私は1943年9月22日にマイアミを出発し、1944年3月22日にニューヨークへ帰ってきた。私が当初予定していたよりも長い、ちょうど6カ月間の旅であった。6カ月間の私の刺激的な経験を執筆し始める時、私は中国をそれほど遠くには感じなかった。アメリカから中国まで旅行するのに、かつては2週間か3週間かけて太平洋を渡っていたが、 今回私は、カルカッタからニューヨークまで飛行機で5日間で帰ってきた。
中国に向かうのは、あたかも隣人のフロント・ポーチを訪れるようなものであるように見える。「オープン・ドア」の時代は終わり、「フロント・ポーチ」の時代が始まったと私は信じている。「オープン・ドア」は誤った呼称であった。私が意味しているのは、家の所有者がいないかのようにいつでも誰でも入れるようにドアが開いている、あるいは所有者がいても、訪問者が何のために来て、中で何をしたのかについて関心がないということである。今、所有者は戻り、ドアをノックする音が聞こえる。
人付き合いの良い人であれば、夜にフロント・ポーチのところに腰を下ろし、煙草を取り出し、月が高く昇ってやがて夜が更けていくまで親しげに雑談にふけり、ゴシップを交換しあうだろう。しばしば互いに訪問する約束のもと、隣人たちが初対面のときにカードを交換したとき、カイロにおいて「フロント・ポーチ」の時代は始まった。恐怖は、隣人がお互いにあまりに多く知りすぎているということにあるのではなく、あまりに少ししか、絶望的に少ししか知らないということにある。戦後、フロント・ポーチのロッキングチェアはよく使われるようになるだろう。そのときまでには、おそらく帰って来た所有者が氷入りのコーラかマンハッタンを提供するほど、近代的になっていると私は確信している。では、始めるとしよう。
中国はとても遠いが、近くに見える。私は確信している、戦争が終結し、アラスカ航空のルートが開通すれば、金曜日の夜に米国を出発して日曜日の夜に重慶または上海で夕食を食べることができるようになるし、月曜日の朝にニューヨークにいる秘書に電話して、金曜日までに書いた手紙は、水曜日の午後3時45分に戻るまで待ってほしいと伝えることもできるようになると。空間収縮の魔法が見つかった。鉄道の発明がそうであったように、それはこの時代の人々の生活の心とマナーに重大な変化をもたらすだろう。80年前に、ニューヨークとサンフランシスコの間が幌馬車旅行で5か月かかるとみなしていた人々がみな、間違っていたように、おそらく空間と時間に関する我々の現在の概念はすべて間違っている。我々は時間をかけてこれらの概念を再調整しなければならない。そして、これから20年間、1940年代の人々が持っていた、中国は遠く、遥か遠くにある国だという考えをクスクスと笑うことになるだろう。その時、人々は、現在ニューヨークとサンフランシスコとの間の距離を考えるように、心底から中国とアメリカとの間の距離を考えるようになるだろう。
だが、時間の影響に思いをいたすなら、空間よりもさらに信じられないほどである。自らの指によって明確に測定できるように、我々は空間が存在することを感じることができるが、時間が存在しているかどうかを知ることができない。ある者はそれを「費やした」と言い、ある者はそれを「浪費した」と言い、また、ある者はそれを通過し、ある者はそれを殺し、そして、ある者はそれを「借り」さえする――果たしてそれは何であるのか? そういえば、あの6カ月間の経験を思い返すと、あたかも消え失せたかのように感じる。そして、残っているものはといえば、私の胸のうちにあるいくつかの知覚、感情、思い出の心象にすぎない。
それは戦争の7年目であった。それは、過去という流木によって荷重され、未知の未来に向かう激流のような期間であった。そのような時代であり、そのような7年目であった。盧溝橋事件はすでに遠い昔のように思える。1937年において人々は生き、死に、戦い、希望を持ち、1944年においても人々は生き、死に、戦い、希望を持っている。パナイ号事件がそうであったように、南京略奪は1つの記憶に過ぎない。中国人が最初の衝撃と大いなる希望を抱いた「真珠湾」から2年以上を経て、シンガポールとラングーンの陥落と南太平洋地域の喪失と共に幻滅がやってきた。ビルマは失われ、中国は封鎖された。救いの手はまだ見えないが、中国国民は困難にめげずに踏みとどまっていた。スターリングラードの戦いによって形勢が逆転し、アフリカ人の運動が勝利した。誰も、戦争がそのような道のりを辿るとは予期できなかった。 誰も、そのようにことが運ぶであろうことを知ることができなかった。時は至り、過去は明らかにされた。我々が比喩的に言う未来は、時間だけが教えてくれる。
6カ月間の旅の出来事と人々は現実であった。戦争の7年目に中国が持ちこたえ、人々が戦い、希望を持ち、生きていたのはすべて現実であった。その頃の私には、興奮とともに彼らをパノラマの万華鏡に詰め込む特権を持っていたが、現在彼らを主題にして書こうとすると、歴史あるいは過去に属するように考えている。彼らには未来への神秘的な意味がある。それがどのようなものであるかは解らないが、たとえ隠されていても、時間の不思議なパターンは確かに存在する。
では、どのように話をしたらよいだろうか? 私自身の知覚、気持ち、そして忘れられない現在の興奮を除いて、どのように表現できようか? ある時代がしかじかであったと、どのように誰かに語らせるのか? 一単語のラベルによって時代を特徴づけようとする歴史家の安易な一般化は、現実には存在しない。ある10年間が、灰色かバラ色か、浪漫的か現実的か、全体をどちらかだけに断ずることができるだろうか? いかなる時代においても、いかなる思想の本流にも交差する流れ、逆行する流れ、そして渦を持っている。ウジェニー皇后の帝冠のように、幾人かの思考の英雄あるいは様式が時代を支配するのは事実だが、個人のその日その日の活動こそは一時代の生を映す鏡である。ある時代の国民生活は、行動、思想、国内不安から成り、無数の一瞬に、瞬間的な影響を及ぼしながら、風に揺らぐ松林の地面の影のように絶えず変化し、移行する。森林はよいアナロジーである。森林は木で構成され、すべての木は森林の性質、匂い、光、影に寄与している。森林のある場所はより深い日陰であり、ある場所はより明るい。そして、太陽の光が直接松葉の梢の上に注がれる、開かれた林間の空地が地面にある。風は森を吹き抜け、木の葉を震わせて地面に光の舞踏会を演出させ、他の部分の無数の変化が再び反映されて追いつかれる。いつでも、森林の性質は無数の変化に左右される。したがって、木を研究せずに、森林の支配的な性質と状態について語ることはできない。その日その日の考えを形成することができ、一個の国民として生きることができる人間は、どんな独裁者や合衆国大統領よりも強力であろう。
それこそは私の書くものであろうか。この時代の民族全体の生活を描くことは森林の絵に譬えることができるかもしれない。すべての旅行者は彼が見るものによって制限され、一緒に旅する2人の芸術家は異なる流儀で同じ森林を描くだろう。それでも、生きた状態であらゆる瞬間を捉える唯一の手段としては、言葉に頼るしかない。もし時間の概念に対する適切な感覚を持っているなら、国民生活に静的なものは何もないということがわかるだろう。すべてが流動的であり、同じ日は二度と来ない。その日その日を暮し、時間が過ぎ去っていく中で、私は毎朝、その日の出来事から新しい感覚イメージと印象を楽しむ準備ができていた。そうして1日が経過していき、他ならぬ私は山河、都市、町を旅した。毎日がチョークのない黒板のようにそびえ立ち、夜が来てそれが幹線道路で見た男性または女性であることがわかるまで、われわれにはそこから何が出現するかを知ることができない。したがって、「時代」は人生の手荷物によって満たされた日々によってつくられるのだ。だが、もしわれわれが真の焦点となる一日、一瞬を思い出し、その完全な意味を明らかにし、保持することができるなら、男女が食べ、服を着、住み、明日を考える様を写し出すその時代の良き歴史家になることができるだろう。
私には、目的地そのものよりも道端に広がる野花の方が重要であるということが必然であり、道端の細部、物体、人々で書を満たすつもりだ。これは何人かの理論的な評論家を苛立たせるかもしれない。彼らは生活から遊離し、壮大な公式のための材料を本書から無駄に探し求めようとする。イデオロギー上、私と意見を異にする彼らは、言葉の影と偽の戦いを行うことができる。どんな特定の学派にも都合のよい形式では述べられていないが、私の意見と気持ちは充分明白になるだろう。独断的な真理、教条的な公式が好きな者たちにはそれらを欲しいままにさせ、私には色、音、匂いを与えよ。したがって、眼に映り感じたように、小さな出来事を人生の大道に記録することに私がより関心を持っていることがわかるだろう。
私が心配するのは、このスタイルが往々にして町中の話好きな者たちが好む方法であるということだ。雨の日にもたらされた自由時間であるにもかかわらず、まさに旅のそうした行為が、日常の決まり切った仕事から解放してくれるように、本書には旅行記にとって本質的には何か無意味なものが含まれている。言うまでもなく、旅人は常に移動し、何かをしている。そして、彼の本の読者もまた、彼の心がさまように付き合いながら共に移動する。しかし、旅人が何をしようと、業務時間に見出すような権威主義的な必要性や「神聖さ」はそこにはない。いつくかの無駄なコメントこそがおそらく必要であり、それこそが素朴な叡智となるだろう。
中国人がエッセイを「筆談」と呼ぶように、文章を書くことは「筆によるおしゃべり」に過ぎない。肘掛け椅子に座って棚に置かれた大著に目を通すとき、各巻は秘められた雄弁によって私に語りかける。すべてがそれぞれ、最も良い方法で何かを語り、告げようとする。あるものはより多弁であり、あるものはもったいぶった厳粛さを持ち、そしてあるものはあまりに深刻に物事を語る。あるものは絶望的なほど先天的に不明瞭であり、自己表現における彼らの努力は精神な負担とある種の痛みであるに違いない。しかしながら、そこに重要で深遠なことが説かれているために、人々は辛抱して自発的に聞こうとする。
私のくだらないおしゃべりよりも、素晴らしい古代の書物に解説してもらうほうがよい。我々よりも遥か以前に賢者たちは存在していた。彼らはこの世に生まれ、深く考え、感じ、非常に賢明な言葉を残し、そっけなく無愛想にこの世を去っていった。なぜそのように彼らが説いたのか、我々には不思議に感じられるが、それらは永遠の真理である。もし彼らがもっと気さくで話好きであり、なぜそのようなことを説いたのかを教えてくれれば、我々はどれほど多くのものを得られただろうか! 人生についての彼らの深遠な洞察と信念が、個人の瞬間的な些細な出来事に由来するということを我々は確信する。瞬時に彼らは真理を知覚し、それを捉え、そばにいる誰かに述べた。しかし、紙は非常に貴重なものであった。また、書くこと自体が極めて困難な過程であったため、賢者たちが述べた言葉は、必然的に当時の意味合いが奪い取られた骨組みになり、文脈が訴える急務および彼らの肉声のトーンは取り返しがつかないほどに喪失されてしまった。それらの真理が普遍的であるが、非個人的に見える理由である。ジェイムズ・ボズウェルが彼のあらゆる気まぐれと奇想によってサミュエル・ジョンソンを書いたように、最も優れた伝記作家や評論家は、これらの瞬間を我々に明確に示すように再び光を当てることができる。話が終わり、みんなが終夜座ったまま眠った後に、ソクラテスが風呂に入るためにその場を後にしたということをプラトンから聞くことは、なおも新鮮であり、私たちは嬉しく感じる。
私はこれまで、旅行に関する本を書いたことは1度もなかった。創作することができないため、フィクションを書くよりも難しく思える。それは小型カメラによる隠し撮りのようなものに違いない。絶妙の瞬間を捉えることができたにせよできなかったにせよ、いくつかのショットは消去されなくてはならない。旅行記の作家は、彼が扱う素材、彼の目に映るもの、指の素早さ、配置選択の自由による大きな余白に依存するカメラマンに似ている。そこにない物体や場面をつくることはできない。ただ愛と想像と感情という強みだけが、自らの感動を写真に染み込ませる。したがって、過去と現在を自由に未来に浸すことで、彼はしばしば目に見えないものを見ようとする。彼は時間という第4の次元、そして必ずや自身の感性という第5の次元によって絵を描く。第5の次元は残りのすべてのものより重要である。私が望むことはただ1つ、そうした写真がそうであるのと同じほどに、私の描写が真実であり率直であらんことを。
そのとき、私の記録は主観的なものとなる。客観的な有用性をそこから得るためには、読者は年鑑、旅行案内書、そして類似する目的を持った紀行作家にあたらなければならない。すべての芸術が主観的であると私は信じる。そして、作品が単なる客観的な再現や表現ではなく、実際に見たことに対する批評である場合だけ、これを完全に芸術を呼ぶことができる。結局、人は彼が愛するものを毛筆またはペンによって描かなければならない。この規則に反するものは、芸術の第一基準に違反するだろう。個人としての深く活気ある感覚として、最も広く深い意味で「愛」という言葉を捉えなくてはならない。人がそれほど愛していない場合、絵を描くことは全くできない。対象の選択は、まさしく個人的なものである。オランダ人の作家たちは宮廷の貴族や紳士、淑女を見たことがないわけではないが、床屋と庶民の家屋の中をより愛していた。それは、すべての時代の画家に言えることである。第2に、芸術家のコメントは客観的実在よりも重要であり、見えざるものは見えるものよりも重要である。第3に、芸術家が何をしようとも、手法は彼自身のものであるが、鑑定家の筆致によって彼は評価され、見分けられる。私は、個人的な好悪、内的興奮、そして自分自身のすべてに反応する致命的な人間にすぎない。他のものが見たものをあたかも自分が見たように偽ることはできない。時代の真実は、無数の変化する現実の背後に隠れている。私が他の人たちに望むことは、私がそうしようとするのと同じくらい、彼ら自身に対して誠実であってほしいということだ。私は公正たらんことに努めたい。それは判断の欠如ではなく、バランスの取れた判断である。とは言え、達成された公平さの度合いと品質さえも、間違いなく私の一部に他ならない。
旅――この名の下にどれほどの罪が犯されてきたことか! あるビジネスマンたちは、営業会議に出席するために旅行する。より賢明な者たちは、営業会議を彼らの妻への旅行の口実にする。何人かの牧師と聖職者は、神に仕えるためにはるばるローマかモスクワまで行かなければならないが、それこそは、自分たちの羊を後に残すのを正当化できる唯一の方法である。中世においては、キリスト教徒の騎士、そして国王までが、神に仕えるという名の下に、サラセン人と戦うために聖地に旅立たなければならなかった。戦後について、私はこう予言する――あらゆる分野のほとんどすべてのアメリカの教授や宣伝者は、研究、戦略的調査、専門家会議、恒久的な観察施設といった一般的なカテゴリーの下に、何らかの極めて重要な仕事のためにプラハ、フィレンツェ、リビエラに行くことになるだろう。それは、国際的に声望のある教授や獣医であれば、合衆国のみんなに「なぜ自国にいるのですか?」と尋ねられるほどである。勝利が差し迫っている最も明確な証拠として、あらゆる分野のほとんどすべての教授たちがすでに慌しくワシントンに旅しているということが挙げられる。空からエルサレムを通過して、ベツレヘムが聖都の郊外にすぎないことを知り、ジョゼフとメアリのエルサレムでの状況が、ワシントンのホテルの状況に似ていたに違いないとわかった。嘲笑の指弾は、すでにキャンパスで見かけられる教授たちに向けられている。そして、誰かが「あなたはなぜ自身の大学のキャンパスにいるのですか?」という決定的な質問の餌食になる。冷却期間である休戦と平和条約調印との間においては、突然のグローバル志向または国際的連帯感が商売人の心を打つだろう。しかし、ヨーロッパを旅する彼らの誰からも微笑みを認めることはできないだろう。神よ、彼らをお許しください!
実は、そうした旅行は非紳士的なものとなる。カンザス出身の教授はワシントンに来なければならず、ワシントンにいるルーズヴェルト大統領はアラスカに行かなければならない。そこには常に神秘的で事務的な理由がある。現在、この観点はそれほど重要でない人々にさえ影響を与えている。私でさえも、自国に関する様々なレポートを聞いて深く関心を抱き、2年間のインフレーションと封鎖の後にそれらを見に行かなければならないがゆえに、中国に戻るのだということ人々に説明するのは不可能であるため、本を書く材料を集めに中国に行ったと言わなければならなかった。カルカッタのあるイギリス人編集者がインドの友人に語ったところによれば、私はアメリカで『涙と笑いの間』を書いたことによってすべてを台無しにしてしまったため、私が真に中国人であることを立証するためには中国に戻る必要があるという。私に関するそうした憶測を聞くのを常に楽しみにしている。我が国が困っているという報告を受けてため、私は彼女(祖国)に会いに行ったという理論以外に、私がなぜ、そしてどうように中国に行き、なぜ帰ってきたのかに関する各種理論が存在している。ここで懺悔しなければならないことがある。出発する前に私は出版社と契約し、150頁もある厚いノートを2冊を持って行ったが、1行も書かずに再び帰ってきたということだ。人々は、私が一抱えのノートを持っていると考えられるかもしれないが、残念ながら私の日記全体は1,000ほどの単語で満たされているに過ぎない
これは無責任な旅の芸術である。誤解を免れるために、私はそれが中国語の「浪遊 langyou」あるいは「とりとめのない漫歩の迸り」に合致するような英語の同義語を意味すると説明しなければならない。「浪 lang」は元来、お金や動作に関連して「揺れること」あるいは「撥ね返すこと」を示す「波」を意味していた。やがて、「金遣いの荒いこと」「遠慮のないこと」「無責任」「淫ら」という意味を帯びるようになった。ドラ息子は「浪子 langzi」であり、遠慮のない会話は「浪談 langtan」であり、淫らな女性は「浪婦 langfu」――彼女はただ周囲を揺れ動く――である。他方で、より素晴らしい詩的な用法もある。実際には、「浪談」あるいは何気ない無責任なとりとめのないおしゃべりは、多くの学者に当てはまるだろう。また、「浪遊」は陽気で呑気な無責任な、果てしのない旅行であり、自らの旅を自ら楽しんでいることを示している。アーウィン・エドマンの言葉を借りるならば、それは厳密には「哲学者の休日」である。だが、哲学者が休日に向かうには、困難が横たわっているように私には思える。
私が恐れている難しさとは、洗練された「自由人」(バガボンド)を得ることである。それは、過ぎし日の手本である。自由人は統計上の平均や社会保障政策について語りはしない。ところが、現代の放浪する特派員たちがほんの素材を収集するために旅するときには、それらが彼らの話すことのすべてであるように思われる。放浪と経済統計とは仲が悪いようだ。旅の芸術の衰退は、旅の書の堕落を列車に乗せてきた。中国のこれらの聡明な観察者たちは便箋と鉛筆を手に、科学精神と批判精神を伴ってあなたを実験台として観察する。そしてあなたは、デール・カーネギーと会って握手をするのと同じくらい、彼らの観察を恐れる。それは、単にあなたの友情を勝ち取るか、あるいはあなたの意見に影響を与えるかという彼の戦略に対する恐れからくるものである。あなたは少しためらい、観察され、首尾よく仲間に引き込まれるのを拒否する。これは現在、「購買抵抗 sales resistance」と呼ばれている。
中国のこれらの特派員とその他の観察者たちはぞっとするほど飽きれている。1つの事実に基づく誤りだけによって彼らを捉えることができないからだ。ニューヨーク・タイムズのブルックス・アトキンソン氏は趣を異にしている。彼には教養がある。私が確信しているのは、彼が自らの書く事実よりも自らの内にあるアリストファネスを愛しているということだ。彼からは人間味のある温もりを感じるが、それは彼がジャーナリズムの学校に決して行かなかったことに由来する。ミズーリ・ジャーナリズム学校やその他のいかなるジャーナリズム学校でも、「誰が」「何を」「いつ」「どこで」「どのように」、そして十分に知的であるなら、「なぜ」という事実を正確を報告することを教えてくれる。ともかく、「誰が」「何を」「いつ」「どこで」、さらに賢いならば「どのように」を解明することなしに、あらゆる社会学的事象の「なぜ」に答えることは明らかに難しい。いずれにせよ、「誰が」「何を」「いつ」「どこで」を手に入れることで、ジャーナリストになることができる。ジャーナリストたちの関心の所在がどこにあるか、私にはわかっている。それは、真っ直ぐに事実をチェックし、再チェックすることだ。もし彼が「事件は午前5時43分に起きた」と言えば、それは信頼に足るものであり、決して当て推量であるはずはない、そして、彼は漠然とした記憶ではなく、記録を当てにしているとあなたは確信する。あなたは彼を訓練された専門家として見ている。これこそは、学校で教わるジャーナリストのテクニックである。彼らのいずれにも、疑いを持たれていない人の外観、衣服、爪、母斑、動作を詳細に観測するシャーロック・ホームズと同じくらいのよく磨かれた、科学的に訓練された精神が備わっている。あなたは2+2=4であることを見て、そのまま報告すればよいのだ。だが、もしシャーロック・ホームズの想像力なしに推論することができるなら、その内幕の過程は、厳密には数学の足し算や引き算と同一視することはできないはずだ。失礼ながら、中国の報告をする多くの知的な旅行者と流浪の作家たちの書いた本には、日付や数字の正確性、精神の開放性、著しい批判力、そして分析の才能といったあらゆるジャーナリスティックな長所があるが、そこに加えなければならないのは、彼らの何人かは少なくとも首尾よく驚きの感覚から逃れ、多くは楽しむことを忘れているということだ。彼らは心の片隅で中国を感じ、心の片隅だけを使い続けたまま中国から帰ってきた。このことは、彼らが中国に旅行した意味は全くなかったということを意味する。
私が理解するところで、中国は現代のジャーナリストをせっせと教育している。それらには何らかの必要性がある。重慶に到着した数日後に、1人の中国人女性レポーターが私にインタビューした。第二戦線のメリット、ウィンストン・チャーチルの政治上の戦略、そのほか彼女がボランティアで国家機関に務めていることなどに関する彼女の会話を聞くのに、私は1時間を費やした。その間、彼女は非常に雄弁だった。彼女は私の意見やアメリカのニュースについては一切聞こうとはしなかった。彼女と別れたとき、私は完全にリフレッシュした。これこそは、私が今までに受けた中で最も快く、最もリラックスしたインタビューであった。衡陽には別のレポーターがいた。彼は発刊されたインタビューの中で自らの意見を自由に表現し、完璧に自分自身を報告するだけでなく、ウォルター・リップマン(アメリカの左派系ジャーナリスト)が誰であるかについて私を啓蒙しようとするほどであった。「リップマン」という発音がうまく聞き取れなかったとき、彼は私がリップマンの『米国外交政策』(U.S. foreign policy)を読んでいないと考え、目が輝いた。彼はウォルター・リップマンを私に教育しようという願望にとりつかれ、最終的にはジョン・スタインベックとアプトン・シンクレア(アメリカの小説家、社会主義者)について私を啓蒙しようとした。中国においては、ジャーナリストの技術上の何らかの改良が明らかに求められている。董顕光(国民党中央宣伝部次長)氏がジャーナリズム学校の事業を始めたことについては褒めたいと思う。しかし、このような学校では決して教えることができない、また、一般にジャーナリズム学校のカリキュラムに組み込めることができない、ジャーナリズムにおけるいくつかのもの、実際にはジャーナリズムにおいて唯一重要なものが存在する。すなわち、シェイクスピアや洞察力だ。優れた英語力を使いこなし、洞察力のある心を持っているなら、ジャーナリズムコースは必要ではない。また、たとえそうでないとしても、学校があなたの役に立つことはない。
だが、私は洗練された自由人について話している。この自由人は、異なった種類の存在である。彼は人々と話はするがインタビューはしない。彼の領域は気まぐれで自由な空想であり、彼の心は温かい。彼は人生の些細なものを見分ける力を持っており、たわいのない無駄話を語り、それらを聞くことを好む。彼には非常に生き生きとした歴史感覚があり、容易に逸話を思い出す。彼の歴史的な想像は過去のものを見つめ、そして未来の夢を映し出す。彼は木や幹を愛撫し、あるいは大きな枝が彼の顔を撫でて彼の気持ちを喚起する。彼は統計全巻よりも女性の顔やひそかな微笑を見る。家にいても彼は同じように微笑みや顔を見るが、旅行先においてはさらに一層それらを多く見ると同時に、奇妙な風景、古戦場、習俗が彼を内面から興奮させるだろう。そして、興奮が十分に強烈なものであるなら、彼は詩をひらめく。そのとき、彼の内面の主観と外面の客観的現象は融合し、感覚と個人の意向は手を携え、何か新しいもの、鋭くおもしろい何かとして一緒に現れてくる。そこにおいて、瞬間が永久に捉えられる。それは詩的な瞬間である。詩人が感じるこうした瞬間のスリルは、いまだかつて誰も感じたことがないようなものであると、彼と彼の読者が感じるほど強烈なものである。その瞬間は他に類を見ないものなのである。それは美的感覚、瞬間の完全性という感覚かもしれない。あるいは、それは悲壮感、孤独感かもしれない。または、それはさりげない、ユーモラスな、諦めかけたようなものでさえあるのかもしれない。しかし、瞬間はそのときから生き続け、忘れられないものとなる。彼は、自身の感覚的筆致によってそれらを加工だけであり、それ以上の報告はしない。
私に詩人の舌、歴史家の想像力、預言者のビジョンがあり、本書にそれらを詰め込むことができればどれほどよいだろうか! 故国に戻るのは、数千年あまり習俗が変わっていない人々と同居し、彼らの物事の捉え方を知り、彼らが生き残るための苦難と楽しんでいた平和を知るためである。そして、数年にわたって戦争を戦い、失敗と誤りを繰り返してもがき苦しみながらも希望を持ち、近代国家に生まれ変わるための決断をしようとする現在の姿をこの目で見るためである。これは、叙事詩に値するであろう。人は歴史と伝統、また変化と進歩の糸を感じる。それらは最も奇妙で混乱したかたちでやってくるが、人は何らかの明確なパターン、できれば平和、正義、幸福という美しいパターンにそれらを織ることを望んできる。考え方と感じ方において、はるかな古代と超・近代とがこれほど混同され、また対照的であり、裂け目が生じている国は中国以外にはない。若者は老人に対して性急であり、熱狂的で均衡を喪失している。そして、過去と未来を調和させようとする彼らを「反動主義者」呼ばわりしている。しかし、過去はそのすべての美、偉大さ、パトスによって彼らを支配しており、彼らはそれを理解できないに過ぎない。
私はいつくかの光輝ある瞬間、偉大な瞬間、美、そして悲哀に満ちた瞬間を捉えた。私は唐朝の宮殿跡に立ち、黄土の洞窟において女性たちが手織り機で羊毛を紡織しているのを見るために峡谷を眺めた。私は農村の女性が周朝の最初の首都の崩れた街壁を隔てた原野に腰を下ろし、安らかに彼女の子供を看病している姿を見た。その場面はわかることのないものであり、4,000年間決して変わることのない場面であると私の目には映った。私はこれらのもの、そして他のものを見た。
安らぎを与えるため、私は完全に庶民として、単に人生を観察してそれを愛するという散文のレベルに身を置く。私は英雄を賞賛し、罪人を許すことができる。しかし、真の自由人の知的極地には到達しないだろう。真の自由人は鉛筆の使い残りだけを持っていくが、私はドイツ製の4色鉛筆を持っていった。放浪は良いものだった、極めて良いものであった。そして、それによって私は成長した。思ったよりも長く歩き、高く登ることができた。桂林で1杯の缶コーヒーを探し求めたことは恥ずかしい出来事であった。私はそれなしでは生きることができないが、自由人はそうすることができるのだろうか? 自由人は、鉄道の一等車両では居心地が悪いが、私はウェンデル・ウィルキー(アメリカの政治家、1940年の共和党大統領候補)が西安にいたときにそうしたように、それに執着した。三等車両に乗るイギリスの若者たちがみな孤独であるのに対し、私は同情を感じた。香港が陥落したとき、かなり多くのイギリス人が内陸にやってきて中国軍と訓練を共にしたが、成し遂げることができないまま分散してしまった。彼は――私は自分自身に言い聞かせているのだが――真の放浪者だった。そして、完全に孤独な旅をする少年の精神と心の中では何が起きているのか、私は深く思案した。もし彼が天与の精神を持ち、バランスの取れた心を持っているなら乗り切るだろう。そして、彼の心はその経験によって豊かに成長するだろう。
そのような心は、自由人こそが持つべきものである。すべての真の自由人にとって不可欠な明るさと動物的な信念がそこにはある。彼は群衆であるにもかかわらず、いつでもそこから離れることができる。温もりと分離というその組み合わせが真の自由人をつくりだす。そして、彼の心眼は旅するビジネスマンや放浪する特派員よりも遠くを見ている。例えば、そのイギリス人の若者の心は何を見ることができのか、と私は考えた。彼は無邪気であったろうか? それでも、どこかへ行き、未知の人々を垣間見、出会う旅行という営為そのものが彼の心に影響を与え、好奇心を刺激するだろう。私が思うに、この旅の時代において、最も不毛な知性、最も想像力のない心が驚嘆しはじめる。
私自身に関する最後の言葉。差し迫った苦境にある私にとってそれは不可欠である。気づくと私は、悲観的でもなく、戦争疲れもせず、中国政府の戦争指導部に対して不忠実でもないという、可能性のない中国人の立場に立っていた。重慶のアメリカの情報源に発する陰気な、悲しげな、憂いに沈んだ調子は、私がそうあるべきであり、彼らのしゃがれ声と死んだようなこだまを共有すべきであることを勧める。さらに悪いことに、以下のページから私が共産党員でないことはわかってもらえるが、明らかに今日のすべての中国の自由主義者は共産主義者であり、国民党政府打倒を助けるべきであると見なされている。私はハーバードに行ったが、どこを探索されようとも、あらゆる全体主義と個人の自由への抑圧を心底から嫌悪する自由主義が私にはまだあった。たとえそれが、今日われわれが敬服せざるを得ないと考えているロシア型の全体主義であったとしても。10年前の中国「左派」との文学論争のとき、彼らはしばしば私を嘲笑った――思想の自由はもはや時代遅れであり、文学は党のプロパガンダの乗り物であるべきだとしたルナチャルスキー(ソ連の政治家、文筆家)の論文が最新の西洋の知恵である、ということを知らない「自由主義者」として。今日彼らが、アメリカ人と話しているために「自由主義」のラベルを要求するために戦っているのを見ると、少しおかしさを感じる。すべてのマルクス主義者が、「民主主義者」であり、「自由主義者」であり、親・資本主義者でさえあると主張しているという事実は、この戦争の最も驚くべき成果の1つである。私が無党派の視点に立ち、国内の不統一と延安および重慶における自由出版への抑圧に対し、厳しく攻撃しているという事実は当局を怒らせるだろう。
私は読者に対し、公明正大に私の去就を明らかにしなければならない。私は、自身の本を唯一の収入にしている独立した作家である。私は中国政府に雇われているわけではなく、それに対して責任があるわけでもなく、報告もしていない。以下のアメリカ側のゴタゴタのため、便宜上私は「公用査証」を所持している。1940年以前、私は「旅行者用パスポート」を所持しており、それは私が6カ月ごとに家族とともに合衆国領を離れるのに必要なものだった。1931年に国際連盟の公務でエリス島に送られたときに、48時間自由を失ったことにさえ用心したほどである。私が便所に行ったときさえ、制服を着た誰かが同伴しなければならなかった。私の中国のパスポートは認識されておらず、入管当局だけは関心を持ち、アメリカの査証はうっかり私を「旅行者」として分類した。現在公用査証を与えられている私の公的任務は「米中の文化的関係の研究」である。思うに私の実際の仕事は、私ができる範囲において中国の解釈を助けることである。中国における崩壊の力よりも、統合の力を支持するのを選択するかどうか、中国政府への支持を選択するかどうか――それは支持するに値するものであり、批評に値するその過ちを私は批評する――それは中国国民としての私の権利である。