉快で垢抜けた性格を有し、虚飾と権勢的振る舞いに対してはひどく憎悪する。ロジャースのようなデモクラシーは提唱する値するものであり、百人のアンドリュー・メロンを犠牲にしてでも一人のロジャースを生み出すことは決して無駄ではない。もしこの良き点に米国民族が気づいているならば、神にぜひとも感謝すべきであろう。


 中国は外国人が彼らを理解することを望まず、甚だしきに至っては、旅行者の観光入国を拒絶する。だが、米国人もあまねく中国のことについて、興味の度合いを増してきている。もし中国が宣伝面において効果を得たと言うなら、この功績は決して中国政府に帰せられるものではない。愛おしい年老いた中国は、すべての年老いた貴族と同じように、このような宣伝には見向きもしない。しかし、日本は大きくこれに異なる。日本は毎年、百万元を費やして米国で宣伝工作を行っている。また、五十万元を費やして米国人を説得し、日本人はお茶をどう飲むかをわかっており、日本人は文化を有する民族であることを認めさせようとしたという。日本人は自らのためにこれほどまでの宣伝を行い、中国に対してこれほどまでの反宣伝を行ったが、その結果はどうだったであろうか? 私の知るところによれば、普通の知識ある米国人は誰もが、親華反日である。このような情勢を見て、日本人は極めて厳重かつユーモアを欠いた態度で君に質問する、「なぜだ? なぜだ?」と。私が解釈しよう。兄弟二人が喧嘩をし、弟が母親の前に走っていき、兄が彼を罵り、先に手を挙げたと告げ口した。この時、兄の方は一言も発しない。聡明な母親は、悪いのはずる賢い弟であることを悟り、彼をこっぴどく叱った。この弟は納得せず、口で「なぜだ? なぜだ?」と不平を言いながら走り去っていった。もし私が日本人なら、きっと日本の外交官に、今後は修辞と弁論ではなく、もう少しユーモアを学んだ方がいいと勧告するだろう。たとえば、今日のニューヨーク・タイムズに、日本が軍艦九隻を中国に派遣し、「中国の反日感情を撲滅する」という日本政府のスポークスマンの発言が載っていた。このスポークスマンは、自らが馬鹿者であるであることを示すのみならず、日本の海軍全体が馬鹿者であることを示している。軍艦を派遣して感情を撲滅すること、それも反日感情を撲滅するというのは、全くもってあり得ない愚かなことである。軍艦を派遣して、火災、革命、イナゴ、さらにはハエでさえ撲滅することができるかもしれない。しかし、軍艦を使って感情を撲滅するというのは、米国人には絶対に理解できないことである。齋藤大使にはぜひこの点に注意していただき、スポークスマンに以後二度とこのような笑い話で騒ぎを起こさないに指示していただきたい。なぜなら、この調子だと、九隻の軍艦では中国の反日感情を撲滅できないなら、四十九隻が到着しかねないからだ。嗚呼! 何と特別な求愛方法であることか!


(陶亢徳への英語の手紙の転訳)


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