日本語版『林語堂全集』を目指して

訳者解説


 本巻は、『語堂文集一』(台湾開明書店、一九七八年)所収のエッセイのうち、『愛と諷刺』所収の英文版と同一内容である「中国人と日本人」を除いた全篇の邦訳である。


 同じテーマを英文版でも扱っているものとしては、他に以下の七篇が該当するが、いずれも英文と中国語文で大きな異同があり、「別作品」として捉えるべきものであると判断して、本全集第一巻・第二巻・第三巻と重複して収録している。


 


・中国文化の精神(英文版は本全集第一巻収録)


・中国人と英国人(英文版は本全集第三巻収録)


・孔子を思う(英文版は本全集第一巻収録)


・言論の自由について(英文版は本全集第二巻収録)


・白昼夢(英文版は本全集第二巻収録)


・韓非が天下を救う(英文版は本全集第一巻収録)


・顔と法治(英文版は本全集第一巻収録)


 


 訳出にあたって参照した先人の邦訳には、「機械と精神」「中国文化の精神」「現代批評の任務」「ネジ談義(一~四)」が収録されている魚返善雄訳『機械と精神』(朝日新聞社、一九四六年)、また、「中国の国民性」「土気について」「中国文化対話録」が収録されている、同じく魚返善雄訳『東西の国民性』(増進堂、一九四六年)、さらには、「修養について」「孔子を思う」「サディズムと孔子尊崇」が収録されている甲坂徳子訳『支那の横顔』(大東出版社、一九四一年)がある。


 


「語堂文集編集叙言」にある通り、底本とした『語堂文集』全四巻は、林語堂自らの意思を受けて、一九三六年以前の中国語で書かれた初期エッセイを再構成したものであり、本書はその第一巻に相当する。その多くは、林語堂が主編を務めた雑誌『論語』『人間世』『宇宙風』に発表されたものであり、のちに主要な作品は『翦拂集』(上海北新書局、一九二八年)、『大荒集』(上海生活書店、一九三四年)、『行素集』『披荊集』(光華書局、一九三五年)として刊行されている。前述の甲坂および魚返による先駆的邦訳はこれらの中国語文からの訳出である。


 付言するならば、同時代に発表されたエッセイの内容と、後年『語堂文集』に収録された内容とには若干の異同があることに注意を促しておきたい。その多くは、時代の変化により、言及の必要性がなくなった事柄の削除であるが、中には重要な内容であるにもかかわらず、大幅に削除されている箇所もある。たとえば、「読書救国という謬論」は本来、「『閉門読書』という謬論の由来」と「政治と精神の欧化」の間に、「中華官国の政治学」という一節が挿入されているが、『語堂文集』収録に際して削除されている。やや長くなるが、内容は以下に引用する通りである。


 


  今回、関税会議が開催されたあの日から我々が得た最も貴重な啓示は、中華には民国はなく、あるのはただ官国だけであるということだ。この意見は決して我々の新発見ではなく、見識のある者は早くから、中華がいかなる国体であるにせよ、民国でないことは確かであるということを知っていた。外交にせよ内政にせよ、いずれも我々国民が語るべきことではなく、民意に基いているかどうかなどはなおさら語ることはできない。いわゆる政治とは、政府諸公の所有物であり、国憲は官僚によって制定され、国民会議は官僚によって無駄に満たされ、外交の重要案件はより一層官僚自身によって決定される。甚しきに至っては、官僚が会議の開催に赴けば、一般庶民の道路交通は随意に一時間以上断絶させることができるほどである。このような現象の中で、「民国」を偽称することには無理があろう。道路でさえ一般庶民のものではないばかりか(だが外国人は歩くことができる)、自宅の階上から下を覗く者でさえ警察庁から頭を出すなと責められるからには(王府井大通りで目撃された事実)、今日の官僚は昔日の皇帝に他ならないということを我々は疑わずにはいられない。「帝国」は確かにすでに存在しないが、「民国」の二字もまた余分なものである。


  今こそ我々は、「政治を語るなかれ」の由来とその広い意義を見出すことができる。一つの官国の中で民意・民治を提唱することは、矛盾を感じるものである。政府に嫌われるだけでなく、士大夫にも容れられないからである。今の我々にはわかるだろう、「政治を語るなかれ」の学理は中華官国が持つべき政治学であり、学理と政府の行為は相互に団結した一つのシステムをおのずから形成しており、どちらが原因でどちらが結果かを分けることはできないということを。実のところ、政治に対する中国人の消極的な態度という昔からの性質によるものに過ぎない。今の我々にはわかるだろう、閉門読書は実際には閉門読書ではなく、政治に対する消極性の護符に過ぎず、古来より政治を語ることを嫌ってきた中国人の悪い性質の表れであることを。こうした観点から考えることによってのみ、政治を語ることと政治を語らざることが、今日の最重要な問題であることを知ることができる。


 


 この一節がなぜ削除されたのか、その理由は明確ではないが、「叙言」に過去のエッセイを再収録する目的の一つが「後生の育成」にあることに何らかのヒントがあるのかもしれない。ただ、すべてが初出そのままの収録ではないという点は、読者にとってはやや残念な点でもあるかもしれない。ただ、一方で晩年の林語堂が最後に「お墨付き」を与えた定本として、尊重されるべきであるのは言うまでもない。


 


 本巻収録のエッセイの内容は多岐にわたるが、特に驚かされるのは、「叙言」にも述べられているように、一九三〇年代に林語堂によって提起された「様々な重要問題は、四十年後の今日にいたるも、なお未解決の建艦となって」いるということである。そして、このことは、『語堂文集』が刊行されてからすでに四十年以上が過ぎた現在、すなわち発表から八十年後の今でも変わっていない。


平成三十年六月四日

華本 友和

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林語堂研究 LinYutang Study

xiao-zhiyou@hotmail.co.jp

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