江蘇省政府が劉煜生殺人事件について行政院に回答した文中には、「出版法を適用して新聞社を処罰し、戒厳条例を適用して犯人を裁判し......法令はそれぞれ根拠に基づいている」と語っている部分がある。この「適用」という二字は絶妙であり、法律の使用にとって効果は絶大である。法律の使用範囲がこれほど大きくなければ、劉煜生は死なず、たとえ死なされたとしても法律の根拠はなく、謀殺であり不法であったはずだ。劉煜生が社会生活の状況を描写したことは、本来無罪であったが、拘束される時になってはじめて「一般法理」の適用されるところとなり、出版法に違反する罪があるとされた。そして、戒厳司令部にいざ引き渡されようとする時になって、劉煜生はついに戒厳条例を適用され、治安妨害の罪を犯したとされた。監察院が事件の調査を提起し、劉煜生が死なざるを得なくなった時には、さらに緊急治罪法が適用され、劉煜生は民国に危害を与えた罪を犯さざるを得なくなったのだ。このように法律が、一回の罪で三度も適用され、顧祝同(江蘇省政府主席)のもとで、適するも用いざるところなく、用いるも適さざるところなしということでは、法律の使用範囲はあまりにも大きくなりすぎてしまい、あまりにも思うがままに操作できてしまうということを免れない。劉煜生の死は、この法律の帯締めによって殺されたものであり、顧祝同は経験豊富でいずれも聖道に向かわないところはなく、すべてに法律の根拠がある。不思議なのは、顧祝同が殺したいと思う人には法律が適用できるが、顧祝同自身には適用できないということである。劉煜生に法律を適用することに何ら問題はなく、司法機関に裁判を委ねる必要もないが、「監察院による事件の調査は、軍事機関が裁いている犯人の事案に対して適用できるかどうか」については、「大いなる疑問がある」。現在、法律がすでに顧祝同によって適用されてしまい、当局は法律の根拠を提起するのに頭を悩ましている。残っているもので、まだ適用されていないものには、美しい雲、月、白日、青天がある。望むらくは、青天白日がどうか武人によって適用されず、汚されないように。さもなければ、白日青天は私の呪詛を受けることになるだろう。