旅についての叙述を終え、私の印象と論評を要約しなければならない時が来た。西北部の戦う中国についての印象は、私が南西部で見たものの典型であると見なされるかもしれない。私は南西部の旅についてのいくつかを前者の説明に取り入れている。南での旅の報告を続けたならば、現在の本の厚みがその倍になってしまうだろう。その後、私は南に行って昆明と桂林に3週間滞在し、多くの時間をアメリカの「Y」軍(連合国軍東南アジア司令部)と米国第14空軍を訪問することに費やしたことを述べるだけに止めよう。私はそこで、見事な米中の協力の精神を見る機会に恵まれた。理想的な事例としては、クレア・リー・シェンノート少将自身とその幕僚たちに代表される。彼は中国で最も人気のあるアメリカ人であり、いつの日か中国で伝説の男になるだろう。中国国民が彼を偶像化するならば、それは許されるだろう。私は湖南を通って旅し、長沙、岳麓、湘潭、衡山、衡陽、耒陽に止まった。そして、広東-漢口鉄道をたどって、広東の中心地・韶関へ向かった。私は広東省政府の李漢魂主席と湖南省政府の薛岳主席、そして、常徳会戦の英雄であり長沙の防衛者たちである副司令官の李玉堂と欧震、張徳能少将と話をした。私は貴州省を通って旅し、貴陽で1週間を過ごすとともに、貴州省政府の呉鼎昌主席や元清華大学校長の周詒春博士といった、有能で近代精神を備えた行政官と有意義な議論をした。私はそこで、ロバート・リム博士の指導のもと、軍医当局の救急医療訓練所を調査するのにかなりの時間を費やした。貴州省で、私はかなり若い母親である「彝族の女王」のところへ刺激的な訪問をした。また、私のスケジュール的に運よく、新年の祭りの間に行われる苗族原住民の魅力的な求愛ダンスを見ることができた。私は雲南の後進性と腐敗、貴州の貧困と先進性、湖南の富を見、広東でLi Hanhuen女史のもとで近代的な教育を受けた女性の優れた集団を見る時間をもった。彼女は中国で最高の孤児院を運営していた。そこでは孤児は自助を教えられ、巨大な救済計画として、700人の女性難民は自立するために与えられた機械で織物をつくる。私は無数の学生、労働者、兵士、教師、作家、主婦、行商人、タクシー運転手、レストラン・ウェイター、政党運動員、連絡将校、アメリカ軍の通訳その他と話をした。南西部でのおよそ2カ月の旅の後、私は重慶に戻り、そこで中国を出発する前にもう一度、孫科博士の家に滞在した。それらのことは、残念ながら本書を離れて、今日および将来に中国が直面する問題と論点について、より重要な議論をするための部屋を用意しなければならない。私はそれらについて、ただ中国軍についての私の個人的および派生的な知識と、中国の社会的・政治的再建の一般的な問題に関する背景を提供するだけに過ぎない。
この旅の後、国民の強みと弱み、国を復興させる見通しという双方の点において、10年前に私が『我が国土と我が国民』において書いた中国の社会的・政治的構造の描写が、まだ概して有効であると感じた。兆候の多くは慢性的であり、戦争と封鎖によって悪化する兆候と、回復と新しい組織の再構築による身体の活力との間には均衡があった。私は再び、中国に対する信頼が揺らがないと主張する準備ができている。
この戦っている中国の現実的な評価が求められている。愚かな検閲政策による軍功の誇張と犠牲者の隠蔽が人々の士気に悪影響を与え、自国に対する信頼の不足を引き起こしており、海外では美化したあるいは半分だけが本当の報告が行われている。
今日、中国が直面している問題は、(1)デモクラシーの問題、(2)統一の問題、(3)軍の問題、(4)工業化の問題に要約されるだろう。
(1) デモクラシー
デモクラシーの問題が最初に来るのは、戦争の先を見据えた時に、真に民主的な中国を保証することが、戦後の国際協力にとって非常に重要であり、勝利が確実となった今となっては、戦争に勝つことよりも大きな世界の関心事であるからだ。しかしながら、立憲政府の樹立が国家統一の必要条件であるとは私は思わない。というよりは、「内戦」の章において示したように、私はその遅れが共産主義者の反乱の真の原因であるとは思っていない。
民主的である、とは何を意味するのか? この頃では誰もが民主的であるため、我々はひどく混乱している。なぜデモクラシーは絶賛され、拍手を浴び、求められ、あらゆる演説する話し手と論説委員から賛辞を捧げられるのか? デモクラシーとは、平和、安全、正義を提供しないどんな政府もいつでも平和的にこれを解任することができる場合に限り、自由に選択された議会に彼らの権力を委任することによって、万民の平和、安全、正義は実現すると信じる国民の共同に基づく政治制度である。ジョージ・バーナード・ショーのような攪乱を好む者たちは、ムッソリーニ、ヒトラー、そしてスターリンを絶賛し、英国と米国におけるデモクラシーの存在を否定する。デモクラシーにとってそれは道化師のようなものであり、彼らが何人かいることは良いことである。だが、英国と米国の国民は、彼らを満足させない政府を平和的に解任し、わずかに改善されたより良い他の政府を組織することができる。そのため、国に対する意見と利害の衝突にもかかわらず、デモクラシーは平和を保証し、ゆっくりではあるが、安定した進歩の展開を約束する。それこそは、デモクラシーが政府の最も成熟した形である理由であると私は信じている。これを可能にするためには、国民自身によって樹立された国法の順守、そして、政府は国民の多数意志に敏感でなければならず、国民の意志を効果的にするための機械であるべきだという基本的な想定が、政府と国民の大多数の中で永続的に守られるような習慣となっていなければならない。私の好みではないが、権力と他者を支配することが好きで、自分自身を賞賛し、公約で頻繁に国民を騙す人間による選挙運動がこれに伴う。そのような人々が存在することに私は驚く。しかし、人々は異なるように生まれており、回答するよう質問状を送りつける他者に支配される階級に私は元々生まれた。彼らの家族の生活がそれに依存しており、彼らが本を書くことができないことを知っているため、私は時々、これらのお節介と愛想よく協力する。自国または一部の外国の政府であるかどうかにかかわらず、私は時々反抗し、権力者を突き動かすデモクラシーの衝動を感じる。したがって、デモクラシーが生き残る限りにおいて、基本的に私はデモクラシーの市民階級の一人であると私は信じている。
デモクラシーは、彼らの統治者を突き動かす民間の個人の固有の欲求を意味しており、何をするべきで何をするべきでないかを統治者に説く彼らの知恵の自由な行使を意味する。中国は民主制への道を歩んでいると言われており、私は筋肉をしなやかにしてそれを楽しもうと思う。中華民国とその創設者である孫逸仙に神のご加護あれ。それは私の知的筋肉を鍛えてくれるだろう。
戦前の10年間に、出版の厳しい検閲の中で、私は刑務所行きには至らないまでも、自分自身をしなやかにするために最善を尽くした。国民党は私には風紀を乱す思想があると思い、左翼作家たちは私が大衆の容赦ない抑圧を笑い飛ばそうとする単なるおどけ者であると思った。左翼作家たちが我慢ならなかったのはユーモアであった。『我が国土と我が国民』が海外でベストセラーになったことを聞いた一人の狂信的愛国主義者の当局者は、機転を利かせて私が「国を売っている」と言った。幸いなことに、彼は彼にふさわしいものを与えられたことを私は伝えることができる。彼は南京の傀儡政権の外相になったのだ。
戦時において海外の自国政府の批評をすることは適当ではないと反論されるかもしれないが、他方で、半分だけ真実の描写をすることによって、中国の主張が損なわれる可能性があり、また実際に損なわれた。真実の状況の正確な描写の発表を通じて、信頼が確立されればされるほど、それは我が国にとって良いことである。我が国が欠点でいっぱいなのは間違いないが、神がその欠点をお知りになり、修正するお気持ちになるだけ、中国は手を差し伸べるに値する。現政権は、西洋の国が大統領選挙において致命的な攻撃材料を提供するという大きな失敗と同じくらい、多くの失敗を記録している。活発で力強い野党との大統領選挙のように、中国政府は強く叩かれることを学ばなければならない。国民ではなく、政府自身がデモクラシーの覚悟をしなければならない。
それでも、中国の政府と国民はこの戦争における彼らの記録を恥じる必要はないと私は思う。中国共産党のための政治運動の熱が冷め、今から5年が経った後、貸し借りを精算し、すべての内部要因を検討し終えた人々は、彼らが途方もないこと、不可能とも思えるようなことを成し遂げたのだと知るだろう。中国および中国政府は、罪人というよりはむしろ罪に立ち向かう者であったことがわかるだろう。難しいのは平衡感覚と調和の感覚である! 重慶はすべて黒で、延安はすべて白であるとする現在の概念に同意することを拒否する賢明な批評家としての正しい立場を貫く時、私は大きなハンディキャップのもとで書いているのだということを知る。どうすればよいのか私にはわからない。現在、中国に供給されているアメリカの家父長主義的な忠告の輸出総トン数に対して、中国へのアメリカの援助の規模が逆比例しているという事実は、将来、無造作で不注意であったことを除いて、認識もされず、方針にも基づかない例外と見なされるだろう。
出版の自由は、法と憲法(政体)の制定よりも重要である。政府に対して反抗する方法を知らない国民は、デモクラシーに値しない。そして、デモクラシーの「うるさ型」を駆り立てることに恵まれない場合、世界で最高の政府はすぐに自らの長所に退屈するようになり、空虚のうちに死に絶える。神は、彼を称え、へつらうばかりの天使たちに嫌気がさし、自らを退屈から救うために、自らサタンを創造したのではないかと私は時々考える。天国でさえ、反対者なしには済まないのだとしたら、人間の世俗の政府はなおさらではないだろうか?
しかしながら、私は検閲官を弁護することから始めなければならない。我々すべての人間の中で、哀れみに値する地球上に存在するあらゆる種類のうち、第一はあらゆる時代と国の検閲官である。もし書くことができるなら、彼は検閲官ではないだろう。宦官のように、彼らはそれをどのようにするかを他の人に話すことができるだけである。彼らの公式の仕事は創造することではなく、破壊することである。彼らの武器は校閲用の青鉛筆であり、毎日それだけのものを「殺さない(費やさない、つぶさない)」限り、彼らは自らの存在を上司と妻に弁明することができない。「ねえ、あなた。今日は何を殺したの(何をして時間をつぶしたの)?」と妻が問う。彼は一日を無駄に費やし、勝負事は何一つなく、一つの形容詞さえ見つけることができなかったと妻に言うべきだろうか? 政府が彼に与えたものは何か? 熱心な記者が寝ずに一晩中かけて書き、完璧に磨き上げた原稿を傷つけ、歪め、ねじり、一般に台無しにするのが彼の仕事ではないだろうか? できることならば大物と対決したいという完全にもっともな願望が彼にはある。昼食の時に妻に向けて、今朝、バーナード・ショーまたはロバート・フロストに傷を負わせた、あるいはサムナー・ウェルズまたはチャールズ・A・ビアードを詰まらせたと話すことができるなら、どうだろうか?
私は検閲官を弁護する。すべての新聞社が述べるように、彼らの誰もが「馬鹿」ではない。彼らの一部は全くもって知的な人々であると私は断言することができる。彼らは限られた知性を持つ人間にとっては不可能な仕事に従事しているに過ぎない。何が通過するかを決定することは、非常に微妙な問題である。時として検閲官は、多くの知的な人が意見を異にする主題である人々のモラルを保護しなければならない。時として彼らは、GI(アメリカ陸軍兵士)が大統領選挙の大きな争点について考えることを防ぎ、次の4年間、国を統治するであろう政府を無垢な状態で選択するよう、必要不可欠なまっさらな情報を提供しなければならない。私がアメリカの軍検閲規則を正しく読んだならば、彼らは、考えることが何もないのであれば思想の自由を守り、話すことが何もないのであれば言論の自由を守ることを望んでいる。
しかし、米国の出版の自由と中国の出版の自由との間には違いがある。たとえば、アメリカ軍が禁書にしたビアードの『アメリカ合衆国史』、E・B・ホワイトの『One Man's Meat』、サムナー・ウェルズの『The Time for Decision』、カサリン・ドリンカー・ボーエンの『オリンパスから来たヤンキー』『Atlantic Monthly』の場合には、二、三の新聞社説が吠えはじめ、議会はこれを取り上げて状況はすぐに修繕された。政府は世論に応えたのだ。これが真のデモクラシーの良いところである。アメリカの一般の意識は、この行為は間違っており、長いデモクラシーの伝統に反すると認識した。中国においては、近代の出版は新しい制度であり、そのような伝統はなく、国民党はその設立に真剣に立ち会わなかった。すべての政府は時々子供のように行動する傾向があり、自由な出版に愚か者と呼ばせることによって利益を得ることができる。中国政府はこの利益から自らを閉め出してしまっている。
海外の電信に対する検閲と国内の出版に対する検閲との間にも違いがある。重慶における外国人記者の特電に対する検閲は、米国からの中国人記者の特電に対する検閲ほど悪くはないと私は思っている。重慶からの海外特派員たちが良い話だけを中国から外に出し、国の批判を抑えることを望んでいると中国の検閲官は公然と認めたと、彼らは戦う雰囲気で断言する。そうした特電が敵に横取りされ、プロパガンダに使われてしまうという正当な理由から、アメリカの検閲官もまた、国の悪評をもたらしている中国の通信社のニューヨーク特電あるいはワシントン特電の発表を控えた。重慶に住んでいる中国人は、アメリカの真実で完全な姿を知ることができないのだ。これが戦争であり、常に手加減が加えられる。
戦時検閲の必要性を心に留めておくとしても、私はなお、中国において出版の自由が戦争の間に不当な範囲にわたって悪化したと主張する。私は中国で多くの作家と編集者と話し、彼らが不必要な制限に苛立っているのを発見した。私が桂林で、非常に教養ある記者に対し、デモクラシーの基礎は自由権であり、アメリカの編集者が役人の行為を批判しても、自由権の保護のために誰も彼らに何もすることはできないと話した時、彼は眼を大きく見開いた。実のところ、私は中国において、当局を非難した罪で禁止令が出たり、罰金を科せられたり、刑務所に入れられたりしたという編集者について耳にしなかった。だが、すべての新聞の原稿が前もって検閲官に渡されるため、いずれにせよ、これは起こりようがないのだ。全体的な検閲によって、職業作家に抑制の感覚と一般的な不満を引き起こさせることは、どんな利益をもたらすだろうか?
検閲と愚行との関係はよく知られている。すべての新聞、雑誌、書籍は出版の前に検閲官に提出されなければならない。新聞の場合、これはすべての報道発言の承認に対して責任を有するという憎むべき立場に政府を置くことになる。外国の同盟国の行為の批判の場合、中国の外交は出版の自由として表れる中国の世論を参照する権限を奪われる。さらにまた、検閲官は数人の政府の権威者、党、軍に対する責任を持つ公務員であり、すべての官僚と同じように、彼らは残忍な校閲用の青鉛筆という武器を使う側として、用心深く行動することを好む。検閲官は文学をプロパガンダに利用する傾向があり、著者は彼らの作品を愛国的な決まり文句に賛同するものに変えなければならない。私は劇作家からそのような不満を聞いた。同じ状況に置かれたどんなアメリカ人劇作家もそうしたと同じように、彼は検閲にひどく怒っていた。検閲官自身がまだ高校を終えていない18歳の子供であることを劇作家は知っていたため、これはより耐えられないものだった。多くの場合、全く無害で無関係な語句が抑制され、苛立たしい露骨に愚かなものになり、全国民が日曜学校に通わされていることが示唆された。一旦検閲が行われるならば、人々が何を読み、何を考えるべきかを許可したり禁止したりする家父長主義的な精神を逃れることは難しい。
実際には、ソヴィエト・ロシアの人々がそうしたように、中国国民はそれを読んだ時にあまりにたびたび繰り返される言葉に退屈し微笑む以外には、それに慣れてしまった。仰天させられるのは、正式なスピーチをするとき以外は、公的な場所でも個人の家でも、人々が政府の行為を自由に批判しているということである。彼らは「北京官話」を耳で聴くことができる。「すべて」の新聞と書籍の原稿の必須の提示は不健康な空気をつくり出すが、これは検閲官が政府処置の批判の「すべて」を抑えているということを意味しない。私は1940年に、三国時代の曹操を引き合いに出し、委員長の「頭」を「人々の心を静めるために借りてくる」よう示唆して、「価格安定化委員会」の失敗について批判した「大公報」の社説を見た。このような内政についての時折の率直な批判があった。今回の重慶においても、経営悪化する公共機関に対する容赦ない暴露や、価格統制、工場閉鎖、輸送状況を批判するかなり多くの記事を読んだ。
共産党機関紙「新華日報」は延安でより多くの自由を与えられた。私は2月に重慶で、しっかり検閲を通過した梁寒操・(国民党)中央宣伝部部長自身に対する攻撃、梁の応答、応答に対する新華日報の応答、そして梁の最終回答をこの新聞で読んだ。それは完全に無意味なこじつけから始まっており、出版に値しないものであって、国民党の新聞であれば間違いなく抑圧されていただろう。ビルマおよびその他の地域での連合国の戦争捕虜に対する日本人の残虐さに関する英国下院でのアンソニー・イーデンの声明についてのコメントで、梁はそうした残虐さが中国人に知られていないわけではなく、中国人はそれに「ショックを受けない」と述べ、明白な言葉で日本人の非難を続けた。新華日報は、これらの残虐さに個人的に苦しんだ多数の人々に対して彼が無関心であり、「ショックを受けない」ばかりでなく、それを聞いて喜んでいるかもしれないと皮肉っぽく示唆した。これは新聞紙上で続いた愚行の類である。政府に対抗して話す能力は、大人のデモクラシーの印である。一部の中国人はまだそれを学んでいない。
私がここで見聞きした出版の状況は、多くのアメリカ人がうわさから想像しているほど悪くはないと私は考えている。しかし、それのために、検閲が利益よりも多くの危害をもたらすと私は考える。アメリカの場合のように、編集者が自分自身を検閲し、自分自身で決めたくない時だけ検閲当局に相談することを任せられるならば、新聞内容が大いに変わるだろうとは私は思わない。これが、検閲規則が改正されなければならない理由である。1944年夏から、政府がその愚かさについに目覚め、検閲が実際に大いに緩められたということを知って私は嬉しく思う。
国民政府の全体的な性格は家父長主義的であって、私はそれが「ファシスト」であるとは思わない。それは家父長主義の悪のすべてを有しており、人々の思考と行動を導き、方向づけることを気にし過ぎて、人々が自分自身を導くようにさせることには十分気が回っていない。しかし、それに思想の統制や恐怖と暴力の原則という悪があるとは私は思わない。家父長主義的な体制のもとでの人々の反応は、迷惑あるいは静かな遊びの一種である。全体主義支配のもとの人々の反応は、ひそひそ話、秘密の恐怖、怯えた服従、政府への盲目的な満場一致の賞賛である。家父長主義の悪は改めることができるが、全体主義の悪はそうではない。後者の確かな証拠は、延安に行けばわかる。
まさしくその名が意味しているように、「訓政期」においては家父長主義はある程度は回避不能である。それでも、そのような訓政が宣言された狙いは、人々に自分自身を統治することを教え、すぐにでも人々があらゆる面で自分自身を統治し、彼らの声が聞き容れられるのを可能にすることであり、早く結果を見ることができるということである。国民党のリーダーシップのもとにおける、」この家父長主義的な保護指導による特定の肯定的な結果を認めなければならない。人々は新しくて望ましい国民(国家)意識を持つようになった――平均的な1人の人間が三民主義に対するより良い理解を持ち、国家再建の計画を知っている。間違いなく、政府は前例のない戦争を通して国民を導き、彼らに自信と国の誇りという新しい勇気を与えた。もしこの戦争の間、中国がこの強い国民政府ではなく、フランスのそれのようにより民主的で統一性に欠けた政府であったならば、戦争の前線はとっくの昔に分断され崩壊していたのではないかと私は疑う。人々はあまりに長い間、保護指導されてきた。中国国民は政府に関与することを十二分に願っているが、ヴィクトリア女王が天国に召されることを拒否した時のエドワード7世と同じくらいに惨めであると感じている。
中国が必要とするものは、権利章典の即時の施行である。より少なく国民を家父長主義的に甘やかし、より多く国民の言論・集会・信仰の自由に注意が払われ、「人身保護令」が実施されるのを私は見たい。個人の尊厳とともに生きる成熟した、自尊心を持った個人の存在だけを意味する用語として、デモクラシーはしばしば不十分であると私は確信している。確かに中国国民は、多大な個人の尊厳を備えた、成熟した自尊心を持った個人である。その結果どうなったかと言えば、中国の政権はしばしば堕落し、堕落が深刻化して反乱と流血の無駄な過程によって政権が打倒されるまで、成熟した自尊心を持った個人はそれに対して何もすることができなかった。法的保護のない個人の道徳的な尊厳は十分ではない。個人が裁判なしに逮捕され、法律に訴えることができない時、明らかに残された個人の尊厳はあまり多くない。
中国の編集者が本質的に、アメリカの編集者よりも個人として自尊心が少ないわけではない。それでも、彼らの精神に影響を及ぼし、彼らの気風を円熟させる何かがある。ニューイングランドの農民よりも、彼らは習慣的により少ない権利しか持っていない。デモクラシーはまさにその違い、つまり、法に従っている限りは、この世の何人たりとも彼に触れることはできないということを意味する。彼は頭を高く上げ、大きな声で話し、さらには胸を張る。彼は全く誰も気にしない。私が言ったような、全く誰も気にしないというこの性質は、中国人に生来のものではない。法を執行する役人がまだ彼の肩をつかんでおらず、平和な生活を追求する場合でも、彼は法的保護を享受できないことを知っており、大いにそのことを気にかける。その後、彼は頭を低い状態に保ち、より物腰柔らかく話し、より賢くなることを学ぶ。誰にも危害を与えず、忍耐強い勤勉さと倹約と単調な骨折り仕事によって生計を立て、隣人とともに彼の家族と平和な生活を楽しむようになる。ある意味で、彼は民主的な個人である。しかし、組織化された政治的デモクラシーという意味においては、あらゆる人々が彼の権利を支持し、彼らのために戦う気になっているところで、彼は自由ではない。
したがって、権利章典は効果的な政府が備えるべき最も重要なものである。民権の保護が実施される時、国民は民主的になることを学ぶ必要がなくなる。中国の国民がデモクラシーの準備ができていないと言われる根拠はない。権利章典が実施されていないという限りにおいてのみ、彼らは準備ができていない。国民はいつでも、罰を受けることなく、若干の効力で当局を弾劾することができる。そうすることができるほど、彼らは十分に民主的である。官僚が法律の側に立ち、弾劾される準備ができているならばいつでも、国民は彼らを弾劾する準備ができている。法律の範囲を越えて何人たりとも彼に触れることはできないという確信とともに、腐敗した不法官僚を暴くことができるのであればいつでも、編集者たちは彼らを暴く準備ができている。国民がそうすることができる時、そしてこの精神が存在することができる時、真のデモクラシーが訪れ、国家の毒が洗い清められる。出版、言論、信仰、集会の自由は、デモクラシーの基盤である。
出版の自由が、今すぐに実施できない理由はない。検閲は、軍事機密または敵が望む情報の漏洩を抑えることだけに限定することができ、また限定されなければならない。法律の条文よりも、検閲法の解釈に依存する。自由権の保護は過去に繰り返し宣言され、数年前に起草された憲法草案にも取り入れられた。1944年7月15日に、8月1日に有効となる「人身保護」の新しい法律が公布された。それでも、実際の事例が起こる時、この法律の施行を注視する当局の渋りを通じて、それは死文となる可能性がある。私が言う当局とは、いつでも違法な逮捕の事例や人権侵害が発生するかもしれない市または省の当局を意味している。民政と軍の管区はしばしば重なり合っている。地方自治体は人権についての考えがしっかりと確立され、万人に認識されるまで、段階的な教育の過程を必然的に経なければならず、それによって再び一般的な基準にまで高められる。
デモクラシーへのあらゆる前進において、民権の施行が基本的なことであるということを示すために、中国が憲法を公布し、正式に最も開明的な法律を採用し、市・省・国の民選政府を設立することを我々は想像することができるだろう。実施において、身体の自由や出版の自由に対する保証がないならば、そのような政府が本当にデモクラシーの性格を有するようになるとは私は思わない。たとえば、自由権それ自体の保証は憲法の一部である。特定の省では、不法に編集者を罰し、逮捕しようとする政府があると考えられる。そのような憲法に反する行為の唯一の救済策は、編集者の自由は守られると主張する統治する者の自由である。つまり、言論の自由の維持でさえ、言論の自由に依存する。また、一部の当局は、巧妙な操作によって自らを選ばせ、その後に法律を犯すか、彼らの公約さえ破り始めるようになると考えられる。政府からその乱用を除くために当局を非難する自由が保護されていないならば、政府の正直を維持することができるとは私は思わない。最終的に、我々は中国が真にうまく機能するデモクラシーになると仮定してもよいかもしれない。そうなったとしても、そのようなデモクラシーは用心して、絶えず守られなければならない。何よりも最初に民権を持ち、これを強く主張することができない限り、国民がそのデモクラシーを守っていくことができるとは私は思わない。
しかしながら、中国における憲法に基づく選挙の過程の設立は、より複雑な問題である。中国がなぜ憲政をすぐに宣言しないのかについて尋ねる批評家の言葉は、単純に聞こえる。最初に一般的な地方自治体の基礎を建設せずに、紙の憲法の宣言と選挙に関する仕組みの設立を不当に強調する人々は、悲しげに自分自身が幻滅を感じるのに気づく。中国が立憲政府を持つべきだと強調する声はあまりに大きく、権利章典を即座に実施すべきだと強調する声はあまりに小さい。
一般的な政府の基礎を建設する準備において、中国政府は疑いなく誠実である。無学の確率が高い人々が自治の選挙をするための仕組みを手に入れるということを考える時、問題の大きさを理解する。国民政府はゆっくりとだが、しかし、整然とそれに取り組んでいる。第一に、最も熱心なのは、戦争にもかかわらず、戦争の間を通じて推進された教育プログラムである。この戦争期に読み書きを教えられた人々の数はおよそ5000万人と見積もられている。100の戸(家庭)からなる「保」ごとに「国民学校」が、郷鎮ごとに「中心学校」が、県ごとに少なくとも一つの中学校があると思われる。私はこれらの学校を見た。その質は決して望ましいものとは言えないが、ともかくそこには学校があった。第二に強調すべきは、下からの地方自治の構築である。これは若干知られている「新県制」と関連しており、戸長が甲会を選挙し、甲長が保民大会を選挙し、保長が区(郷または鎮にあたる)民代表会を選挙し、区(郷または鎮)長が県参議会を選挙し、県参議会が「県長」を選挙し、またこれを罷免することになっている。したがって、最初に必要なことは、地方自治体の職員の訓練である。何という仕事であろうか! 現在までの5年間、地方自治の方法と任務の訓練を受けるために、すべての省において次々に人々が訓練所に送られ、150万人の訓練生がこの教育を受け、そのうちの70%の人々が実際の地方自治で活躍している。基層の単位は省の訓練所で訓練され、省政府の職員たちは重慶の中央訓練所に送られる。ここで再び私は、当局の手順に従ったそのような訓練の有効性を疑う。しかし、少なくとも政府は、莫大な歳出を使ってそれを真面目にしている。自治は下から始まるものであるため、理論的には、大多数がそのような民選の省政府になるまで、訓政期は終わらない。実のところ、これまでどの省政府も、そのように下から設立されたり選ばれたりしたことはなかった。しかし、党と政府が厳かに誓約したため、戦後に憲政期を遅らせることはできない。
第三に、制憲国民大会が、実は1937年11月12日に開催される予定になっていたが、その時に戦争が起きた。ニューヨークおよびその他の地からの中国の代表は、すでに大会に出席するために選ばれていたが、それが戦争によって延期されたため渡航を取り消した。大会は1936年11月に開催される前にも、すでに1度延期されたことがある。国勢調査もなく、地方の民選議会さえ存在しない状態において、国政選挙を実施することは当然のことながら困難を伴うものであり、延期は理解されるものでもあった。戦争が停止して1年以内に国民大会が招集される時、地方選挙の過程はまだ完全に機能しておらず、したがってそのような大会は慌ただしい仕事になると私は確信している。憲政期が正式に開始した後でさえ、よりひどく頭を痛めることが存在しており、中国の民主制は形式においては成熟しても、実質においては成熟していない。
私自身はそれを軽蔑するが、おそらく選挙運動の機構は、組織化されたデモクラシーの必要悪である。アメリカで選挙運動を見るたび、私はデモクラシーに対する信頼を失う。私はそうなってしまった。しかし、デモクラシーの精神はどこか他に存在している。他人に利用されることのないデモクラシーの市民の慣習法を、彼らの日常生活において実践する自由人の精神にそれは存在している。それは思想と信仰の自由な空気を呼吸し、他人の思想と信仰に寛容であり、そして、ともかくも人間本性の基本的な寛大さに対する信頼によって、政府に公益を追求させることができる人の精神に存在する。この自由な気風にとって、権利章典は第一の基盤である。
デモクラシーは、統治する側にとっても、統治される側にとっても学ぶのが難しい。本質においてそれは、統治する多数派の能力と、多数派を批判しこれに従う少数派の能力とを意味する。通りで遊んでいる少年や一つのアパートを共有している3人の女子事務員の小さな集団においてでさえ、デモクラシーが意味するのは、こうした単純な思考の習慣でしかない。残りの集団から統治する側として選ばれたに過ぎないということを忘れ、与党がその行動への批判を抑圧する傾向がある時、その程度に応じて非民主的となる。少数派の集団が多数派に従うことができず、これを逃れて別の一団をつくろうとする時も、非民主的になる。国民党が出版の自由を通じて批判の自由を促すことができない限り、それは間違った方向に動いていく。また、中国共産党が党利党益を克服し、戦時においてさえ残りの国民と団結する気がない限り、最も基本的なデモクラシーの習慣を学ぶことができない。我々が予想したよりも勝利は目前に迫っており、中国はすぐに憲政期を開始する見通しであるため、国民党と反対勢力の双方が速やかにこれらの単純なデモクラシーの性質を学んだ方がよい。民主政体の外形は何も意味しない。ヒトラー以前のドイツ共和国、ムッソリーニが出現する前のイタリア、そして最終的に崩壊する前のフランスにおけるデモクラシーの歴史は、我々に次のことを教えてくれている――人間の政府で最も素晴らしい形態は、協力の行動という最も得難い人間の美徳、自制によって和らげられた闘争、フェアプレーの感覚によって抑制された利己的行動、そして団結(統一)に従う論争を必要とする。国民党は自由の権利を確実に実施し、反対勢力の権利を尊重することによって、自らが民主的であることを示す絶好の機会であり、中国共産党は国民の多数の意志に従うことによって、自らが民主的であることを示す絶好の機会である。非倫理的な戦術が使用されるならば、過去にそうしていたように、政府は地下組織に対して地下組織に頼って闘う以外に方法がない。中国共産党員は、党の上に国家を置くことをまだ認めていないため、彼らは再び離脱して分離派政権を設立した。一党独裁を廃止し、民主的な党になるという彼らの宣言された意向が誠実であり――今も生きていることを私は望む。
中国の発展途上の民主制の諸相について、孫科博士と議論する機会が私にはあった。国民党の強力な自由主義の指導者としての彼の地位は、よく知られている。我々は中国政府への外国の批判を議論する多くの機会があった。批判が正当化される場合には、中国の過ちを認める正直な勇気が、そして、多くの外国の批判がしばしばそうであるように、それが不自然で馬鹿げたものである場合には、それを話題にして笑う能力が彼にはあることがわかった。戦争終結の1年後に憲政期を開始するという決定の後に、政府によって設立された憲政実施協進会の先頭に立っていたことから、特に彼に興味を抱かせた一つの話題があった。すべての政党が代表として出ているこれらの会議において、すべての政党が三民主義に忠誠を誓う場合、複数の政党が存在することができるのかという問いが発せられた。その問いは明らかに、多くの活発な議論の対象となる。西洋のデモクラシーの実態を徹底的に知り尽くしていた孫科にとって、問題は単純であった。異なる綱領を持ちながら、異なる党が同じ基本的なデモクラシーの信条を持つとしても、すべてのデモクラシー国家においては野党が必要不可欠であることについて彼は示した。そして、彼らを納得させて彼は非常に満足げであった。
これはあらゆる中で最も重要な問題だと思われることに我々をいざなう。中国の民主政体の基礎としての三民主義の妥当性について問う者は少ない。あらゆる党に右翼と左翼がいる。孫博士は国民党が「左に戻る」最も重要なものとしてそれを想起した。中国の立憲政府が樹立されるとき、国民党にとって最も好ましく、望ましいのは、左派が自ら買って出て農民と労働者の福祉を支持することであると私は確信している。中国共産党は、彼らのすべての誤りとともに、一次生産者の主張に一般民衆の意識を導くのに役立った。そして、現在流行を追って自らを「左翼」に仕立てあげているが、中国共産党に入党する気はない中国の広範な青年層は、そのような綱領に引きつけられている。結果として、そのような運動は国民党を蘇らせる。ニューヨーク・タイムズで報告されているように、1944年8月27日に孫博士は国民党本部で訓練生に対して次のように言った、「党にとって最も重要な任務は、中国に真のデモクラシーをもたらすことである。我々は間違った軌道から出て、左に戻らなければならない......。我々は本来の道に戻り、自らを真の革命家であると誇りをもって宣言しなければならない」。また、「この任務に対する責任は我々自身が担わなければならない。現在、共産党は野党だが、もし我々が前に進まなければ、彼らがそうするだろう」と言った。
そのような左派がどのような綱領を採用するか、私は予言する立場にない。しかし、三民主義の三つの原則の最後の一つである「民生」、つまり、一般国民のより良い豊かな生活の原則を強調する切迫した必要が党にはあるという確信を私は感じている。人々が国民党の「反動的な」傾向について話す時に彼らが意味しているのは、経済および政治の感覚において、農民と労働者と一般国民の権利を強調することができなかったことを、党の記録が全体として示しているとういうことである。国民党の中国において、私はまだ中国の一般国民が非常に大切な個人として強調されるのを見聞きしたことがない。彼らの幸せは国家が追求する究極の目的であり、彼らの投票は人気取りをする政治家の戦略である。どこにおいてもまだ、自らを重要であると感じている一般国民に会わなかった。中国の人々が「小さな国民」が重要な人々であると感じられるようになるまで、結局のところ、中国はデモクラシーの資格を得ることはできない。
したがって、三つのことが行われなければならないというのが私の意見である。第一に、権利章典が即時に、厳格に実施されなければならない。第二に、来たるべき憲政期への予備段階として、別々の軍によって後戻りしない中国のすべての政党に対して、憲法上の地位をすぐに付与しなければならない。これは、ヨーロッパに最終的な平和和解が訪れる前の暫定期間と類似している。いくつかの重要できない政党が存在するが、多くの重要な教訓が実際の政党政治の中で学ばれるだろう。政府はこのように疑う余地のない確固たる地位を占めており、中国共産党がその私軍を統一された国軍司令部に手渡す用意があるならば、いつでも他の党と同じ地位と特権を有する。第三に、国民党は自身の集団の中で活発な運動を展開させなければならない。それは「左」と呼ばれるもので、共産主義者の超急進的な綱領と競争して農民と労働者と一般国民の支持を得ようとするだろう。これは国民党内の「民生党」と呼ばれるかもしれない。そのような党の編成は、現在の国民党の指導者が取り得る最も勇敢で政治家にふさわしい行為である。