日本語版『林語堂全集』を目指して

編者解説

2012年12月08日 14:34

  本卷は『The Little Critic. Essays, Satires and Sketches on China, Second Series:1933-1935』(一九三五年、上海商務印書館)の全譯である。邦譯にあたつては、先人による既譯があるものについてはこれに依據し、未邦譯のものについては編者が新たに原文より翻譯を行つた。
  既譯としてはまづ、『Second Series』の幾篇かをその書中に含む吉村正一郎譯『支那のユーモア』(岩波書店)がある。收録されてゐるのは以下の十二篇である。

・「いかに中國人を理解すべきか」
・「バートランド・ラッセルの離婚について」
・「中國藝術の原理としての自然崇拜」
・「中國建築の原理に關する覺書」
・「藝術における箴言」
・「私は何を欲するか」
・「中國人の年齡」
・「ある菜食主義者の告白」
・「言論の自由について」
・「服飾倫理學」
・「我敢へて杭州へ行かず」
・「大晦日のお祝ひ」

  次に參照すべき既譯としては、土屋光司譯『愛と諷刺』(飛鳥書店)がある。本書は、林語堂のエッセイ集『With Love and Irony』の邦譯であるが、そこに收録されたエッセイのうちのいくつかは、『Second Series』とも重複する。これらのうち、『支那のユーモア』で譯されたものを除外するなら、以下の十篇となる。

・「ロンドンの乞食」
・「女性が世界を支配すべきか」
・「苦力は存在するか」
・「中國娘のために」
・「金目當て女を辯護する」
・「私の爲さざること」
・「我が庭の春」
・「バーナード・ショーとの對談」
・「安徽への旅行」
・「小鳥を買ふ」

  ただし、これら『愛と諷刺』に收録された同題のエッセイは、『リトル・クリティック』甲・乙兩卷の内容と必ずしも完全に一致してゐるわけではない。たとへば「ロンドンの乞食」について言へば、『リトル・クリティック』乙卷では、本題に入る前の導入部分として英國人の自尊意識と品位について觸れてゐるが、『愛と諷刺』では削除されてゐる。こうした相違部分、特にその削除部分については、英語の原文から編者が新たに譯した。

  この他、かなり修正された形ではあるが、のちに『My Country and My People』『The Importance of Living』の一部として再編されたものとして、以下の四篇がある。これらについては、英語の原文を主としつつ、適宜、鋤柄治郎譯『中國=文化と思想』、阪本勝譯『人生をいかに生きるか』(共に講談社學術文庫)を參照した。

・「中國を考へる」(のちに『我が國土と我が國民』卷頭言に收録)
・「中國服と洋服」(のちに『人生をいかに生きるか』第九章「生活の樂しみ」の「八 洋服の非人間性について」として收録)
・「いかに食べるか」(のちに『我が國土 我が國民』第九章「生活の藝術」の「三 飮食」に收録)
・「中國におけるエロス」(のちに『我が國土 我が國民』第五章「女性の生活」の「六 娼婦と妾」および「五 戀愛と求婚」の一部として收録)

  以上を除いた殘りの十四篇は、編者による譯が初邦譯といふことになる。編者の英語力の不足から、原文の意を盡くしてゐない部分が多數あることを恥ぢるばかりである。

・「次の戰爭」
・「ベーシック英語」
・「ピジン英語の擁護」
・「中國人の健康法とは」
・「良心に任せる」
・「私は兇暴である」
・「竈神の口を塞ぐことについて」
・「避暑地の必要性」
・「米國の小麥ローンをどうするか」
・「いかにして追伸を書くか」
・「サンタ・クロースの無意味」
・「サンタ・クロースへの忠告」
・「白晝夢」
・「やあ! シスター・エイミー・マクファーソン!」

  これらのうち、特に印象深かつたのは次の戰爭」と「竈神の口を塞ぐことについて」であつた。

「次の戰爭」は、一九三三年十月十三日に上海のセント・ジョンズ大學國際關係教會で行はれた講演で、林語堂はこの中で第二次世界大戰勃發の「豫言」をすると共に、その文明論的原因と戰爭のもたらす結果を探求してゐる。戰爭を不可避にさせる現代文明の「適應障害」について、それは「人類の科學的發明と工業發展が、人類の道徳的進歩を追ひ越してしまひ、品行方正な人間が科學者と足竝を揃へることができなくなつたもの」と總括した上で、具體的な四つの「適應障害」を提示してゐる。第一に、經濟的には密接に結合されてゐるにもかかはらず、政治的には國家主義的思考が續いてゐるといふ「政治的適應障害」。第二に、一國民としては文明化されてゐる同じ人間が、國際的には野蠻人として行動せざるを得ないといふ「倫理的適應障害」。第三に、世界があまりに組織化され過ぎてゐるために、外交官も政治家も、自らの良心に從つて戰爭を止めることができないといふ「指導者層に對する我々の傳統的訓練によつてもたらされた適應障害」。第四に、共産主義とファシズムに代表される「産業の危機」「民主主義の危機」「平和の危機」(林語堂はさう表現してゐないが、「資本主義の適應障害」と呼べるだらう)。
  この四つの「適應障害」の結果として、世界大戰が再び起ることを誰も止めることはできず、極東においては「日本が二、三年のうちに戰備を整へるだらう」と明確に述べてゐる。では、かうした悲慘な状況を治癒するにはどうすればよいのか。林語堂によれば、中國人が持つてゐたやうな(一)常識とユーモア、(二)道教、(三)腐敗だけがこの「適應障害」を治癒できるといふ。しかし、日本人も米國人もロシア人(ソ聯)も、この三つの要素を備へてをらず、戰爭を囘避することはできない。その結果、戰爭はどのやうに推移するか。長期戰のための食糧と原料物資の調達のため、「日本は中國の沿岸(たとへば山東、河北)を占領していく」。そして、中國の「南京政府は日本の飛行機の屆かない甘肅省のどこかに自らの居場所を見出す」。さらに、最終的には「次の戰爭の中から、日本が勝つた場合にはファシスト獨裁者と共に、ロシアが勝つた場合には共産主義政府と共に、中國は出現するでせう」と豫言してゐる。
  細かな相違點を無視して大局的に見るならば、その「豫言」は見事なまでに的中してゐると言へるだらう。ここに、我々は冷徹な洞察眼を持つた一流の國際問題分析家、あるいは稀有なジャーナリストとしての林語堂を再發見する。かうした時事問題に對する分析、殊に中國の將來に直接關はる國際問題に對する林語堂の分析は、その後の國共内戰、さらに下つて文化大革命に至るまで繼續する一つのテーマであり、この分野における林語堂の功績に對する體系的な考察が求められる。

「竈神の口を塞ぐことについて」は、家族の個人的行爲を天に報告する義務を負ふ竈神が、眞實を傳へられないやうにその口を塞ぐ、といふ中國の傳統的風習について述べた作品だが、この些細な風習を題材として、林語堂は「言論の自由」に對する壓殺が單に政府の横暴に由來するのではなく、より根深い「文化的背景」を持つたものであると主張してゐる。現代中國社會に通ずるこの諷刺を、林語堂はユーモアたつぷりに敍述してゐるが、却つてその病巣の深刻さを認識させられる。このエッセイと姉妹篇をなすのが、「言論の自由について」である。この中で林語堂はかう斷言する、「我々が人民のために要求する言論の自由なるものは、役人にしてみれば行動の自由を妨げられることを意味してゐる。この點を人は理解すべきであります。役人たちは我々が我々の自由を愛するのと同程度に、彼らの自由を愛してゐる。諸君が新聞の自由を求めるとすれば、それは新聞に口輪をはめる役人の自由を彼らから奪つてくれと言ふに等しい。憲法上の權利として國民の自由を求めるのは、役人たちから人民の首をチョン切る自由を取り上げてしまふことになる。この二つの種類の自由は正反對である。これは何とも致し方がないのであります」と。中國では、歴史上「言論の自由」を巡つて爭つた者たちは、常に政爭に敗れてきた。現代に生きる我々の運命も同じであると諦觀しながらも、傳統との相違點として、「我々が憲法上の原則として言論自由の原則のために戰つてゐる」といふことを、林語堂は強調する。そして、「新しい原則のために、原則はどこまでも原則として戰ふこといよつてのみ、この事態を變化させる何らかの機會があるでありませう」といふ希望を投げかけてゐる。この視點は、今なほ色褪せることなく、現代中國に自省を促してゐる。

平成二十四年三月二十五日
華本 友和

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