日本語版『林語堂全集』を目指して

語堂文集編集叙言

 一九七一年春、林語堂先生は『無所不談』第一集・第二集の版権を文星書店から引き揚げ、一九六八年の原稿(第三集というべきもの)を追加して、開明書店より新たに編纂改訂して印刷し、定本として発行された。その時、林先生はまた、初期(一九三六年以前)の、北京・上海で新聞雑誌に発表したエッセイを『語堂文集』として収集し、晩年の著述集『無所不談』と共に互いに参照することで、著者の一貫した趣旨を見出すことを強く望んだ。本書店の支配人・甫琴先生もまた、まさにそうした意志を持っており、双方は喜んで承諾した。ただ、当時林先生は香港中文大学から『当代漢英詞典』の編纂を依頼されており、文集の収集や校正をする暇はなく、一切は開明書店編訳部に一任された。散逸したものの捜索から、真偽の見極め、添削整理、分類配列、誤植改訂、注釈とタイトルの追加まで、およそ三年の歳月をかけて、はじめて完成させることができた。
 文集に収録されているものの大部分は、林先生が一九二三年に遊学から帰国し、北京において教鞭をとるようになった時のエッセイから、一九三二年九月に創刊した『論語』、主編を担当した『人間世』『宇宙風』およびその他の雑誌や副刊において発表したものである。書き始めた初期の作品は、わずかに晨報・京報副刊や『語絲』週刊に発表されただけで、その数は多くなく、すべて『翦拂集』に収録されている。林語堂自伝の中で、「私の初期の文章は、学生たちのデモのごとく、腹を割って打ち明け、慷慨激高し、白日のもとで抗議した。あの時の作文は、特にこれといった技法や細心さがあるわけではなかった」「時事の政治に対して、気の向くままに批評した」と述べている。また、『言語学論叢』の序文の中で、「初めて帰国した時に書いた文は、ハーバード病にかかり、あまりに大上段に構え過ぎていた。後に『語絲』社の諸子の薫陶を受けて、はじめて道理をわきまえるようになった」と言っている。逆巻く大波の中、幸いにして水没を免れた彼は、中国文学の進展、文筆技法の研鑽に努め、新たな道の開拓を試みるために、自らの思想を示す言論を発表した。一九三二年九月一日、上海で創刊されたユニークなスタイルの『論語』半月刊は、『語絲』が標榜した「似ても似つかない者たちがこの場を借りて、似ても似つかない文章と思想を発表する」というマナーを継承していた。活発で天真爛漫な無邪気さ(フランス語のいわゆるEnfantterrible)で、言うことに憚るところなく、到る所に含蓄があった。たとえ笑いの中に涙を潤ませていても、哀しみに悲嘆せず、言葉のうちに刺を帯びるも、決して辛辣でとげとげしくはなく、読者をして納得せしめるも、泣くわけでも笑うわけでもない、あるいは悟りを得て涙を笑いに変える。『論語』には毎回、時事に関する語堂の短い批評があった。簡潔で要点を尽した箴言であり、冗談と洒落を最大限に尽したもので、最も読者からの支持を受けた。彼は編集の様々な妙味を経験し、ユーモアあふれる筆致と率直な言論という『論語』の趣旨に沿った多くの原稿を発見し、予想外の成功を獲得したことを喜ぶと同時に自信を持った。このことが、彼をして著作活動に精を出すよう促すとともに、読書に勤しむ楽しさへと誘った。
 林先生は上海にいたこの時期、著作活動の他に、実に多くの書物を読破した。当時の市中の書店が競って販売した複製本古書を山のように自由に選んで買い占め、乱雑に部屋に置き、心の赴くままに手に取っては読み耽った。およそ叢書、エッセイ、随筆、筆記小説、小説、伝奇小説、そして著名人の書簡、日記に至るまで、遍く目を通した。特に、明清の才士の詩文集に心を魅かれ、公安派の清新にして爽快な文章、竟陵派の静謐で孤高な文章を敬慕した。これらの古書の山の中から、彼は人の精神(性霊)、ユーモアの奥深さを悟った。また、張潮、王諧庵(思任)、金聖嘆、鄭板橋、李笠翁、徐文長、袁子才諸子の文章の影響から、現代の散文の活路を見出した。そこで、文章はすべからく精神、心情を表現すべきであり、文体は小品文(エッセイ、語録体)であるべきであり、それによってこそ感情と意志を伝えることができると主張した。頭角を現わしていた『論語』を陶亢徳に託し、良友図書公司のために『人間世』半月刊を創刊し、『論語』と足並みをそろえて歩を進めた。両者の趣旨は一致していたが、そのスタイルには相違点があった。『論語』はユーモアを重んじ、『人間世』は精神、情感を重んじた。陶亢徳宛ての書簡で、次のように言っている、「ユーモアを提唱するには、まず精神を解放しなければならない。精神の解放によって文章、言論の道筋が開かれることで、ユーモアは自然に育まれるものである。故に、『人間世』の創刊は、『論語』とお互いに補い合うものであり、共存共栄の関係である」
 当時にあって、全くの散文エッセイの刊行物が飄然として現れ、一世を風靡したことは、雑誌界にとっての一つの盛事と言えるものであった。ただ、編者があまりに「自己」を中心とすることにこだわり、「精神」を強調し、「個人」「閑適」のスタイルを提唱したことにより、執筆者が書いた作品の多くは、陶然として勝手気ままであり、冷ややかな嘲笑と辛辣な風刺に満ちた文章となった。そのため、多方面からの恨みと非難に遭い、一年半は何とかこらえたが、ついに停刊となった。だが、林先生は決して羽を休めることなく、続けて独り『宇宙風』を創刊した。『論語』『人間世』の気質と風格を融合し、その様式に遜色はなかった。創刊の趣旨の中で、次のように言っている、「今の人は思いを書き表わすのに、文章をもって報国する者はいくらでもいるが、眼前の人生諸事についてあえて語ろうとする者はいない、あるいは語るに値しない。現実を避けた結果、文の格調が高くなればなるほど、文学はますます人生から離れ、遠くなっていく。理論がいよいよ広大であればあるほど、目の前の人間としての道理は余計にわからなくなっていく。これは今日の、新しくもなく古くもなく、東でも西でもなく、人の感情から離れた虚偽社会から生まれた虚偽文学現象である。『宇宙風』は、そのためにこそ世に刊行されたのである。
 はからずも一年後、八・一三事変(第二次上海事変)が勃発したため、語堂は国を去ってアメリカに飛び、『宇宙風』は社友に続編が託された。この刊行物は、抗日戦後期まで持ちこたえが、林憾廬が病没したために、桂林で休刊となった。
 林語堂先生はアメリカでは専ら英文で著述し、三十年にわたって豊富な作品をもたらした。この長い歳月の中で、中国語による著述とは絶えて縁を失った。それは一九六四年の冬、中央社の特約コラムの原稿を書くことを引き受け、「旧職に復帰」するまで続いた。往年の「人間世」の趣旨と同じく、自らの心のうちにあるものを書き、題材にこだわらず、自分が言いたいことだけを書き、自分が訴えたい心中の思いだけを発し、この場を借りて国内外の文人と交流をはかった。一九六五年春から一九六八年まで、のべ百余篇の原稿が書かれた(すべて『無所不談』合集に収録されている)。作品の多くは小品文で、思想は終始一貫している。純粋な語録体のスタイルではないとはいえ、内容は奥深く表現はわかりやすく、なお日常的な味わいがある。
 林先生はその著述人生の過程で、幾多の騒乱を経験し、様々な苦渋を味わった。思い起こせば、初期の作品は後世に伝えるに値するものではない、と彼は謙遜する。ただ、自ら後の世代に深く期待するとともに、作品に対する哀惜の念もあるという。四十年前に彼が提示した「教育の改造」「入試の廃止」「漢字の整理」「文化の復興」といった様々な重要問題は、四十年後の今日にいたるも、なお未解決の懸案となっており、「民族の病根」「文化の残滓」は依然として除かれていない。そして、今でも昔のことが再度提起されるばかりか、「現代化」のスローガンを声高に叫ぶ中における新しい課題とさえなっている。そのため、林先生は文集編纂を委託するにあたり、一再ならず、こうした問題について論じた文章を必ずや余すところなく収録するように指示した。これは、後生の育成と文化事業の重視ということに対する彼の心遣いであり、またその未来を見通す見識と卓見を示すものでもある。
 台湾定住後、林先生は台湾文化界の現象に注目し、いくつかの不合理なことを発見した。その最たるものは、出版業者のでたらめな不法行為である。思いもかけないことに、海賊版、複製版の風潮が甚だしいだけでなく、剽窃、偽造の徒が猖獗を極めていた。語堂のほとんどあらゆる著作が被害にあった。英文作品は、海賊版、複製本以外に、縮訳、部分訳の版本もあった。最も憎むべきは、七十万語を費やした長編小説『京華煙雲』(日本語訳は『北京好日』)が支離滅裂に編集され、薄っぺらい小冊子に縮小され、書名を『瞬息京華』に改めて林語堂著として出版されたことである。このような道理に合わない災いは、全くもって罰あたりである。いくつかの英文小品の訳本は、まるで中学生が翻訳したかのような文体であるにもかかわらず、やはり林語堂の名を冠し、本当に林語堂本人が翻訳したものだと読者に勘違いをさせてしまうという過ちを犯している。さらに奇怪なことに、露店で『語堂短編小説集』を見かけるが、林語堂は未だかつて中国語で短編小説を書いたことはない。これは全く問い質しようもない、また弁解のしようもないことである。現在市場に流通している選集、文集にしても、内容は乱雑に混ざっており、あるものは書名が合っているが内容が異なり、あるものは書名は異なるが内容は合っているという有様となっている。中には、『生活の芸術』(邦訳は『人生をいかに生きるか』)『我が国土と我が国民』などのいくつかの訳本から章節を切り取り、任意に改竄してつくられたものもある。これらの支離滅裂な、上辺だけを繕った偽物は、語堂先生本人でさえ混乱して目が眩むほとである。このような状況ではあるが、林先生はどうすることもできないという態度でこれに対処した。彼の唯一の願いは、一刻も早く初期の中文作品を収集、精査し、作品集として『無所不談』と共に刊行して世に問うということであった。そして今、『語堂文集』の校訂編集が完成し、定本として開明書店から独占的に発行する運びとなり、ようやく林先生の願いに応えることができた。残念なのは、本来の姿を取り戻した本書を、林先生本人がその目で見ることが叶わなかったということである。

台湾開明書店編訳部 一九七八年春

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